#3-4

 ロジャーは訳知り顔で「ははぁ」と顎辺りに指を添えて、それから少しだけ腰を持ち上げた。それから、酒やら返り血で何だかグショグショ気味のパーカーのジッパーを下げそれを脱いだ。パーカーの下は予想通りに制服だ、明歩と同じ『桐峯高校』のもの。チェックのズボンと、きっちり締められた同じくチェック柄のネクタイ。流石は白人体型、何だか妙に英国チックでオシャレな感じがするのは彼がなせる賜物なんだろうか。

「んん、っと。……アレだな。ここからもうちょっと行ったとこにある『ミューズ』って店だね」
「え……何でそこまで特定できんの?」
「緒川くん、君も付き合ってくれよ。男一人では何かちょっと恥ずかしいからさぁ〜」
「……? ん、ま、まあ元からそのつもりではあるが……」

 足を進めるロジャーの背中についていきながら、緒川は(アレか、男一人でオシャレなカフェとか入るのは何か気恥ずかしいってヤツか?)とまあそんな風に考えつつ。クラブの店員が慌てて飛び出してきてロジャーの肩を後ろから引いた。さっき暴れ回ったチンピラ共程ではないが、まああんまり堅気商売っぽくはない見た目の男だった。年齢は二十代後半から、三十代にさしかかるかくらい……の年代だろうか。若くも見えるし、若く見えて結構年齢は行っているというタイプかもしれない。

「お客さん、あんたら人の店で――ッ」

 あんたら、という言い回しから言って緒川の事も含まれている筈なのに男の視線はどちらかというと腕っぷしの弱そうなロジャーの方にしか向いていない。が、ロジャーは振り向きもせずポケットからサッと何かを一枚取り出した。男の眼前に突きつけるようにしながら。

「今これしかないから、コレ、とりあえずすぐ払える額。足りない分はこのメモの先に連絡しといてくれ」
「……?」

 緒川はそれでまず「げっ」と唇をしかめずにはいられなかった。くるくると賞状のように丸められた万札の束。輪ゴムで止められていたが、まあ十万以上はあるか……? それでもこの弁償代には追い付かないだろうけど、続けざま男が受け取ったメモには一体何と書かれていたのだろう。
 それで、メモに記されているんであろう連絡先の主を確認するなりに、男の顔がサッと青ざめたのが分かった。

「っ……! も、申し訳後ざませんでし……でし……でし……で、で」
「あー、いやいや、むしろ謝るのは僕たちだから。ごめんねー」

 小刻みにブルブルと震える男の肩をポンと一つ叩き、ロジャーはさっさと騒動のクラブを後にした。緒川もよく分からないが、まあとりあえず、その後に引っ付いていくことにした。益々このロジャーという男の素性が分からなくもなったが――自分よりも寸分、事態について把握していそうなのでここは黙って従うのがいいような気がした。

「えぇと……、名前……。そういや、何と呼べばいいんだ?」
「ロジャー、でいいよ。みんな呼び捨てでそう呼んでるし、まあお好きにどーぞ、緒川くん」

 途端に、ぺー、と呼ばれていたのが懐かしく感じられた。同時にあいつらの顔も思い出した。――上原。明歩。……。二人と並んで歩いたあの帰り道を、もう一度取り戻したかった。あの日々も、出来る事なら再び送りたくもあった。かけがえのない、互いに尊重し合い他愛もない会話を繰り返していただけの、あの平凡な日常たちを。

「――で、そのカフェってのは……?」
「カフェ……っていうのかなあ? うーん……。あ、そこのビルの六階だね。入ってるの」
「……って、お前コレは」

 テナントの名前を見てもどれも『会員制サロン』だの『ガールズバー』だのと、明らかにそっち系じゃねえか? いわゆる、いかがわしい系のお店がズラリと。学生さんお断りのような気がしないでもないが、やや引いた顔で緒川がロジャーを見つめた。

「こ、これのどこに喫茶店が……?」
「こーれだよ、コレコレ」

 トントン、とロジャーが指先でつついたのは『カップル喫茶・ミューズ』の文字である。かっぷるきっさ。ほーん、と緒川が肩を竦めつつ目を細めた。

「えーとつまり、リア充が行く場所ってか? カップルがデートに使うようなオシャレなカフェテラス的な?……にしちゃあ治安……? が……? 何かちょっと……」
「……君は見た目だけがイキりボーイだから仕方ないよな」
「っ!?!?!?!?」

 何。何だよいきなり会って間もないのに、その蔑んだ目つきと、見下すような発言は。信じられないといった具合に緒川がロジャーを見つめ返すと、ロジャーは腕組みしたまま、感慨深そうな顔つきで謎のため息を吐いた。

「えーと。まあハプニングバーみたいな感じじゃないのかなあ、流石の僕もこんな乱れた遊びは滅多とした事がないからねぇ。ていうかこんな場所に行かずとも僕の場合は――いやいやまぁそんな話はどうでもいっか今は」
「いやッ、いやいやいやいやいやいや、待って待って! 何なの? このカップル喫茶ってやつは一体何なんだっつーの、そこからまず分かんねえし」
「ようはぁ、おセックスする場所だよ。……彼女や彼氏を変えてスワッピングみたいな事も店に寄っちゃオッケーみたいね。男単独の入店は基本NGなもんで」
「お、おせっ……!?!?」

 いやはや。益々、分からなくなりそうだった。今。なんて。何と言ったんだ、こいつは。エス、イー、エックスの事を指すのか。あの入れたり出したりする行為の事か。

「で、この中にその売人とやらがいるのなら僕たちはとことんまで追い詰めるべきじゃないのかなあ。ってね。……ルールは店によってまちまちだけど、この店、男一人は駄目だけど同性愛カップルなら可……みたいだし。緒川くんと僕でカップルって事にしてここはひとつ」
「ままままま、待て待て。俺にそんな趣味はないぞ、つまりその、ら、ら、ラブホテルみたいなもんだよな!? 学生が入っていい筈が……」
「情報が欲しいんじゃないのかい?」
「む、無理してそんなリスクでけー事しなくてもいいだろうが! 出てくるの素直に待とうぜ、ホラそもそも俺ら未成年じゃん!? つーか学生不可って書いてあるし!」

 白熱して店の前で叫び散らす緒川とは対照的に、ロジャーは随分と余裕そ〜うに髪の毛の枝毛を指先でチェックしている。

「まあ緒川くん、キミ童貞だものな」
「はっ!?」
「守りに入るのも分かるよ。僕もかつてはそうだったからね、でもそーゆーのって早く捨てとかないと後々面倒になるんだよ。貞操観念っていうかさ〜、女の子ならまだしも男でしょー、君はさー。初めては好きな人とヤリたいとかそういうクチ? それ、ほんっと寝言。僕そういうの嫌ぁ〜い」

 出かかった言葉をねじ伏せるように、ロジャーは緒川の腕をさっと取るとじゃれつきながら甘え始めた。猫なで声と上目遣い、澄んだ青色の瞳に見据えられて思わずドッキリしてしまった。いや、胸キュンとかそういうのではなくて、綺麗な天然ものの碧眼をこんなに間近で見たのは初めてだったせいで純粋に感動した。珍しくて尊い生き物を、すぐ傍で目にした時のような気分だ。

「僕と君は恋人同士ね、いいかい? 年齢云々に関しては任せておいて、僕この辺じゃ顔広いからコレでも」

 それは、まあさっきのクラブの顛末を見て何となく分かったけど。分かったけど、そうじゃないだろうと。色々ツッコミを入れたくてしょうがなかったのだが、ロジャーは有無を言わさぬ調子でこちらの腕を引っ張りさっさとその扉を開く。その動きに羞恥心やら躊躇やらは一切見られない。流石は海の向こうの人間、奥手な日本人とはわけが違うのだ。

 入店した瞬間、先程のクラブようなけばけばしいネオンライトとは打って変わりこちらはクラシックが流れていた。ブラックライトと、異国風のカーテンに包まれた内装は、和洋折衷入り乱れの怪しさ・胡散臭さが爆発である。なんじゃこりゃ、と呆気に取られていると二人を出迎えたのは燕尾服を纏った男性である。うっすらと微笑みを浮かべる、オールバックで小柄なその男性は年齢はよく分からないが、妙〜に肌つやが良い。三十代くらい……か? と、緒川はまじまじと男性を見つめてしまった。

「いらっしゃいませ」

 聞き取りにくい周波数で喋り出したかと思うと、男性は丁寧に会釈した。薄ら笑顔は張り付けたようで、まるでお面のようである。店内にせよ、この男の異様な存在感にせよ、もうとにかく全てに圧倒されたように緒川は萎縮してしまう。男ののっぺりした笑顔につられてつい引きつり笑いで返すと、男もまた微笑みを崩さずに(いやいや、目が笑ってねえぞコイツ)二人を見つめた。

「いらっしゃいませ」
「あ、は、はい」

 二度目のいらっしゃいませ、でようやく意識が戻るのを覚えた。しかしぎこちなく、緒川はほとんど苦笑を浮かべて二本指を立てた。

「に、に、二名なんでしゅが」
「当たり前じゃん、このドスケベ」

 受付の男性はにっこりと笑ったままで微動だにせず答えてきた。どう反応すべきなのか、どういう感情になるべきなのか、正解が分からないまま緒川が硬直している傍らでは妙に慣れたロジャーがすっと一歩前に出てきた。

「ごめん、これでいい? 身分証」
「お連れ様の身分証も――……、っ!!」

 途端、薄笑いの男の糸目がクワッと見開かれたので思わずびっくりしてしまう。緒川が「!?」と身を引いている前ではロジャーが相変わらずニコニコしていて、ほんとこいつ何者なんだと改めて彼にホイホイついてきてしまった事を後悔している。いや、大丈夫かこれ。

「こ、こ、こちらどうぞ……」
「悪いねえ」

 ロジャーが軽い調子でウインクを飛ばし、それからぼさっとしている緒川の腕を引いた。

「ほら、行くよ緒川君。ボンヤリしてないで」
「え、あ、は、はい……」

 仕切りの向こうでは――いやいや、開幕一番暗がりに見えたのは中年くらいの男女が抱き合い濃厚に唇を合わせている姿であった。男の方(割とかっちりとした身なりの、自分の父親くらいの年代だろうか)が女のブラジャーをたくし上げていんぐりもんぐりしているのが見え思わず「うっ」と引いたような声が出た。

「ジロジロ見ないの。ホラ、こっちこっち」

 それぞれの座席では年代様々なカップルが乳繰り合っている真っ最中だ。隣のテーブルではもはや何をしているのか確認するのも恐ろしい。さっきのスリリングさとはまた違う恐怖が、緒川(恋人いない歴イコール年齢)を襲う……。

「ご注文は何にしましょう……、っあ、あ、お代は結構ですんで……」
「いやいや、それはないでしょーよ。僕はウーロン茶でいいけど、緒川くんも同じのでいい?」
「ん、な、何でもいっす……」

 真後ろでは女の派手な喘ぎ声がアンアン聞こえてきて、緒川はその大柄な身体をびくっと震わせた。……いけない、もう色々といけないが過ぎる。もうほとんど全身を硬直させたまんまで席に座っていると、左のテーブルでは女が屈みこんでちゅぱちゅぱと何か致している。見てはいけないものを見てしまった。緒川はヒッ、と思わず怯えた声を出してしまった。

「あ、あれは、あれは、まさか、え・エロ動画でよく見る、ふ・ふえ、フェっ」
「緒川くん」

 乱れている、性が乱れている……ガクガクとわけのわからない恐怖に震えながら緒川がどう立ち回ろうかと目を白黒とさせていた時だった。その片腕をスッ、と掴みロジャーが目の前にまで接近してきた。

「――怪しまれるから僕らもそれなりに何かしとかなきゃ。ね?」
「へっ!?」
「……好きな子の事でも思い浮かべててよ。後は僕がうまくやるから」

 膝の上にロジャーが乗ってきたかと思えば、そこから流れるような動作でロジャーは挨拶代わりのようなキスを交わした。――あ、海外っぽい。って感心してる場合じゃねえけども。……緒川駿平、十七歳。ファーストキッスはまさかの男でした。

「ん、ンふ……っ、!」

 息継ぎのタイミングが分からず、ようやく解放されて目の前のロジャーを見ると、あの綺麗な双眸とぶつかった。ガラス細工のように澄んだ目だ、透明な海のような青色。いやはや、美しいけれども。
 明歩の笑顔が脳裏をよぎり、とてつもない罪悪感に襲われた。

「――、ゴムつけてあげるからちょっと待ってね」
「ゴム?……え、あ、え?」
「まさか輪ゴムと思ってないよね。流石にそこまで童貞では――、っと。あったあった、多分コンドームの着用が義務なんだよねー」
「ま、待って! それってつまりその、えと、い、入れるの?」
「緒川くん的にも十七歳で初体験……って響き良くない? あ、ちなみに僕の初体験は十四歳の時なんですが……」

 良くない、ってそれはお前の主観だろうがと言いたくなったが、まあ遅すぎず早すぎずの理想的年齢かもしれない、しれんけど! と、緒川は気付くとズボンの中に手を滑り込まされているのを知った。まさぐられている、というか犯られるのでは。

「お、お、お前、なにっ、そっちの気がある奴なの……!?」
「どっちもイケる方です」

 にこー、と微笑むロジャーにもしかして自分は騙されたんじゃ……なんて思わなくもない。というか、それこそ力技で逃げるべきなのかもしれないが、ロジャーはそんな心を見透かしたようにふっと笑った。

「ね。気持ちいいんでしょ? 僕の手コキ」
「っ……ん、しょ、しょれは……うっ、んッ……」
「――口でゴムつけてあげるよ、今」

 くちでごむ!? 緒川は更に全身が硬直するのを覚えた。このまま流されていいんでしょうか。上原、明歩、お父様、お母さま……。
 いやしかしこれは確かにいけない道に走ってしまう気持ちも分かる。自分でシコシコするよりも、人にやってもらうのって何倍も気持ちがいいものなんですね、と緒川はその快楽に抗えずにアヘアヘと目を白黒させていた。――ああ、思い出すなあ、親父の言ってたコト。試合前は絶対にオナニーするんじゃねえぞこの思春期クソ坊主!! って鬼のような形相で怒鳴り散らされた。
 何でも、男は性欲が溜まると凶暴になり力が増すが抜けてしまうと、途端に闘気が落ち腑抜け化するからだそうだ。……ああ、うん、しかしこれは魔性だ。今自分は最高に締まりの悪い間抜けな顔をしていそうだが、確かにヤバイ気はする。

「んっ……ふ、ッちょ、おま――」

 何かモノを申そうとすりゃあ、濃厚なキッスその先を塞がれた。流石は海外クオリティ、ディープキスなんて多分お手の物だ。舌先で歯列を弄ばれるだけで、免疫のない緒川は下半身がぞくぞくした――あ、やばい。チンコが……、とおかしな声が漏れ始めた矢先に、ロジャーがさっとその手を引っ込めた。

「っ、て、!」
「……ごめんよ、緒川くん。例の奴、多分あれだ」
「ふぇ……ッ」

 なーにが、ふぇ、っだよ! と緒川は中途半端に与えられた熱の影響もそのままに沈めていた身をガバリと起こした。お世辞にも座り心地のいいとは言えない安物のソファーの上、我を見失いかけたところで、緒川はお勃起しかけていたそれをとりあえず片して、キリッとした表情に切り替えつつワタワタと立ち上がった。

「れ、例の奴って、んえっ……」
「見つけた。……ちょっと意識が乱れて、探すの手間取ったけどやっぱりね」
「……、や、っていうか顔知ってたのかよ? 売人の。あ、やっぱ人間違いでした、とかだったら洒落になんねえぞ!」
「いや、顔はよく知らないけど――あいつだね」
「多分って、イヤお前ッ……」

 根拠は、証拠は、と次々問い詰めてやりたいのにだらしない下半身のせいでアヘアヘとしかならずに今一つ情けない。
 が、ロジャーはさっきまでの妖艶な態度はどこへやら、フライングエッチマンの顔から険しい探偵のような鋭い顔つきになっていた。こちらはまだ、こんなにも本能に忠実で残念な状態だというのに、こいつはひどい差である。――しかし、まあ……彼にはきっと揺るぎない勝算があるからこその発言なのだろうけれど。

 熱に浮かされた頭で何となくさっきまでの彼の姿を思い浮かべてみる。クラブでの乱闘騒ぎの時に、ロジャーの行動で救われた時の事。あの、まるで先の展開を読んでいたかのように次々と吐かれた言葉は何なのだろうかと不思議には感じていた。運が良かっただけ、とは思っちゃいない。ましてや単なる偶然だなんてとんでもないだろう。ロジャーが物凄い場数を踏んでいて、策士として優れている――と言われるとまあ納得できるようで、できない部分もあるのだが――

「なあ」

 ごくん、と一つ唾を飲み下してから、恐る恐るといった具合に問いただしてみる。

「まさかだけどお前、人の心が読めるんじゃ……ないよね?」

 その問いかけに、ロジャーはまたニコォーッと底知れぬ顔つきで微笑んできた。それは肯定の意味なのか、はたまた否定なのか、何なのだ。ロジャーはどっちつかずのにっこり笑顔のまま、親指をくいっと持ち上げてあちらの方向を指差した。質問には、答えず、か。――その指が向かう方向を見ると、四十代くらいの男がソファーに腰かけ、その前では服装だけ見れば若い格好をした女が膝を突いて何やら致している。
 ちょうど、今ロジャーが自分にそうしたような事をしているんだろうと思う。
 気になったのはそっちよりも、男は脚を怪我しているのだろうか? 松葉杖を傍らに置き、深々とソファに腰かけた状態で女性にご奉仕してもらっているようである。

「今のうちにそれ、さっさと抜いちゃって。あいつが済んで出て行ったら、即追いかけよう」
「……え?」
「何? まさか、見ててくれなきゃイケないタイプ?」

 尋ね返してくるロジャーの実に冷たい瞳といったら。青色相まってなのか余計に冷え冷えとしたものに映り、興奮しかかっていたソレもしゅんとしていくのが分かった。っていうか、それはなくないか。あんまりじゃあないか。
 どこかサディスティックな響きを伴うような声つきと目つきで、ロジャーは一層蔑むような調子を出してきた。

「ホラ、とっとと扱いて片付けてくれないかなぁ? 逃がしちゃうじゃん、ぼんやりしてたら」
「て、てめぇ、こ、この……何、何て事……」

 そう言ったきり、ロジャーは本当にこちらには興味を失くしてしまったのかこちらに背を向け、例の男の方に注意を向けてしまった。……何という……言葉が出てこない、とはまさにこれぞ。何故か無性に腹の底から叫び出したくなってしまう、緒川駿平くんじゅうななさいであった。

「!……動きそうだな」

 そして、そんな彼の葛藤なぞは勿論どうでもいいのだろう。ロジャーは少しだけ身を起こすと目を細めながらその男を視線で追う。

「お、追うのか……!?」
「ああ。店を出るみたいだ、僕達も行こう」

 不承不承、というのが正しいのか、どういう言葉で形容するのか正解なのか。緒川は少しモタつきつつもロジャーに言われた通り、それに従う事にする。
 男は片方を水商売風の女に支えられ、もう片方は松葉杖を突いた状態で歩いているようだった。女の方は若干酔っているのか、どこか虚ろな目つきで足元もおぼつかない。これは単純に男を支えるのに力んでいるからなのかもしれないけれど。

「――あいつが」

 それは自然と声に出てきて、胸の奥がざわついた。まだ決まったわけじゃないけれど、その男が上原や明歩に何かしたというわけではないけれど、それでも穏やかではいられなかった。

「けど、本当にそうなんだろうな」
「信じてみない? 僕の力」

 パチッ、とウインクを決めるロジャーに、もうこうなったらとことんまで付き合うしかないのだろうなと思わされてしまう。……いや。言い訳はしない、付き合うしかないんじゃない。自分が決めた事だ。ロジャーを信じてみよう、これは自分の意思決定だ。

 店を出ると、男女の背中を気取られぬように尾行する。人ごみもまばらで、二人は更にこれからホテルにでも行こうというのかそういった店の立ち並ぶ通りへと向かうのが分かった。女の方はもう完全に泥酔しているように見え、さっきは女が男を支えているのだとばかり思っていたが――これはどうも逆だ。男が、泥酔しているのがグッタリと歩く女を支えるようにして脚を進めているようである。

 人気がないのを確認し、男が女をホテルに連れ込もうとしたのを見計らって緒川がすかさず飛び出した。男の前に回り込むようにして飛び出すと、初めて正面からその顔を捉えた。若作りしているだけで、思っていたよりも結構オッサンだった。

「待てよ、コラ!!」
「!?」

 男は反射的に女を庇うように片手で抱きしめたが、それは守ろうというよりかは隠しているように緒川の目には映った。

「な、……っ、だ・誰だお前は!?」
「そういうお前は、ヤクの売人さん?」

 緒川の問いに男は間髪入れず、女を思いきり投げつけてきた。反射的に女を抱き留めて庇う形になり、緒川はそのままコンクリートの上に尻餅を突いた。それでも目覚めない女を見る辺り、これは酒ではなく薬でも盛られたのか――と、確信した。

「お、女投げんなよ、信っじられねえ!!」

 ひとまず女性を寝かせ、はっと正面を向くと、男は既に懐から取り出したのであろうナイフを構えていた。が、その手がぶるぶると情けないくらいに震えている――「く、来るんじゃねえぞ、刺すぞ」。
 へっぴり腰状態で構えるナイフからは、殺意のようなものは感じられない。威嚇、牽制といったところか。

「み、見ての通り俺は怪我人だぞ……社会的弱者をお前は急に襲いやがって――」
「何でナイフなんか持ち歩いてんだよ、つうかこの女の状態オカシイだろ! 明らかに酔ってる通り越して異常だろうが、白目剥いてっし!」

 立ち上がりながら緒川が男を見据える。男はやはりナイフをこちらに向けたままだが、死人のように瞳孔が開いているのが分かった。

「おかしなクスリを売りさばいてたって聞いたぜ、てめぇ――オマケに売る相手は選ばないんだってな? 売った相手をヤク漬けにして、自分の客にでもしてたのか」
「……っ……しょ、証拠はどこにあるんだこのクソガキ……」
「――諦めな。もう逃げらんねぇよ、この変態クズ野郎」

 緒川が男との間合いを徐々に詰め、逃げ場を奪う。男が大事そうに胸元に抱えていたバッグを見やり、緒川は途端に胸にチリッとした苛立ちを覚えた。ナイフなんかはもう気に留めていなかった。それを持ってこちらに向かってきたところで、さしたる脅威でもない。

「――何だ。それに詰まってんのか? 大事な商売道具が」
「ち、違う……俺は……俺は、ただ……」
「何が違うっつーんだよ、オラぁッ!!」

 上原や明歩がもしこいつに何かされたのだとしたら――と思うと、苛立ちはハッキリとした怒りへと変わった。激情に駆られ、思わず男の持っていた黒のバッグを分捕るようにしながらしがみついた。腕ごと奪うように掴みかかり、抵抗する男の腹を蹴り飛ばした。一応加減はしたが、それでも受け方を知らない一般人にすれば十分な打撃には違いない。

 下手をすると、もっとも折れやすいとされるアバラにヒビくらいはいったかもしれない。思った通りに結構なダメージがあったのだろう、男は悲鳴さえ出さず容易く吹っ飛んだ。肺を病んだ老人のように、男はその場で激しく咳き込んだ。哀れだとも思わず、無視してそのまま奪い取ったバッグを開けた。

 スマートフォンが二つ、そしてその充電器、財布、鍵の束、革の手帳に安そうなボールペン――、それから、ああこれは多分アダルトグッズってやつか。男性器を象った、エグいあのマシーンとピンクのファーがついた手錠(の、オモチャ)、真っ赤な色の縄、何かよく分からない拘束具のようなもの……さっきまであんな店にいておきながら、眩暈がしてくる。

「か、返せ、お前ら訴えてやるぞ……な、なにも出てこなかったら、傷害罪で……」

 喘ぎ喘ぎ男が言うのを、徹底して無視した。鞄を逆さにし、床に全てが散らばったが一目見て薬物だと分かるような見目の物体は見当たらない――、手当たり次第に漁り散らす緒川は完全に冷静さを欠いているように、ロジャーの目から見て思えたが。ともかく。

「っ……、ンな馬鹿な……て、てめぇ――そうだ、別の場所に隠し持ってやがんな!」
「ヒイ!! お、俺は怪我人だぞ、傷病人相手にこんな不当な暴力を働きやがって……っ」

 焦れたように、いよいよ緒川は男のスーツの胸倉を掴みにかかった。傍目から見れば確かにその通りでしかない、怪我人を甚振る悪人の構図だろう。

「ぼぼぼ、暴力には屈さないぞ悪ガキめぇ! お、俺はなあ〜いい弁護士も知ってるんだからな畜生! 傷害罪に名誉棄損罪と恐喝罪を上乗せして訴えてやる、ガキと言えども容赦はしねぇ……っ」
「怪我人怪我人、ってその割には結構平気そうに女の人支えて歩いてたよねえ〜」

 それで、そんなやりとりに背後から飄々と口を挟むのはロジャーであった。突然現れた西洋人に男は勿論の事、鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンとしていた。が、すぐさま再び口を開いた。

「な――何なんだ、お前は?」
「そういう貴方は、あぶないおじさん?」

 舐め切った口調で返し、ロジャーが肩を竦めながらにっこりと微笑んだ。言いざまロジャーは男の持っていた松葉杖を奪いにかかった。男が抵抗したが、緒川も一緒になってロジャーに加担すると、あっという間に片付いた。結果から言うと、杖を失くした状態でも男は平気で立っている。……怪しい、益々怪しい。

「てめえ、平気で立ってんじゃねえか! 病人のふりしてんじゃねえよ、タコ!!」
「い、いたたたたたっ、お腹痛い、お腹がっいたいっ、いったぁあい!」
「もはや脚関係ねえじゃねえかコラ! ぶち飛ばすぞ!!」
 
 立てっ、と緒川が男を掴んで無理やりその場に立たせる。隣でロジャーは奪った松葉杖を握ったまま、言葉を続けた。

「……、それで? どこに隠し持ってる?」
「何の事だかさっぱし……そ、それに、治りかけだったから歩けるだけで脚を痛めていたのは違いないですしやっぱり悪いのはそっちなんじゃないかと思いまふ」
「まーだしらばっくれる気かい。だったら実力行使――かな?」

 実力行使。つまりは……と緒川がロジャーを見やると、彼は持っていた松葉杖を両手で握り締めたままずんずんと男に近づいていき、それから据わった目つきで彼を見た。これが最後の警告だ、と言わんばかりの目つきだった。

「ヒッ……」

 ロジャーが怯える男目掛けて松葉杖を振り下ろすと、松葉杖はすぐ背後の電柱に命中し真っ二つに折れた。緒川も驚いて一瞬身を竦めたが、ロジャーは間髪入れずして割れた柄の部分に指を突っ込んだ。それから、屈みこんで折れた杖を逆さにして振る。