#3-5


 唐突な行動に戸惑いつつ、緒川がロジャーの先行きを見守る。まさか、と自然と身が強張り背中に冷たい汗が浮かぶ。――そのまさかだった。音もなく、中身がアスファルトに落ちた。大きさにしてみれば、一センチ程度の小さな袋がいくつか。小分けににされた小袋は全部でいくつあるのだろう、杖の中にまだ突っ込まれている分を含めるとしたら数えるのも億劫になりそうな程だ。

 透明なその袋の中には、同じく透明な結晶の粒が見えた。何を意味するのかは勿論すぐに理解できた。まるで汚物のように思え、緒川が思わず顔をしかめずにはいられなくなった。

「パケだ。これ、総額で五十万くらいの価値はあるね」
「パケ?」
「覚せい剤の入った、この小袋の事」

 手短に説明し、ロジャーが男を睨み据えた。薬、という漠然とした言葉ではなくはっきりと『覚せい剤』と彼は言い切っていた。この、もはや言い逃れは出来ない状況において、しかし異常とも言えるくらいに冷静なロジャーの様子を男はどこか薄気味悪そうに眺めていた。

「お……、俺の仕事に何か文句でもあるのか。俺はこれで金を貰って生活してんだからな、お前達養ってもらってる身分には分からねえかもしれないが」

 男は仕事、という部分を強調するようにして言った。つまりまあ、これが食い扶持で、生きるための手段なんだぞと。そしてそれはやはり自分達をムカつかせるだけであった。緒川の剣幕に臆したように、男は僅かに身を引いた。

「仕事、だぁ?……開き直ってんじゃねえぞ、オッサン! てめぇのせいで、全く関係のない沢山の奴がクスリ漬けになったんだぞ。知ってる事全て吐いてもらうまでは帰さねえからな」
「買ったのは飽くまでそいつの『意思』じゃないか、俺は奨めただけにすぎない。奴らはみんな自らの責任のうちで金を出し薬を買い、そして使ったという話だろう。そこに至るまでには使用者本人の決断があった筈だ、俺は何もそいつに強制して使わせたわけじゃないだろう。そいつらは『使わない』という選択だって出来たんだ」

 男が、本来の不遜な性格を取り戻そうとやけに自信に満ちた態度でそう述べ始めた。何だろう。……緒川は無性にこいつを殴りたいだけではなく腹の底から罵詈雑言を浴びせてやりたくなった。

「つまり自分は只仕事を全うしただけだってか?……本来ならお前がそんなもの売りさばかなければ良かっただけの話だ、犠牲になった人間はどうなる?――さっきからお前の都合ばかりだな、俺はお前の泣いて苦しむ顔が見たくなったぜ」
「ひいっ……」

 緒川が男の胸倉を掴むと、男はやはり怯えたように顔を歪ませた。

「お前が薬漬けにした奴らの末路は? 薬を買うのに金が周らなくなった連中は皆どこへ消えたんだ!?――その中に俺の友人もいるかもしれねぇんだよ」
「緒川くん」
「……んだよ!?」

 ロジャーがぽつりと呟いて、たしなめるように緒川の肩を掴んだ。頭に血がのぼっていたせいで、やや口調が荒っぽくなってしまったが、まぁともかく。

「多分……多分、そいつは単なる使い走りの下っ端ヤローだ。薬の運び屋ってだけで、恐らく深い部分までは関与していないよ。残念ながらね」
「……何だって?」
「そうだろう、辻本サン。……あなた、本職は医者――なんですね」
「!?」

 名指しされた男の方は勿論だが、緒川も同時にぎょっとしていた。また。またか。またもや心を読んだかのようなロジャーの精神攻撃に、そしてそれは見事に当たっていたのだろう。辻本と呼ばれた男は、唇をわななかせ絶句していた。

「しかも精神科医か――、本も何冊が出してるみたいだね。博学な教育者とあろう者が、裏じゃ人の心を取り扱いながら善人の顔をして薬の売買か。……泣けるねぇ〜」
「っ……、み、見たんだな、さっき荷物を漁っている時に……!」
「過程はこの際どうだっていいだろう、今重要なのは結果だ。――緒川くん、こいつでは役に立たない。揺さぶったところで僕達の欲しい情報には辿り着けないよ。これ以上構うのはもう時間の無駄だ」

 次々と言い当てられ、顔面蒼白となりへたり込む辻本を無視するよう、ロジャーはくるりとその場から踵を返してしまった。そして、その手にはしっかりと応酬した覚せい剤の山が握られていた。

「な、ちょ……」

 おいっ、と緒川が言いかけてロジャーの背に手を伸ばした。ロジャーは緒川ではなく辻本に向かい、言葉を続けた。彼は余力も残されていないのか、商売道具なのであろう、覚せい剤の袋を取り返そうとする様子も見せなかった。

「――あ。逃げてもいいけど、貴方もう逃げられないよ。この辺しっかり包囲されてるし、うまく逃げ切れたとしても医師免許剥奪、もう仕事続けらんないね。……さて、奥さんと子どもにどう説明する?」
「!?」

 辻本は呆けたように口を開け、ロジャーをまるで理解できないもののように見つめた。緒川の方はもう全く見ていないようだった。構いもせず、ロジャーはすたすたとその場から歩き出していた。その背後を慌てて追いかけ、ようやく追いついたように緒川が言った。

「な、なあ……っ、あんたマジで……本当に――」
「緒川くん。君の目的と僕の目的、もしかしたら同じ場所で繋がるかもしれないんだ」

 歩ませていた足を止めるのと同時に、ロジャーは振り向く事もせずに言った。

「君の探している真島明歩ちゃん、と……それから上原千秋くん」

 明歩の事は先に知られていたようだけど、何故上原の事まで知られているのか分からず、話した記憶もなかったのですぐに戸惑い、そして言葉を失った。それから、ロジャーは振り返り何故か申し訳なさそうな顔つきで告げた。

「少し歩こう、人目につかない場所まで」
「ん……あ、ああ」

 言葉では説明せず、ロジャーは例の薬を視線で指しつつ言った。それから彼についていった先で、彼はそれらをかき集めて(何十万はくだらないとされる程の価値があるんだとか。売人たちにとっちゃあ宝の山であろう、自分にとっては汚物の山にしか見えないけど)とっとと火を点けていた。

「も、燃やしていいのか? それ。空気中に散布されちゃったりしねーの?」
「クスリの処分は焼却処分だからね、一応。麻薬として使う時に炙るのとは熱量が圧倒的に違うし、焼却しても分子構造的にクスリとしての効能は果たさないよ。ていうか、普通に警察に渡す方がいいのかもしれないけど……近頃、中にはキナ臭い奴も潜んでいるみたいだから」
「キナ臭いって?」
「売人ルートから裏で繋がって、しれっと公安側に紛れ込んでる奴もいるみたいでね。手渡したブツがきちんとうまく渡ればいいけど、そいつらに横取りされてしまっても困る」

 全員が信用できるかと言われたら、そうじゃない場合もある――という事か。思っていたよりも随分とややこしい事態になったものだ。

「ごめんね。さっき君とキスをした時、勝手に色々と覗かせてもらった。君の抱えている思いや葛藤も……何となくには理解した。それで――確信できた。きっと僕なら君の力になれるかもって」
「……覗かせてもらった、って……?」
「昔からね、そうなんだ」

 不意に話を切り、ロジャーは同時にこちらへと振り返った。炎の爆ぜるぱちぱちという音が吹きすさぶ風の音に混ざり微かに耳に届けられた。

「人間。動物。植物。……生きている者だけじゃなく、死んだ人間も」
「――?」
「魂が宿る存在、全部。僕にはそれらの声が聞こえる。……だから肉や魚が食べられない時もあるんだけどねー、これが」
「……」

 信じられない、と、普段ならそう言っているところだろうがもはや否定する気にもなれなかった。勿論、今まで起きた事が全部全て用意された役者と舞台で、何とこの茶番には台本があったんだよ! なんて可能性も――いや、もうそんな話があるわけないだろ。変な可能性に期待するな。
 さっきの売人の話じゃないけど、自分は確かに『選んだ』わけだ。このロジャーという男についていく事を。固唾を飲み、緒川はロジャーを見つめ返した。

「昔から、ずっと助けを求める声が聞こえるんだ」
「……え?」

 脈絡なく話し始めた言葉に、緒川は勿論そんな反応しか返せなかった。しかし、続きに耳を澄ませていた。

「男なのか女なのか、定かではないし、一体その子がどこにいるのか分からないけど。同じように苦しむ誰かの独り言だけが僕の頭に時々流れ込んでくる。……僕が……僕が誰かの意識を読む時は、僕自身の意識を集中させる必要があってね」
「ん……あ、ああ、うん……」
「それで、僕自身この力を色々と制御したり、使いどころを選べたりと能力との付き合い方を学んでは来たわけなんだけどさ。……それでも、その時々聞こえてくる誰かの『声』の正体だけは分からなかった。時々ふっと聞こえてくる、泣き声みたいに消え入りそうな小さな声だ」
「……うん」
「――僕はその子を助けたい。力になりたい」

 けど、どこにいるのかも分からないのに?
 そう思ったが口には出さずにいた。すると、ロジャーが一つため息を吐いた。その顔は笑っているようにも、また何かに悲しんでいるようにも見えた。

「緒川くん、改めて言わせて頂く。君の問題が解決するまでの間だけでも構わない、僕と組もう。……僕がその子を救う為にはきっと――君と協力し合えばもっと事が楽に運べる」
「ゴメン。俺、頭悪いし交渉だとか何だとかは苦手なもんで、馬鹿な言い方しかできないからそこは許せよ」
 
 前置きしてから、緒川が苦笑交じりに続けた。

「――どうしてそう言い切れる? 俺があんたを裏切らないって保証はどこにもないだろ。それに、あんたが俺の心を読んだなんて聞いた手前、俺は少なくともアンタに不信感を抱いたんだけど」
「勿論、そう思われるのは知っていて僕は全部話した。僕からの隠し事は一切君にはしたくないからだ。……けど、それでも君は僕を裏切らない。そう判断したから話しただけの事さ」
「……」

 君が僕をどう思っていようとも、僕は君を信じている。
 要約するとそういう事か。
 そこでようやく、緒川は先に質問していたのはこちらだったことをふっと思い出していた。

「緒川くん、俺は君を利用するつもりでいる」
「……え……?」
「この意味が、分かるかい? 僕は見ての通りで、君のように腕っぷしは自信がない。格闘技の心得なんかないし、屈強な男共に殴り合いに持ち込まれて勝てる気なんか全くしないさ。――だから、その時は君任せにするつもり、っていうコトね」
「そ、それは――まあ、言っちゃえば俺が普段一人でやってるような事と変わらない……ってわけだよな?」
「ん、まあそうだね。で、逆に緒川君も『僕を利用すればいい』んだよ。僕のこの能力と君の格闘センス。合わせたら最強の向かうところ敵なしにならないかい?」

 今までの話を併せて考えると、つまりまあ……本当に、彼には本来聞こえる筈のない人の心や声が聞こえるんだとする。そうするとロジャーはきっと、自分なんかとは比べ物にならないくらい人の醜い暗部やら本音やらと否応なしに向き合ってきたわけで。
 多感な時期の子どもが、そんな汚い感情を理不尽に浴びせられて彼は一体どういう思いを抱えてきたのだろうか。――まあ勿論、その能力の全てを信じているわけじゃない、むしろ半信半疑だという事はうっちゃって。

 ロジャーが今しがた、『利用』だなんて穿った言い方をしたのも何となくには頷けた。だが――、緒川はふっと肩を竦めつつため息を漏らしていた。

「……、いいけどさ一個訂正してくれないかな?」
「え?」

 そこで初めて、ロジャーの自然な、作っていない表情を目にした気がした。

「利用だなんて言い方はやめて、『協力し合おう』って言い方にしないか。お前が俺の考え方を全部読んだってんなら、尚更。計算したり、あれこれ考えたうえで成り立った関係とか、そういうの苦手なんだ」

 ロジャーはしばしきょとんとしていたが、すぐさま破顔させたように微笑んだ。負けを認めたように肩を竦め、口の端を上げて笑った。



「……そうだね。僕ももう少し、素直になろうか。緒川くん、どうか僕と協力してほしい。君の力が必要だ」