#5-4

 写真を次々とめくった。どれもみな、吐き気を催すようなものばかりだった。中には泣いている、まだ幼い少女の姿も見られた。――今更のように、過去の出来事が津波のように自分の中に押し寄せてきた。罪の意識が一気に覆い被さってきた。自分がしてきた事がいかにおぞましく、また惨たらしいものであったのかを自覚させるには十分であった……、

『私を守ってくれるんでしょう?』

 目まぐるしく震える視界の中で、櫻子の声を再び聞いた。揺れ動く景色を、振り切るようにして封じ込めた。それでも呼吸が整わなかった。

「その小娘も、いつかはあなたにとって災厄をもたらす存在になるわ。どうしてあなたに近づくか、真意を考えた事は……?」
「……来るな……」

 部屋に入ってきた母親の片手に握られていたのは、自分が幼少期に愛用していた金属バットだ。目にした途端に、懐かしさを覚えた。
 そういえば、ある日突然のように部屋から消えていたのだ。母に聞いても「知らないわ」ととぼけていたのは、この為だったのか。何だ。そうだったのか。

 バットを引きずりながら、母はまばたき一つせずこちらへと向かってくる。金属の擦れ合うカラカラ――、という音を聞きながら、無意識のうちにデスクの上に置かれていたハサミを手にした。握り締めた指先に力が込められた。その矛先が向かうのは確実に、今まで自分を育ててくれた筈の……その存在へと。

「あなたに取り入って、それであの人にも近づこうとしているのよ。あなたが入れ込んでいる櫻子っていう娘は。母さん、知っているのよ。全て調べたんだから」
「やめろ!!!」

 自分でも驚くくらいに大きな声が腹の底から漏れた。櫻子の笑い声が脳内をぐるぐると行き来していた。守ってくれるんでしょう? ああ、そうさ、守るよ。母の背後で微笑む櫻子の幻影は、制服姿のまま。俺は彼女を彼女を彼女を、彼女を絶対に――、



 自宅前。時刻は、夜の九時にさしかかろうとしていた。壊れかかった街路灯の下では闇に紛れるようにセダンが一台停まっている。
 彼の住む家は、この付近じゃあ有名な、白亜の豪邸だ。単なる個人の邸宅とは周囲にいる者が誰も思ってはいなかった。
 洋風の造りをしたその館の前、制服姿の少女が佇んでいた。
 夜気を仰ぎながら、少女――櫻子はその長い髪の毛を夜風に遊ばせつつ館を見上げていた。漆黒のブラインドで遮られているその室内の様子は拝めなかったし、完全に防音設備であろうその建物からは音一つ漏れてこない。……しかし、内部で今しがた起こっているのであろう惨劇については把握している。

 櫻子はしばらくそうしていたものの、やがて踵を返し、セダンの前へと引き返してゆきそのまま助手席側の扉を開けた。運転席では、既に二本目の煙草を吹かしている中年男性の姿があった。車内には、例の豪邸内に仕掛けられた盗聴器から室内の絶叫と共に効果音が垂れ流しにされていた。男はハンドルを握り締めながら、それがありのままに今現在起こっている出来事だと思うと、ましてや自分の身内同士が殺し合っているものだろうとは――いくつもの無残な状況を経験してきた身と言えど落ち着いて聞けるものではなかった。

 しかし、櫻子の方はと言えば表情一つとして変えず、やはりどこか心ここにあらずといった面持ちのままシートに腰かけただけだった。

「……奥さんと子どもなんでしょう? 本当に良かったの?」

 正面を向いたまま、櫻子がそんな風に問いただしてきた。何か、慈悲のような心からそうやって尋ねたようには、とても思えなかった。

「――おいおい、作戦を持ち掛けたのは君の方じゃないか。今更そんな質問をするのは野暮というか酷だぞ」
「分かっているわ。ちょっと興味があったから聞いただけ」

 興味、ときたものだ。自分はこの自分の息子と年齢の変わらない小娘の一人の美貌に狂って、自らの家族を差し出し、こうして殺し合わせたというのに。しかし櫻子はこちらの思いも見抜いているのか、見透かしたように鼻先で笑い、肩を竦めただけだった。

「まァ……、それはいいんだ。最近の彼女には少しうんざりしていた、病的すぎる監視や執拗な干渉――目に余る行動が目立っていた。いっそ離婚してやっても良かったが、処理やらが色々と面倒でね。その気力すらも削いでくる億劫さが、あの女にはあった」

 もはや言い訳のようにしか聞こえないその台詞を並べ、櫻子はどう受け止めたのかは知らないが、「そう」とだけ呟いた。それからまた、車窓から見える自宅へと視線を移した。
 美しい横顔のラインが、うっすらと笑顔を称えているように暗がりに見えた。華奢な印象の身体つきは、いつものようにすっと背筋が伸びていて、月明かりの下に浮かんでいる。

「……お前は恐ろしい女だな」

 意に介した様子もなく、櫻子は微笑み続けていた。底の知れない笑顔。誰に対しても彼女はこうやって、たおやかに笑いかけてくる。全てを受け止めるかのような、天使のような女神のような、そんな言葉でも形容しきれない程の美しい笑みで迎え入れようとする。

「わたしが聞くのもおかしな話だろうけれど、君は悪い事をしていようが何とも感じないのか?」
「悪い事なんか一つもしていないわ。いい事もしていないけれど」

 その言葉が、彼女の全てを物語っている気がした。
 彼女の世界には、正義も悪も存在しない。常人ならば当たり前に存在する筈の感情。本来ならば『いずれかのうちのどちらか』で分けるべきの出来事も、彼女にとってはどちらでもいい事に過ぎない。

 彼女の中には、善悪の感情や、何か即物的なものによって動かされるような何かが一つとして介在しないのだ。それがこの、佐竹櫻子という美しい入れ物の中に確立している、ルールなのだろう――




 木崎というその男は、構えこそしないが警戒は解かない。
 ベイビードールが慌てて立ち上がり、木崎と対峙する。その背後、ネームレスはどう立ち回るべきかしばし観察する事に心のうちで決めた。――しかしこの木崎、自分の方には視線もくれないが……内心では俺の事をしっかりと見ているんだろう。俺がもし奇襲でも仕掛けようとおかしな動きを見せた途端に、こいつは情け容赦なく襲い掛かってくるだろう。

 先程預かった銃の使い場所は弁えなくては、と身が引き締まった。まだ『目覚めた』ばかりの自分では何とも言い難いが、今の木崎から殺気はあまり感じられない。殺す事よりも降伏させる目的の方を優先しているように、今の自分の目には見えた。その判断が身を滅ぼさねばいいのだけれど。

「……教えてあげようか、一つ」

 ベイビードールに向かって、木崎がさも親し気にも取れる口調で話しかけてきた。声色だけに耳をすませば優しそうな印象を受けるが、言い換えれば不気味でしかなかった。

「只勝ちたいだけなら、不意打ちをすればいい。それこそさっき君が俺にしたみたいにね」
「――何なんだよ、急に」

 真意の読めない行動に、ベイビードールは構えながら剣呑を孕んだような声色で答えた。――まずい、相手のペースに乗せられるんじゃないぞ。おまえ。――そんなこちらの心の声等は多分、彼には届いちゃいないだろう。

「そして目玉に触れるか、相手が男なら睾丸を掴むか。負けを認めないなら、このまま潰す。と、脅しかけるだけでもう十分さ。大体の相手は屈服する、それだけはやめろってね」
「それを今から俺にもやろうって事? っかー、あんたとんだサイコパスだねえ。こんな可愛い見た目の子に、そんなヒドイ真似ができるんだ?」
「だってこれは試合じゃないんだろう。もしルールのある試合なら話は別だ。しかしそうじゃないんだと言うなら――俺はそういう勝ち方も厭わないし、卑怯だろうが何だろうが……」

 木崎が静かに息を吐いた瞬間だった。言い置いて、彼は半身を右に振りかぶり、拳を引いた。鍛えられた身体から放たれる弾丸のような一撃、ベイビードールは不意打ちに取り乱したのか何なのか、あれ程銃は出すななんて言っておきながら自身が懐からハンドガンを抜き出していた。
 只、射撃が目的ではないのだろう。彼の拳打を塞ぐ盾代わりに用いたのだろう事は、まだモヤのかかったネームレスの脳内でも理解できた。しかしそれが正しい判断かどうかはさておきにして。

 金属の塊を殴った木崎の拳だったが、彼へのダメージはまるで見えなかった。痛みにあまり頓着しているようには見えず、すぐ腕を引くと、再び同じ拳で、弓を引くような動作と共に構わず打った。次こそはベイビードールの手から拳銃が吹っ飛ばされ、ハンドガンが落ち、それから虚しく床を踊った。

(そこで取り出す奴があるか、俺でもしないぞそんな真似!)

 と、心の中で罵倒したところで遅い。背後から口出ししたところでベイビードールがそれを聞き入れたかどうかは怪しいところだが。

「っ……」

 はっ、とベイビードールがツインテールを翻し、カウンターを狙おうとしたのが分かった。が、この木崎という男は相当な手練れなのだろう。それさえも先読みしたよう、ベイビードールの内股を蹴り飛ばし、小柄な彼の身体はあっさり宙を舞い、どさりと倒れ込んだようだった。

 背中を打った衝撃で、ベイビードールはしばしむせ込んだ。

「俺にとっては勝つという結果だけが重要なんだよ。……だから俺は自分のやり方を卑怯だとは思わない。過程や手段なんかいちいち選ばないし、ましてや人格的評価やモラルや人道に反する、なんていう説教や横槍はどうだっていい。というか、クソ食らえだと思うよ。そういう雑音は、ね」

 手を突きながら何とか起き上がり、ベイビードールが悔しそうに舌打ちをさせたのが分かった。それを見守りながら、ネームレスは続いて木崎の方を見つめた。

――この木崎って男……マトモに格闘技を嗜んでる奴から見りゃあイカれてるかもしれないが、もし殺しを仕事にしている奴だとすれば……それは十分筋の通った言い分だ。しかもこいつはまだ手の内の半分も見せきっていないだろう、今の蹴りだってきっと奴からすれば只のお遊びみたいなもんだ……

 ネームレスが眉間に皺をよせ、木崎を一瞥した。ニコリともしていない彼の顔からは一片の感情も見当たらないが、ともかく一筋縄ではいかぬ相手だ。先程相手した化け物と比べれば――いや、比べる相手がまるで違う。知的な部分のな戦略のない化け物と、戦いを潜り抜けてきたこいつとでは戦い方も全く違うだろう。只殴り掛かるだけでは、当然勝ち目はない。

「へぇ〜。ごちゃごちゃとよく喋るね、お兄さん。小難しい事くっちゃべって。男前は何言ってもサマになりますねぇ」
「強がるなよ。君と今少しだけ拳を合わせてみて、分かった事を教えてあげようか」

 ベイビードールを見つめながら、やはり起伏のない声で木崎が呟いた。ベイビードールはよろよろと立ち上がりながら、気丈にも木崎を睨み返し続けていた。まだメンタルは折れていないようだが、どう切り込むつもりでいるのかは謎だった。

「君は恐れているよね、自分の身体が傷つく事を。よっぽど大事な身体なのは分かったけれど、自分の身を庇いながら戦って――そう簡単に相手を倒せると思うのかい?」
「っ……!」
 
 痛い部分を突かれでもしたのか、ベイビードールは目に見えて狼狽えたのが分かった。……なるほど、とネームレスはベイビードールの悔しそうな顔を見て思った。その少女のような身体の持ち主が、彼にとってはよっぽど大切な存在だったのだろう事はすぐさま想像ができた。親友、家族、恋人――何か親密な間柄の人間の身体を借りているんだろう、大事に扱わなくてはならない事情があるのは理解できた。

「相手には勝ちたいけど、自分は捨て身の攻撃も行わずに傷一つ負わず綺麗な身のままでいたい――なんて、それはちょっと都合が良すぎるんじゃないか? 俺からしたらそんな覚悟もなく挑みかかる方がよっぽど卑怯なやり方と思うよ」

 木崎の言葉は、確実にベイビードールの脆い部分を攻撃したのには違いないだろう。彼は奥歯を噛みしめたような顔つきで、言葉に詰まったように、只々木崎を見つめ返すだけであった。

「……おい、もういいだろう。そろそろこっちの事も構ってもらおうか、放っておかれていい加減暇なんだ」
「――、あ。そうだったね。もう一人……残っているんだったな」

 ネームレスが呼びかけると、木崎はやはりさも大した事でもないような仕草でこちらへと視線を向けた。相変わらず感情の起伏に乏しい、何も読み取れない透明な顔だった。彼の視線を受けると、緊張が一段階持ち上げられた。