#7-1

 全貌を見せた巨大蜘蛛を改めて正面から捉え、その異様さに圧倒される。こちらの鼓膜をつんざくかのような、蜘蛛の咆哮が施設を揺るがせた。壁面に付着した埃の塊がその鳴動によって剥がれ落ち、三人の視界に降り注ぐ。

「あーあ。大変な事になっちゃったね、これは」
「……。ホントにそう思ってる顔かぁ〜、ソレぇ?」

 ガスの粒子が漂う向こう側、揺らめく巨大な影を見つめながら木崎がポツリと呟いた。その言い草ときたら、何というか料理の手順を間違えた時のような、ちょっとしたミスでもしたみたいな、まあともかくあんまり大事に対峙したようには見えなかった。

「さっき出てきた奴よりも随分とサイズがある。……こいつは母親だと言っていたがそれはどういう意味なんだ?」

 ネームレスの問いかけに、木崎は一つ頷いて見せ、考え込むみたいにしてその化け物を再度見やった。

「彼女の名前は“マザー・ファイアフライ”。悪魔も見下げ果てた奴らと呼ばれる、最悪のここの『住人』どもを生んだ張本人。――彼女の細胞と血を抽出して作られたのが、さっき君らが倒した住人のうちの一体、っていう事。どう、この説明で分かる?」
「れっ……冷静に解説しちゃってさぁー……」

 ベイビードールが、はぁ、っとため息交じりにその手にはそぐわないハンドガンを抜き出した――「……で? 物理的に破壊するにはどうしたらいいの? どこをどーやって攻撃したら止められるワケ? 教えて、二枚目なおにーさん」。
 茶化すように吐かれた『二枚目』の言葉にも、木崎は言われ慣れているかのように特に反応を示さない。まあ単にそういう場合じゃないだけなのかもしれないが、あまりにも変わらないその表情に苛立ちを軽く覚える程だった。

「うーん。そうだなぁ……。……とりあえず……」

 むしろどこか呑気に考え込む木崎に、ネームレスはいよいよ彼がどこまで本気なのかが分からなくなる。さっき彼と拳を交えた時に、このペースに呑まれないうちに早々に片付けて良かったと心底思う――と、彼の言葉を待った矢先だ。

「……、逃げる!」
「えっ」

 くるっ、と踵を返して走り出す木崎に二人共やや遅れを取ったものの、ともかくすぐにその後を追いかけた。背後では、逃すものかとばかりにマザー・ファイアフライも移動を始めたのが分かった。あちこちを破壊しながら、その巨大な四肢が動き回る。耳をつんざくような咆哮が脳裏を揺さぶる。……そしてその狙いは勿論、自分達三人に向けられている。

「どういう事だ、お前! 協力し合えば倒せない事もないとか言ったばかりだろうが――」

 怒っているわけではないが――全くと言えば嘘になるが、まぁ――走っているせいなのか妙に強張ってしまい、自然と声に力が入る。語尾の方は半ば怒鳴り調子になりつつ問いただせば、木崎はやはり恐れ入る程のマイペースさで、けろりとして言うのであった。

「何にせよ一先ず体制を立て直すべきだね、今の彼女は怒り狂っててとても手がつけられない。……もう少しあの勢いを殺せたらいいんだけど……」

 緊張感の見当たらない様子はさておきに、案外慎重な判断に驚いて彼の顔をまじまじと見つめてしまった。その視線を受けて、木崎は不思議そうに眉根を持ち上げる。

「何だい、その意外そうな顔。俺は会話の通じる相手としかぶつかりたくないんだよ。だって言葉で嵌める戦略が通じないだろ?」
「……。成程、確かに」
「んもーちょっとアンタらさぁ! 結論、どうしたらいいの!? このまま闇雲に逃げ続けてもいつかは捕まっちゃうだろ!……あーッ、ホラもう足が疲れてきたぁー!!」

 ベイビードールがフリルのついたそのスカートを翻しながら、ぎゃんぎゃんと騒ぎ立てた。そんなに声を出しながら走るから余計にいけないのだ、と教えてやりたいが自分も今、考えながら足を動かすので精一杯だ――と、ネームレスは考え込むようにやや視線を下げた木崎を見つめた。

「一つ考えを言うと――、こんな事が起きた場合に備えて緊急避難経路に繋がる道筋がある。火事や災害に巻き込まれた時にも用いられる通路だ。……只、まあ問題は色々とあって……」
「問題?」
「結論から言えば、ここを完全に封鎖した上でこいつら共々爆破で吹き飛ばす為のものさ。……情報漏洩だけは許されないからね、事故で処理すれば初めからなかった事に出来て体のいい証拠隠滅さ」
 
 やはりな、と薄々予感はあったもののネームレスは確信する。そりゃあそうだろう、こんな奴らが流出すれば国一つを動かす事態に発展しかねないのは明白だった。市民への混乱を招く、なんて言葉だけでは済まされないだろう。
 爆発に巻き込まれて亡くなった者は、事故死として処理されるのかそれとも名誉の殉死、のような待遇を受けるのかは分からないが――まあ何にせよ気分のいい話ではなかった。

「それでまあ、さっきからずーーーーっと本部に連絡を取ってるんだけど」
「……けど?」

 これまた確信めいたものがネームレスの胸にはこみあげていたが、あえて肯定はせずにいると大体予測通りの返答があった。

「さっきから全く繋がらないんだよね。多分、あっちも何か起きたんだな……これは」

 ああ、と頭を傾げたい思いに駆られた。初めから全部仕組まれていたんだろう、こいつの暴走も、初めに出てきた一体目の襲撃も。恐らく内部事情の細かな部分までを把握している『誰か』の仕業なのは分かった。

「――完全に内側からやられたな、それは」
「だろうね。……大方、誰の差し金なのかは予想がつくけど」
「で、で、で、何々!? どうするの? それも出来ないとなったら他に手段は? まさかそこまで話しといて『万策尽きた』とかじゃないんだよねっ!?」

 独りごちる木崎に、慌てふためいた様子のベイビードールが問いかけると木崎はやはり何か渋るような表情を覗かせた。察するに「あるにはあるが、お勧めはできない」といった具合なのだろうか。
 ややあってから、曲がり角にさしかかった時に木崎がポツリと呟いた。

「奴は多分、俺を優先的に狙ってくる筈だ。俺と別々の方向に逃げれば君達は助かるかもよ」
「……!」

 ベイビードールは少し驚いたようだが、結局返事をしなかった。代わりにチラと、答えを求めるようにネームレスを一瞥した。判断は彼に委ねる、という事なのだろう。そして自分はそれに従う、というわけだ。

「……いや」

 呟いてから、ネームレスは木崎を見つめ返した。

「お前に方法があるんなら、俺はそれに乗る」
「信じてくれるんだ?」
「この場所について把握しているのは今、お前しかいないんだ。俺達だけが生き残ったところでここを脱する事も難しいだろう――どうせ死ぬんならマシな方を選ぶさ」
「――そっか。まあ、俺が貴方の立場でもそうするかもね」

 言い置いて、木崎は矢継ぎ早に次の言葉を紡ぐ。

「だったら一回しか言わないからよく聞いて。――まず方法はある、本部に直接戻って俺が起爆装置を操作すればいい」
「つまり、元来た道を戻るんだな?」
「まあ、それはそうなんだけど。この事態が発生したせいで、既にいくつかのエリアは遮断されている。そのルートは避けていくけど、途中でどうしても一か所ばかり俺がロックを解く必要がある」
「……ああ、そうか分かった。つまりその間にこいつを何とかしてくれって意味だろう?」
「そういう事。足止めしてくれるだけでいい、完全に破壊する必要はないから」

 さも簡単そうに言ったが、すぐ背後で吠え立てている脅威の声を耳にしながら、いや、それは実はめちゃくちゃ難しい事なんではないのかと考えた。そもそも銃は通じるのか。果たしてこいつは、人間の持ちうる限りの能力で適う相手なのだろうか。
 
 道すがら、また別の犠牲者のものと思われる無残な遺体が廊下に転がっているのを見つけた。身に着けた制服に浮かぶ真新しい血の色から、また別の刑務官が巡回しに来たのだと判断した。弔っている時間さえもなく、木崎はその遺体を飛び越えて走り抜けた。少し振り返り、申し訳なさそうに遺体を見下ろしたのが分かった。
 ネームレスとベイビードールもそれに従い飛び越えていくと、マザー・ファイアフライが巨大な前脚でその遺体を無残に踏みつけた。頭部が潰れ、ピンポン玉のような球体(言うまでもなく眼球であるが)が弾け飛び、壁にぶつかり転がった。

 マザー・ファイアフライの叫び声に共鳴したかのよう、横手の扉をぶち破り飛び出してきたのは先程ネームレスが相手した奴より一回りほど小さなサイズの奴だった。同じように蜘蛛のような節足動物型のそいつは、やはり上体がマネキン人形のような物体で、何とも言い難い形状であった。

「ちょっ!!!!」

 急に飛び出してきたそいつに、ベイビードールは反射的に相手の脚を掴むと蹴上がって、顔面めがけてブーツの踵を食らわせていた。その動きを見ても分かるように、何も出来ないいたいけな少女――いや、少年、ではないのだろう。彼は。

「もう、マジでキモいからっ!!」

 ゲラゲラと奇妙な笑い声を上げ続ける『住人』めがけてベイビードールは手元のハンドガンを躊躇いなく発砲した。思いがけない奇襲ではあったが、わらわらと飛び出してきたそいつらはいくらかマザー・ファイアフライの進行の妨げになったようで彼女の歩みを僅かに遅らせていた。
 が、正気を失った(元々あってないようなものだろうが)マザー・ファイアフライはそれが大事な我が子であるのも忘れ、飛び出してきたそいつらを無差別に虐殺していた。あちこちに血と体液の混ざった液体が散らかされた。

「……あった、これだ」
「パスワードは分かるんだな?」
「――ああ、うん。ええと、確か……」

 タッチ式のパネルを眺めながら、木崎がその指先を動かした。ちなみにその機体は、スマートフォンと呼ばれる代物とほとんど同じ形のように見えた。入力した文字は英文字で『I LOVE MECHAN』(アイラブみいちゃん。そのまんまずばり、『みいちゃん愛してる』という意味合いだろうけど)という、謎の文面である。……が、すぐにその画面に赤い文字が表示された。

「……なあ、間違いみたいだぞ」
「え。嘘」

 続けざまに映し出された『エラー』の文字に、木崎が肩を竦めた。
 いやいや。嘘、じゃないよお前、とネームレスが木崎の横顔を見つめた。焦るでもなく彼は「うーん」と、随分のんびりと考え込み始めた、この一秒も惜しい時に!……異形共の喚き散らす声を聴きながら、ベイビードールの撃つ射撃音が時折混ざり合い、やがて「まだかよ!」と急かすような叫びが混ざったのを機にいよいよ限界を覚えた。

「おい、知ってるんじゃなかったのか」
「んー。おかしいなあー、コレで合ってる筈なのに。……んっ、もしかしたら小文字なのかも?…………、あれっ、ダメだな、またエラーになっちゃった」
「いい加減にしろよお前!!」

 思わず声を荒げて、ネームレスは仰々しく前髪に手をやった。ベイビードールから預かったその銃でいっその事、パネルごと撃つべきか悩んだ。……が、その衝撃で何かあったらと思うとそれはやはり留めておいた。冷静になれ、冷静に。

「合ってる筈なのになあ、何でだろう。う〜ん、参ったなー……俺、英語は苦手なんだよなあ……」

 英語と呼べる代物の文章でもない気がするが、ともかく。ネームレスは一秒程置いて、それから「まさか」と思い立ったように木崎を見つめた。

「……なあ、ちょっといいか?」
「ん?」

 背後からネームレスが手を伸ばし、代わりにそのパネルを操作した。何となくの思いつきで『LOVE』の部分をハートマークの絵文字に差し替えてみた。……すると、予想通りの正解だったらしく(!)、ロック解除の音と共にシャッターが重々しくその口を開き始めるのを認めた。……気が抜けそうな思いに駆られたが、ネームレスは何とか踏み止まるのだった。

「あっ、そう来たか。成程ね」
「……馬鹿馬鹿しくてやってられんな……」
「――わっ、ちょっと待って待って。俺も置いてかないでっ!」

 災い転じて――とはまさにこの事かもしれない。襲ってきた子蜘蛛達のお陰で乱戦状態と化した辺りは、夥しい量の血の匂いと血の霧に包まれていた。少しずつ開いていく防護シャッターの隙間を潜り抜け、三人は再び駆け出した。