#6-9

 冬の気配は、もうすぐそこにまで近づいているのだという。雪を見るたびに、もう何年も前になるがクリスマスの出来事を思い出す。狭い部屋を精一杯に飾り付け、子どもと妻の三人でささやかに祝った時の事。妻が手作りの料理を振る舞い、有名なケーキ店で予約したという可愛らしいケーキをテーブルに並べた。自分は会社の飲み会の余興で使ったサンタクロースの格好をして、二人にプレゼントを渡した。人見知りの激しい我が子なのに、サンタの格好をした自分をあっさりと見抜いてしまった。
 よちよち歩きで「パパ、パパ」と近づいてくるのを見て、妻は大笑いしていた。笑いすぎて涙の浮かんだまなじりを下げつつ、彼女は「もっと驚いてくれると思ったのに! この子、洞察力が凄いのね」と褒めつつもどこか若干がっかりしていたようだ。自分は逆に、見知らぬサンタクロースを父親だと思っている子どもが、より愛らしく思えた。

――それは一層、冷え込む夜だった。

 大方予想通りに降り始めた雪のせいで、ほとんど客がおらず、景色は荒れに荒れていた。雪のお陰で、外を移動した時に物音がかき消されるので丁度いい。相手の視界から誤魔化す事も出来て、計画を実行するには実に好都合な条件が揃っている。

「あの、すみません」
「……? どうかされましたか?」

 集荷をまとめているマリオの元へと向かい、スミルノフは一枚の封筒を差し出した。不可思議そうにマリオがそれを受け取ると、何か言う代わりにスミルノフをじっと見つめた。

「……何も言わずに、今夜荷物を届けて欲しいんです。行き先は――」
「ちょっと待って下さいよ、こいつは一体……」

 封筒に入っていたのはキャッシュカードが一枚と、暗証番号と思しきナンバーが記された用紙のようである。当然マリオは戸惑い、説明を求めるかのような怪訝な目つきを彼に向けた。

「恐らく八百万はあります、全て自由に使って下さい。どうせもう自分には必要のないものですので」
「なっ……一体何を言っているんですか。こんなもの受け取れるわけが――」
「……全額、ここでの生活で貯めた分です。ここへ来て二年、俺には何の希望さえもなく、生きる気力が何もなかった。どうしてそんな自分がこんなにも駆り立てられているのか、もう俺にだって分かりません。単なる意地みたいなものなのかもしれません。けど……」
「――」
「お願いします。どうか――最初で最後の依頼なんです」

 マリオは封筒に中身を全て戻し、真剣な目で頭を深々と下げるスミルノフをじっと見つめた。

「――無事にここを脱せたとしても、一生貴方は……」

 全てを語ろうとはしなかったが、スミルノフには彼の言いたい事が十分理解できた。――心臓がずきずきと痛む。これから先を想像した。おぞましいタブーを踏み越え、その向こう側に何が待つというのだろうか。
 たとえ生き延びたとして、平和に日々を過ごし、安心して眠る日などは永遠に訪れないに違いない。そう、きっと、永遠に。

 キティーの部屋へと向かうと、彼女はベッドの上でぐったりとしていた。部屋に入ってもすぐに反応がなかったので、相当今日の仕事が身に応えたのかと考えた。彼女のベッドの周りに、空になった薬の容器が散乱しているのが目に入った。
 何故か今の自分には、それがとてつもなく背徳的で、そして汚らわしいもののように思えて、あまりいい気分はしなかった。

「……大丈夫かい?」

 伏せたままでいるキティーに近づき、彼女の小さな身体を起こしてあげた。薬のせいなのか。いつも以上に虚ろな様子のキティーだったが、目を擦りながらこちらを見つめ返してきたので意識はあるようだった。

「動けるかい、今から」
「――どうしたの、急に……まさかもう行くつもり?……キティーは淑女なのよ、身支度の準備もさせて下さらないのかしら」
「ごめんな。あまり時間は掛けていられなかったんだ」
「せっかくお兄ちゃまに見て頂くのに」

 唇を尖らせるキティーの手を取り、ベッドから降ろしてやる。キティーは寝転がってしわくちゃになった衣服を片手で直しながら、窓の方を振り返った。

「まあ、雪だわ。随分と静かだと思っていたら、こういう事だったの……素敵ね」

 うっとりとしながら外の景色を眺めるキティーに、スミルノフは慌てて手に持っていた荷物の事を思い出す。紙袋から、スミルノフは街の商店で購入した帽子を取り出した。

「――そうだ。忘れるところだった」

 白地のファーで出来た素材の帽子を、彼女に被せてあげた。キティーは不思議そうに帽子に触れてみせ、目を瞬かせた。

「流石に寒いだろう。何か途中で羽織も買わなきゃな、その薄い着物だけじゃ風邪ひくぞ。……そのままちょっと窓の外を見てもらえるか?」
「?」

 言われるままにキティーは再び窓の方へと振り返ると、言われた通りにその足をとことこと向かわせた。

「この場所から――そう、今ちょうど君が見ている辺りに白い屋根の小屋が見える?」
「ええ」
「俺が先に向かうから、あの辺りで手を振ったら降りてきて貰えるかな。安全を確保した上で君が動いた方がいい」

 話しながら時刻を気にし、スミルノフはまだどこかボンヤリとしている(と、言っても呆然としているのは彼女の常のようなものなのだが)キティーの肩を叩いた。

「……出来るな? ちゃんと」
「ええ、大丈夫よ。だってお兄ちゃまに会う為ですもの」

 キティーはやはり虚ろではあるが張りのある声で、そう返したのだった。兄の為。もういない、兄ともう一度出会う為。その言葉を捉えて、スミルノフの心は決断を下した。……吹雪とまではいかないが、依然として雪は止む事もなく降り注いでいる。

「――ああ。必ずお兄さんに会おうな」

 言ってしまえば、それはエゴだとは分かっていた。やめろ、やめてしまえそんな事、と思う心があった。だがもしその通りにやめたとして、そのまま時が流れてしまえば自分にはどんな人生が待つというのだ。やめるという選択肢が、自分の罪悪感への解消や幸福――いや。幸福なんかはもう求めていない。ともかく、精神を救済させたり苦しみを落ち着けるような結果には結びつかない。

 独善的な決断だとは分かり切っていながら、だけどスミルノフは彼女をここから助け出す――という事を、せねばならないと自分に強いた。

(本当にそれが最善の策だと思うのか? 彼女を救いたいだなんて綺麗な事を言って、本当は自分が救われたいだけなんだろう)
(……分かってるだろう。本当は。こんな事をしたって何の意味もないって……)
(失ったものが帰ってくる事なんかないし、新しくリセット出来るとでも思ってるのか? そんんなに虫のいい話があるわけもないじゃないか――)

 弱弱しく尋ねかける自分もいる。だけどその自分を叩き潰し、どこまでもしつこい臆病な精神をねじ伏せる。階段を下り、裏口の前を巡回している大柄な男の姿を捉える。
 当然向こうは警戒なんかはせず、こちらの姿を認めるなり軽く片手を持ち上げた。

「何だ? 交代の時間じゃないぞ、まだ」
「――ええ。知ってます」
「だったら、」

 不可思議そうに目を丸め、男が何かを言いかけた刹那だった。
 スミルノフは背後に隠し持っていた枕(キティーの部屋から持ってきたものだ)を、彼の顔目掛けて力いっぱいに押し付けた。男の身体がふらつき、壁際へと追いやられる。間髪入れず、もう片手で支給されたハンドガンを抜き出す。視界を塞がれた男は、その間に何が起きているのか分からない。当然、男が抵抗しようとする。それよりも数秒早くスミルノフが動き、枕の上から銃口を押しつける。

 その時ほんの僅かに躊躇いでもすれば、男の腕力に押しのけられ、スミルノフが負けていたのだろう。だが、彼は迷いもしなかった。流れるようにその指先にあるトリガーを引いた。鈍く籠った、どん、という音が一つ響き渡る。
 男の背後、白い壁には真っ赤な血と、脳漿と、僅かな肉片が飛び散った。枕はあっという間に血色で染められた。
 男の体躯がずるずると壁を背にしたまま崩れ落ち、二、三度ほどその指先が痙攣する。それから、男はもう動く事はなかった。彼は恐らく何が起きたのかさえよくままならないうちにあっさりと逝ったに違いない。
 防音の務めを果たしたその枕と、それから発砲した銃口からは硝煙が一筋、立ち込めていた。

 スミルノフはそのまま遺体を跨いで扉を開き、雪景色の中へと足を進ませた。――急がなくては。死体を見つけられるまでに恐らく十分もかからないだろう、当然の事ながら隠している余裕はない。

 積雪で足取りを奪われながら、何とかして歩き、目的の用具庫へ。冬の寒さに加えて夜の気温の低さが突き刺さるように応えたが、構っていられなかった。用具庫の前へと辿り着き、その場からキティーのいる部屋を見上げようとした時だった。

 ざく、ざく、という音が耳に入りスミルノフは一度行動を中断した。撃てる状態にあった拳銃を握り締めそれをしまうと、熱を持った銃口が温かく、少しだけ体温が戻った気がした。スミルノフは耳を澄ませた。足音は続いている。――しかも、近づいている。

 首を回して、それから振り返り、大方予想通りであった。
 距離にしてみれば……、互いに十メートルほどはあったかもしれない。あたかもその雪の積もった地の上に固着するように、人影が見えた。




 吸いかけた葉巻を灰皿の上に置き、スカーレットは窓の外をしばし眺めていた。深々とため息を吐くと、無念そうに(本当の胸の内はどうか知らないが)目を細めた。

「……全くもって残念でならないわね。あの子には私なりに特別愛情を注いでいたつもりよ、それが伝わらなかったなんて……まさかこんな形で彼を失わなくちゃいけないなんて、本当に馬鹿げているわね」

 おざなりにグラスにブランデーを注ぎながら、スカーレットは一度膝を組みかえる。ため息とともにグラスの中身をぐいっと一口で飲み干し、改まったように再び深いため息を吐いた。何度となく聞いたそれは、何度吐いても尽きないようであった。

「――ねえ。ところで話は変わるけれどマリオ、奥さんの具合はその後どうかしら?」

 もう既に二杯目をグラスに流し込みながら、スカーレットはそこに佇む男――そう、その情報を密告していたマリオへと向かって問いかける。……スミルノフがおかしな動きをしていた事は早い段階でスカーレットに伝わっていたようで、あえてこちらからは何もせずに彼が行動を起こすのを待っていた、というのが実情である。

「……どうでしょうね。良くなったかと思えばまたすぐに悪くなって、の繰り返しです。気力で負けてしまっては元も子もないので、良くなる事を信じて今は只医者の言う事を信じるのみですが」
「そう、成程。だとしたら次はもっといい医者を紹介してあげるわ。……気を悪くしないで欲しいのだけど、今回の件が発覚したのは奥様のお陰でもあるわけだものね。――ちなみに、柴犬くんからはいくら提示されたの?」

 彼女がグラスを持ち上げると、中の酒を揺らすような仕草をさせた。氷が立てる音が一つ響いてきて、こちらの耳にも聞こえてきた。

「キティー様が一か月で稼ぐ量の半分にも満たない額、ですかね」
「まあ、そうでしょうね。貴方が目先の金だけに囚われる事がなくてよかったわ。……さ、貴方も疲れたでしょ? 今夜はもう下がっていいわよ。どうせまたすぐに仕事しなくちゃいけないと思うから」

 スカーレットの言葉に、マリオはどこか空虚なものを覚えずにはいられなかった。踵を返し、部屋の扉に手を掛けると背を向けたまま彼女へと返事を寄越した。

「……滅相もありません。以前の遺体処理に比べれば簡単に片付くと思いますよ、遺体は多くても二体程度でしょうし――何せアンネの殺し方は丁寧ですからね」



 死神、の二文字がスミルノフの脳裏を叩きのめしていた。姿を見せたアンネの手は、刀の柄には添えられていなかった――いなかったがしかし、その赤い目に迎られスミルノフの意識は弛緩していくように、今にも倒れ込みそうだった。
 
「……アンネ」

 雪の中で佇むアンネを見つめて、かつてない程神々しいと思った。同時に恐ろしいとも感じている事にも気付いてしまう。ひれ伏して、それこそ彼の元に戻りたいとさえ思った。けれど、その思いは強すぎていつか彼を憎んでしまうだろうとも、思えた。

「――スミルノフ。馬鹿な考えはよしてくれ、今ならまだ……」

 彼はそんな風に言ったが、もしここで引き返したとしても彼女は自分を許さないだろう。命までは奪わなくとも、もっと酷い処罰が下されるかもしれない。

「スカーレット様には僕からも謝りに行く。……厳罰に関しては逃れられないだろうが、僕も一緒に受けるよ。だからさ――」
「ごめん」

 振り切るように言い、スミルノフは一瞬自分が何をしたのか、その意味の重たさを忘れている事に気が付いた。アンネの表情を見て、ようやく自分のしている事の恐ろしさを認識させられる羽目になった。
 知らず知らずのうちに、自分はその銃口をアンネへと向けていた。――アンネは愕然とその目を見開き、まるで信じられないものを見るかのような目つきを向けていたが、やがてそれは狂気と殺気を含んだ眼差しへと切り替わった。

「……僕にそれを向けるのか……」

 それでも彼は刀に手を添えなかった。それが意味するものが何かは分からなかったが、スミルノフは高まる緊張感と共に固唾を飲み下した。

「君は今――、君は今、人生でもっとも愚かな選択をしている。……僕はどうしても君を斬らなくてはいけなくなった」

 そこで初めて、彼は刀に手を掛けた。
 距離は――、十分にあった。何よりも足場の悪さも手伝って彼の太刀が届くわけがなかった。やれ。やるんだ。すぐにでも引き金を引けば、全ては終わるんだぞ。だが、さっきのようにいかなかったのは……どういう理由があったのかは考えても答えが出そうにない。初めて出会った時に自分を気遣ってくれたからだとか、一緒に仕事をこなしてきたあの日々の事を思い出したからだとか、ほんの一晩彼と夜を共にしたあの出来事があったからとか――もはやそんなのは口実に過ぎなかった。
 分からなかった。それらが全て一緒くたになって、スミルノフに判断を遅らせたのには違いなかった。
 
 その銃口から本日二度目の弾丸が発されるよりも、ずっと早かった。

 血の霧が宙を流れたのと同時に、スミルノフの右腕が消失していた。唐突にそこに出現した、自分の“袖”をしばし不思議そうな顔で眺めていた。……何が起きたのか、理解するのに数秒かかった。
 拳銃を握り締めた肘から先だけが、雪の上に落ちていた。
 腕を切り落とされたのだと理解し、次に浮かんだのは『どうして彼がその距離から、攻撃を繰り出せたのか』という素朴な疑問だった。……何て事はなかった。自分の切り落とされた腕から視線を上げ、再びアンネを見ると彼の手には刀が見当たらなかった。

――そうか、投げたのか……

 背後を振り返ると、突き刺さった状態の刀があった。愛用の刀は、自分の血を幾分か吸い、その刀身に真新しい赤色を滲ませていた。

「……今すぐに縫合すれば、千切れた手首も元のように動かせるようになる。スミルノフ、二度は言わせないでくれ」
「――っ……」

 雪の上に跪きながら、スミルノフは自身で咲かせた血肉の華を眺めていた。出血は止まりそうにない、こうしているうちにも蛇口をひねった水道のように血液が流れ出してゆく。……しばしあってからスミルノフが雪に落ちた自分へと向かい、残る左手でその銃をもぎ取った。
 アンネはそれを何か、悪趣味なホラームービーでも見ているかのような何とも言えない眼差しで見つめていた。

 武器を持たない状態のアンネに向かい、再び片手で銃を向けた。幸運だ。何て、ついてるんだ。彼は今武器を持っていない。彼は今武器を持っていない。彼は、今、……。

「――やめろと言っているのに」
「アンネ。俺は、どうしても」

 何だ。俺は何と言いたいんだ。何と言い、そして一体、どういう反応を彼から得たいんだ。もはや自分の気持ちさえ見失っていた。それから、きっと自分はここで生き残る事はないだろうなとも、漠然と感じていた。
 その予想通りに、自分の言葉が最後まで続かなかったと知り、それから景色が急降下したのと共に自分が雪の上に寝かされたのだと分かった。正確に言えば、自分がキティーとの合流場所に選んだあの屋根の上から、襲撃を受けた。
 後頭部に鋭い衝撃を貰い、スミルノフは雪原の上に倒れ込んだ。襲撃者であると思われる人影は、ザッと雪の上にそのまま着地したようだ。

「うひひっ。背後がら空きなんだよ、バーカ!」

 薄れゆく意識の中でケラケラと笑うのは、恐らくリリーだろう。背中を蹴り飛ばされたが、後頭部を殴られた時の衝撃とは比べ物にもならなかった。

「……ホラよ、刀取ってやったぜ。もう落とすなよ?」

 アンネがこちらに近づいてくるのが分かった。世界はもはや反転していた。スミルノフは、途切れ途切れの視界の中でこちらに向かい足を進めてくるアンネの姿を認めた。片手に刀を持ち、一歩、また一歩と距離を縮めてくる彼は紛れもなく自分に死をもたらす死神そのものでしかなかった――。

 地を払う為か彼が一度刀を振るうと、その返り血がアンネにいくらか浴びせられた。血で濡れていようが、卑屈な程に優美だった。死の奈落へと向かう意識がそうさせたのかは分からなかったが、スミルノフは死んだ妻がアンネの代わりにそこにいるのを目撃する。
 幻だとは分かっているが、縋らずにはいられない。
 
「――あなた。お帰りなさい」

 現実のアンネが、刀を構えていた。
 残された世界が崩壊を始める。――自我がなくなる直前に見たアンネは、自分の首に向かって刃を振り下ろされていた。ギロチンにかけられる罪人の姿を思い浮かべた。スミルノフの喉が猛烈に熱くなった。声は出ず、只々、凍えるような世界の中、自らの血がほんの少しだけ自分を温まらせた事。けど、それも長くは続かなかった事。……最後に、僅かにだけ、最愛の家族と、それから――キティーの面影を思い浮かべながら彼はアンネの前で、悲鳴さえ上げずに、事切れた。

……午前三時四十五分。スミルノフの首は“死神アンネ”の手により、切断されたのだった。

 窓からその光景を眺めていたキティーは、兄の死の瞬間を思い浮かべていた。スミルノフもまた、自分を置いていったのだと理解した。そう思うのと同時に、キティーは歩き出すと黙って浴槽に水を溜め込み始めた。あの時、初めてスミルノフと出会った時の夜みたいにして。

「へー、こいつ本名はイケウチ・ミチオっていうんだ。冴えねえの」

 リリーがスミルノフの胴体から回収した身分証明書を勝手に覗き見しながらケラケラと笑った。

「なあなあ、こいつって一体何の罪でここに来たんだ? こーんなクソ真面目そうなモヤシがやれる犯罪つったらよお、何があるんだよ」
「……富豪の子を誘拐しようとしたんだって、ね。孤児院出身の友人と共に。だけど失敗に終わり、彼は仲間と思っていた友人にどういう経緯かは分からないが撃たれたきりそのまま刑務所送りになったようだ」
「ぎゃはっ。じゃ、子ども攫いには慣れっこだったんだな。見かけによらずコエー事しやがんなぁオイ」

 リリーはキャッキャと楽しそうにその遺体を蹴っ飛ばしたが、見兼ねたようにエリーが止めに入った。

「やめろよ、流石に元仲間なんだからそういうのはよしとけや」
「リリー、こいつ気に入らなかったんだもん」

 アンネはふっとしゃがみこんで、それからスミルノフの持っていた薄汚れた写真を見つめた。死んだと言っていた奥さんが、二歳程の赤ちゃんを抱っこしている写真。その横では、まだ二十代そこそこくらいのスミルノフの姿があった。どれもみな笑顔を浮かべており、仲睦まじい家族写真といった具合だった。

 アンネはそれを、ぐしゃりと握り締めた。くしゃくしゃに丸めて、彼の遺体の上に放棄した。

「どうして……」

 血の匂いが漂ってくる。雪の上を赤く染めて、一人の命が奪われる。死神の手によって、その魂を散らしてしまう……。

 アンネは刀を持ったまま、しばらく呆然と雪の降り注ぐ空を見上げていた。




――どうして、僕を選んでくれなかったんだ