#5-5

 それで、木崎はやはりさして表情を変えずに言った。

「――アンタの方が楽しめそうな気がするよ、隠さなくったっていい。相手を再起不能にするのは手慣れてるんだろう?」
「……」
「しかしまあ話を聞く限り君達はどうにも万全な状態じゃないみたいだね。中途半端にここに放り出されたっていう部分は信じるよ、その点については同情もするし理解はしてやるつもりだ。何より、俺にとって排除すべき完全な敵……というわけじゃなさそうだから、条件によってはこのまま見逃してやってもいいさ」

 そこで初めて、ようやくのように木崎は構えた。……先程は取らなかった構えだ。下半身は前屈立ち。指先に力を入れ、左手を下方に置き金的攻撃に備えているのだろう。右手は上方で構え、顔面ひいては頭部への攻撃を防ぐ為のものか――。この動きは何だろう? 空手か何か……それもかなり演武に近い動きを取り入れたような――、混濁する意識の中、ネームレスが導いた誰の者かも曖昧な記憶。
 掘り起こしたのは、朧げな景色だ。梢と、その隙間から漏れる光とがロールシャッハテストのような複雑な柄。島国かどこか、海の見える場所で一人、この動きに似た構えで何か踊りのような武道を練習している男を見た……ような記憶がある。はっきりと思い出せないのが歯がゆいが、彼の提示する条件というのはつまり――。

「お前を倒せ。そういう事か」
「話が早くて助かるよ、いっそここで殴り合いでもした方が上にも報告できるから色々と都合いいんだ」

 何やら御託じみたことを並べているが、とどのつまり自分が暴れたいだけなんだろう。ネームレスは目を細め、彼の拳を見つめた。その構えは恐らく――自分が今隠し持っているショットガンへの攻撃にも備えている。そう、彼は見抜いているのだ。自分がこのショットガンのトリガーを引く事はないと。だが、体術を織り交ぜた刺突用の武器として使用する可能性については見据えているに違いない。

 頭の中でノイズが走る。記憶が混濁する。――どこか、脳内の片隅で知らない声がする。いや、或いは知っていた。知っていたのに、自らが忘却してしまっているだけの存在。無意識のうちに自身も構えを作ると、先程化け物と戦った時の事を思い出した。

 まるで時の流れが止まったかのように、二人は動かない。お互いがお互い、構えたまま停止している。ベイビードールは壁に背中を預けながらその成り行きを見守るしかない――よもや木崎の背後を取ろうなんて浅はかな考えはとうに捨てていた、彼だって全く心得がないわけではない。あの構え方からいっても、今自分が奇襲をけしかけた所でまかり通るはずもない事くらいは理解していた。廻り込もうとしたが最後、即座に裏拳……或いは最悪後ろ回しぐらいのカウンターは貰いそうだ。

(――しっかりやってくれよ、運び屋さん……)

 とりあえずしばらくは応援係に徹するより他ないだろうか。……もう少しこの木崎という男の実力について探らねば、彼に勝てる道筋も見つからない。

「ごめんね、俺も仕事だから。仕事である以上は務めは果たさなくちゃ」
「……御託はいいんだよ。そんな事を言ってお前、結局は楽しみたいだけだろう」

 言いながら、ネームレスは見逃さなかった。それまで何の感情も見せなかった木崎の瞳の奥、ほんの僅かに生温い輝きが帯びたのを。――口元には、狂気を含んだ笑みが隠しもせずにはっきりと浮かんでいた。根っからの戦闘狂いか、殴られすぎて頭のネジがイカれているのか。自分を試したい、自分の限界を見たい、出来るなら敗北を知りたい。ツブシの利かなくなっているとんだイカれた野郎だが、同時に純粋であるとも言えるだろう。

 気付くとネームレスは彼の言葉に同調するよう、自身もまた笑っているのに気が付いた。

 どうやら自分には彼を責める権限もない。むしろ自分もその立場に近い者なんであろう事を、今しがた受け入れていた。拳をきつく握りしめれば自然と血が沸くよう、全身が高鳴った。――そうだ。俺もきっと、そうなんだろう。お前と同じような人種なのかもしれない。記憶を失くす前の俺とお前が会っていたらもっと違う展開も待っていたんだろうか。

「言っておくけど容赦はしないよ、宣言しておくけど試合外の戦闘において禁止ルールはないと見做しているから」
「安心しろ、何か姑息な真似をされて卑怯者だの何だのと訴えるような真似はしない。……そんな女のような顔と細腕で何が出来るのか見物だ、さっさと裸に剥いて上司のところに送り返してやるよ」

 一秒一秒が長く感じる。先に動いたのは、こちらの方だった。拳を振るうと、その先にはもう木崎の顔はなく、彼は二撃目もあっさりと読んだようにかわすだけであった。それならば、と放った膝蹴りも掌底で受けられてしまった。
 木崎は右の半身を大きく捻り、裏拳からの一撃を繰り出していた。気付くと自分が、まるで空気の抜けた人形のように床にへたり込んでいた。

――何だ……?

 今自分は何をされた?……ああ、そうか。殴られたのか。って、何寝ぼけてるんだ、俺は。
 その思考に至るまでに数秒を要した。立ち上がらねば――ボサボサしている時間が勿体ない。考える暇さえ与えられるでもなく、起き上がる。無心で拳を振るう。しかし待っていた結果は同じものであった。

――馬鹿な、どうして掴めないんだ!?

 こちらの手の流れを、全て『直前』に読まれている。目線を追っているのか、思考を先読みしているのか、、まるで手に取るようにして――木崎はフッと笑ってから身を低く屈めると、その姿勢から耳裏めがけて上段蹴りを浴びせてきた。爪先が命中し、あっという間に正面がふらついた。全身の筋力をいくら鍛えた所で、強化のしようのない部位への攻撃。耳鳴りと共に、目の前の景色がガクンと急速に落下した。

「まさかそんな部分に攻撃なんか飛ばない、とでも思ってたかい?……力の強さだけで勝てる喧嘩なんてこの世に存在しないのさ」

 手を突くネームレスのすぐ頭上で、木崎の声がした。同時に、聴力が戻ってきたのだと分かり、彼が腰から下げている鍵の束や鎖類がチャラチャラと音を立てるのを聞いた。

「鍛えるだけが全てじゃない。そんなものに縋っているから自らの成長を止めるんだよ、多くの人間がそれに気付いていないままに強くなろうとしているけれどね」
「……っ、さっきから思っていたが本当に喋るのが好きなんだな、お前」

 吐き気を堪えて立ち上がり、鼻腔を伝っていた血液を拭い取り木崎を見据えた。未だ謎の多い戦い方ではあるが、拳を交えていくつか分かったのは――彼がこちらの『敵意』や『攻撃の気配』を、理屈や法則は分からないが即座に読み取っている術に長けている事。まるで予知能力のように思えるが……恐らくまるで勝ち目がないわけでもない。

――ある筈だ、その過信を挫く何か欠点が……

 そこを突く事で逆転に導ける可能性も大いにある。――正面から殴り合い、力で押し込める戦法では今のところは勝てない。唯一ただ、それだけは理解できた。
 向かい合った木崎は再び拳を握ると、脇をしめて構えを取った。
 まだ始まって一分にも満たない試合だというのに、自分は全身から水でも被ったように汗をかいていた。ベイビードールもそれを見つめながら、気付いていた。

(運び屋さんの体力消耗が凄い事んなってるな……、早く何とかしないとスタミナ削られてガス欠だよ。まだあの身体に馴染み切れてもないんだからそりゃそうもなるよ――)

 とは言え、事態を招いたのは自分の責任でもあるわけだ。何とかしなくては……とベイビードールは親指の爪を噛んだ。

(とにかく奴を再起不能にするまではいかなくていい。只、負けを認めさせる事が出来ればいい。何か状況を逆転させる必要がある、けど武器なんかもう……)

 武器、武器、武器――考え込み、ベイビードールはハッと視線を上げた。

(武器ならあるじゃないか!――そうだ、難しく考える必要なんかない。アレを使えばいいんだ)

 ベイビードールは固唾を飲み、それから二人へと再び視線を戻した。
 依然として、先の見えない戦いは繰り広げられているようだった。それまでは木崎の方がひたすら捌いて反撃、といった姿勢だったのがいつしか覆り、今度は木崎の方が攻撃に周っているように見受けられた。

「さっきの蹴りが効いてきただろう、中枢神経にダメージがいってもう立っているのも辛い筈だ」

 彼の言った通りで、ネームレスはふらつく足取りに言い聞かせるよう何とかして立っていた。壁に背を預け、呼吸を整えてからネームレスは一歩踏み込んだ。それを鼻先で笑い飛ばすように、木崎は前蹴りでネームレスの腹部を蹴り飛ばした。
 膝から倒れるのを見届けると、木崎は彼の背後に周り片腕を捉えた。両手を連動させて頸部を絞め、ギリギリと後頸部を前に押し始めた。柔道なんかでも見られる絞め技だと思うが、片腕の自由を奪われた挙句に気管支を圧迫されるのは強烈だった。

「何も拳と足技だけが格闘技じゃない。絞め技や関節技だって立派な戦法さ、このままだとあと十五秒でアンタの意識は落ちる」
「っ……、」
「何か言い残した事はあるかい? 聞いてやってもいい、お前の意識が残っている限りに許してあげるさ」

 随分な余裕だった。事実、そうなのだろう。彼はもう勝った気でいるようだ。だが……、

「お前には――、お前には『足元の穴』が見えていないんだな」
「……?」

 意識が遠のき始める淀んだ目元。しかしやけに張りのある声。所詮は負け犬の遠吠えだと、無駄なあがきだと木崎は思っているだろう。しかしその『あがき』程度で良かった――ほんの少しでも彼の注意がこちらに向けばいいだけだ。

 ネームレスは続けた。意識の続く限り。今にも脳味噌に向かう酸素は遮断されそうであったが、誰か別の人間の者だというその脳味噌はもう少しだけ自分に猶予を与えてくれるみたいであった。

「不意を突かれて殺されるかもしれない、というプレッシャーがお前には欠けている。常に足元には自分を飲み込もうとしている落とし穴があり、頭上にはギロチンの刃が構えていて、遠くには狙撃手がいて――そんな風に警戒していないと、お前はいつか死ぬぞ」
「……」

 吐かれたその言葉の意味を尋ねるよりも早く、木崎の拘束が緩んだ。――首の皮一枚、ぎりぎりの所で意識は繋ぎ止められた。気道を確保されたのか、酸素が一気に頭部に戻りつつあった。

「はぁーいっ、ご機嫌いかが?」

 後頭部に当たる固い感触を確認するよう、木崎は横目で一瞥をした。

「……さっきの……拳銃……」
「その通り、アンタがいいところに飛ばしてくれたお陰で拾いやすくて助かっちゃった。後は運び屋さんが上手い事、アンタを誘導してくれればいいな〜って。アンタのいう事死ぬほど共感したよ。結果が大事!!……ってね」

 まんまとこいつらの陣形に誘い出されたという事か、どこからどこまでが作戦のうちだったのか、それとも偶然うまくいっただけの事なのか――まあこの際どちらでもよかった。木崎は肩を落としながら、今しがた吐かれた言葉を受け入れるより他ないと悟った。

「――熱くなりすぎたっていう事かな。しまったな」
「かっこつけてんじゃねぇし、こーの間抜け! ださっ、ダッサ!!」
「ベイビードール、いいからさっさと片を付けろ。また出し抜かれても知らんぞ」

 咳き込みながら怒鳴りつけると、ベイビードールは少し不服そうにしつつも流石に二度も同じような目には合うまいと銃口を更に木崎に押し付けた。木崎はようやく、不承不承といった具合に両手をネームレスから解放させた。

「ゲホゲホしながら言うなってーの。……つーわけでお前はもう死んでいるナリよ、色男くん。……負けを認めてさっさと降伏して鍵でも差し出せばどうだい? 早くした方がいいよ、俺達は気が短いんだ」
「――そうだね、そういう約束……」

 言い置いて木崎は、何かに気付いたように視線をちょいと動かした。肩を竦め、両手をホールドアップにした状態のまま、その視線は天井辺りを見つめているようだった。

「って、油断でも誘おうってのかオイ。何だぁ、その視線のあからさまな動かし方は! 変な動きすんなっての」
「違う。……どうやらちょっと面倒な事になりそうな予感がする。ねえねえ、悪いんだけどちょっとタンマにしないかい?」

 緊張感がない、と言われたばかりにも関わらず、木崎はやはりどこか気の抜けそうな声で言い、それから両腕を交差させながら『×』のポーズを作って訴えかけている。

「……は?」

 ベイビードールが「どういう事?」と小首を傾げつつ、ネームレスに答えを求めるような眼差しを向けた。ネームレスの方はと言えば、首の周辺を摩りながら、嫌な予感に眉根を潜めているようだった。

「君ら、どうやら『彼女』を怒らせたんじゃないか? 機密事項だから知っている人間はいないと思うがあえて尋ねるけど――ここに何が収容されているか知ってる?」

 木崎が尋ねると、ネームレスはよろよろと立ち上がりながら壁に手を突いた。

「もしかしてまた『アレ』なのか」
「え――、あ、あれ……って」

 刻一刻と足音にも似た地響きが大きくなる。天井、ひいてはこの建物の上を移動しているのであろうその物体は明らかにこちらの存在に気付いている。

「さては住人を倒したんだろう、君達。……大事な子どもを殺されて黙っている母親がこの世にいるわけがない事くらいは分かるだろう?」
「こ、子ども……?」

 ベイビードールが半ば引きつっているような笑いを浮かべて問いかけた。

「さっきの蜘蛛の親玉か。……ベイビードール、ハンドガンにしっかり装填しておけ」
「……マジ?」
「大マジだよ」

 ベイビードールに木崎が真顔で返すと、一秒ごとに大きくなる轟音と、埃の降ってくる天井を忌々しそうに眺めた。

「お兄さぁーん、ここの人なら何とか出来るんじゃないの〜??」
「――生憎だけどこうなると分かっていて俺はここに送り込まれた人間だからね。仕事中の事故で殉死したって事にすれば体裁も悪くないし……あー、うん、多分俺あの上司にはめられたんだな……よし。後で泣かしてやろう」
「何をぶつぶつ言ってるのか知らないが逃げた方がいいのか? それとも戦った方がいいのか?」

 ネームレスが全て言い終えるよりも早く、三人の背後で響いた破壊音が空気を揺るがせた。周囲を壁の破片やら屑やらが吹き抜け、本来天井のあった辺りにはぽっかりと大穴が空いていた。
 それから、そこを突き破って現れたのは――そう、先程ネームレスとベイビードールが相手した蜘蛛型クリーチャーよりもう一回り程大きな身体をしていた。異様に長い手足に、さっきまでのキューピー人形とは違う、女のものと思われる身体がついている。長い髪と裂けた口が特徴的な見た目だが、まあマトモなものであるわけがないのは一目で分かった。

「出来れば戦わないのが一番だけど、残念ながら彼女は説得に応じるようなタマではないね。……三人でやれば何とか出来るかもしれない」
「えー! 何だよ、その『かもしれない』って!? こんなんいるとか聞いてないんだけどッ」

 ネームレスはベイビードールと、木崎の顔を見比べ、それから再び正面を向いた。状況は良くなるどころか悪くなる一方だ、とため息を吐いた。悪夢のような世界はまだ終わらない、終わるどころかこのアシッド・トリップはまだ止むことなく、続けられている。