#7-2

 封鎖された向こう側からは、断続的な奇声が金属的な唸りと共に響き渡っていた。一息吐いている間さえなく、再び目的地を目指しての逃避行が再開された。あの防壁も長くは持たないであろう事はすぐに分かった。
 木崎の案内に従いその道を行くが、幾重にも施されたセキュリティーシステムは何者かによって既に破壊の限りを尽くされた跡のようであった。警報を鳴らし続けるアラームと、回り続ける赤ランプの光を目で追いながら、一旦奴らを退けた事に束の間の安堵を覚える。

「――っとぉ……。安心している場合じゃない、ちゃっちゃとやる事やんなきゃ俺達みんなまとめてやられちまうよ」

 ベイビードールの言葉に、木崎が先に立って足を進めていく。
 いつものように、事務所前の扉に手をやる。ここまでは変わらない、普段と。いつも通りではないのは、その先だった。……先に彼らが予想を立てていた通り、事務所の中はまるでおもちゃ箱をひっくり返したようにぐちゃぐちゃになっていた。
 木崎がここを離れてまだほんの僅か――恐らく一時間も経過していないのではないだろうか。踏み出した木崎の目にまず飛び込んできたのは、事務机にもたれかかるようにして倒れている血まみれの背中だった。濃紺の塗料でも滲ませたかのように、そのシャツが元々のブルーとのツートンカラーになっている――そしてその身体には、所々、本来あるべき筈のものが存在していない。頭があった筈の箇所には、血だまりが出来ている……。

「……ねえ。みんな死んでるの、これ?」

 死体には多少の免疫があるのだろう、ベイビードールはあまり顔色を変えずにその惨憺たる現場を観察するように見渡していた。床や天井のあちこちに、べったりと血が覆い被さっている。

「多分ね。よく確かめなきゃ分からないけど」

 木崎はそう言って死体の山にも気を止めないように足を進めていくが、まぁ当然――気分のいいものではない。ネームレスはその強烈な匂いに怖気づいたように、動く事を躊躇った。ベイビードールの方はというと、木崎とはまた別の方向を進み別の脅威がないか確かめ始めたようだ。
 途中で彼は動きを止めたかと思えば、ネームレスがそれに気付いた時にはもう銃を抜き出して構えていた。

「何だ。どうか……、したのか?」

 ネームレスが尋ねても、ベイビードールは答えずに銃口を向けたままだ。鋭くその目を細めたまま一歩踏み出した時、倒れた事務机と椅子で出来た山の向こう側から声が響いてきた。

「やめて! お願い撃たないで、私は何もしていないわ! 殺さないで!」

 訴えかけるような声と共に、ベイビードールの代わりに木崎がその山をどかしたのだった。続いてネームレスもその背後へと近づくのとほぼ同時に、女性が一人、座り込んでいた。ささやかな室内灯の光を受けたその姿は、まだ若い風に見えた。
 当然ながら武器など持っている気配は見受けられず、当座敵意のようなものはないように思える。それから、木崎が蹲ったままの女性に手を差し伸べたのが分かった。

「……き、木崎さん……、わ・私――わたし……」

 女性はその手を何とかして掴んで立ち上がると、余程の恐怖からかそのまま彼に抱き着いて泣き喚いた。木崎は女性をなだめるように、泣きじゃくる彼女の背中に手をやった。少しもいやらしさなどは感じさせない辺りが、この男のなせる業なのだろうか。

「一体何があったんだい、ここには君しかいないの?」
「――、ほ、細野さんが……、全部……全部……っ、突然持っていた銃を発砲したかと思えばそれから……っ」

 あとはもう、すっかり泣きじゃくってしまって言葉にならないようであった。細野さん、という人物の顔などは当然知らないが、関係性については何となくには想像が出来る。木崎はあまり驚いた様子もなく、むしろ予想していた通りの結果だったのか肩を竦めてため息を吐いた。

「やっぱりね、それしかないと思った」
「い、一瞬のうちに……中森さんの胴体が真っ二つになってから、次に高遠さんの首が消えた。それから、本部に連絡をしようとした橋下さんの腕が吹き飛んで――そのままみんな――あっという間に……最後に細野さんは私の前に来て、『キミの事は殺さないよ』って言って笑ってた……」
「それで、細野は今どこに?」

 女性は首を横に振り、皆目見当がつかないといった具合に眉を潜めさせた。

「……君を迎えに来るから、ここで待っててくれって言って……」

 泣き癖のついた声を弾ませながら、女性はまた目に涙を浮かべたかと思うと嗚咽に沈み始めた。恐慌をきたした彼女の泣き声を聞きながら、ベイビードールが顔をしかめさせた。

「うっわぁ、キモーい。そいつ、絶対に何かエロスな悪さ企んでねーか?」
「――まあ多分そうなんだろうね。何というか全く、幼稚としか言いようのない男だよ」

 木崎は淡々と告げたが、内心ではどう感じているのかまでは、少し読めなかった。ネームレスは腑に落ちないように血臭立ち込める辺りを見渡し、それから問いかけた。

「その男が一人でこれを全部やったのか? 並の人間の仕業じゃないぞ」
「……その通り。きっと人間じゃないんだろうな」
 
 木崎のどこか意味深な言い回しに、ネームレスが目を細めた。ベイビードールの方は、流石は本職・密偵である。やはり頭の回転が速いのか、ややあってから「あッ」と何かの答えに人足早くに辿り着いたようだった。

「さっきの蜘蛛のバケモン、血と細胞でどうのこうの言ってたけど。……もしかして、それは……」
「――、俺がここに来る一週間ほど前。保管されていたマザー・ファイアフライの血液から取り出されたウイルスが盗み出された事件があったらしい。冷凍保存されていた変異種のウイルスで、細菌・毒物・外来異物・癌細胞――それらに対して強い抗体を持っている可能性が秘められていた万能の素材だ。……実験を重ねれば、近いうちに何らかの再生医療やワクチン、創薬にも使えるんじゃないかと言われていた。当然、転売目的の窃盗だと思っていたが盗んだ本人の狙いはそこじゃなかったんだろうな」
「それを自らに投与した、と。そういうわけか?……何だかさっきから夢みたいな話ばかりだが、今更信じられないという事もないな」
「浅はかすぎて初めて聞いた時は驚いて絶句したさ、そんな行動を起こす奴にもそうだけどあっさり出し抜かれるここの体制の甘さにもね」

 はあ、と更に大きなため息を一つ吐いて木崎は彼女の肩を叩いた。

「君も知っているだろうけど、こうなった以上俺達がすべき事は覚えている?――俺はこれから脱走した住人達の暴徒を止める義務がある、よって……」

 言い置いて木崎は中央のパネル、精密機器やコンピュータが集合し置かれているその周辺を見やった。

「この施設そのものを壊す、君は規定に倣って地下のシェルターに逃げる事。起爆装置を立ち上げた時点で本部に連絡が行くようになっているから、すぐにでも助けは来る筈だ」
「成程〜、それで全部壊してあるのにそこだけ手つかず綺麗なままなのね」
「――待って下さい、木崎さんは……?」
「生憎だけど、俺はここにいるわけにはいかないから」

 その理由について深くは語らなかったが、木崎はそれだけ告げると彼女から視線を外した。もはや一秒の猶予も惜しいのが本音なのだろう、木崎は起爆装置の搭載された機材に向かって足を進めようとしたが、女性が意を決したように一歩踏み込んだ。ヒールの踵がコツン、と響いた。
 
「き、木崎さんっ……、待って、待ってください!」
「……?」
「その、黙っていてごめんなさい。……怖くて言えなかった事が一つ……あります……」

 おずおずと、どこか辺りを気にするようにしながら、彼女は言葉を紡いだ。

「さ・去り際に――細野さんが去り際に、言ってました。全部――全部、壊してやるからって。あいつを殺すよりも先に、あいつの大切なものを全部奪って、傷つけて、それで……破壊するんだって……」
「……」

 それまで無表情を保ち続けていた木崎が、ほんの微かに反応したのが分かった。ネームレスは、それでわざと装置の類いを壊さずに放置しておいたんだと推測した。その、細野という男がどれ程狡猾でゲスな野郎かは顔を見ていないので何とも言えないが……まあ、要するに奴は『試した』わけだ。木崎が自分を追ってくるかどうかを。そいつの言う大事なもの、というのは木崎の家族か友達か、或いは恋人、だろうか。
 ネームレスは家族、という言葉を思い浮かべると何故か胸の奥がちりっと痛むのを覚えた。それから反射的に、振り返った木崎の横顔を見つめ、彼が同世代くらいの女性と仲睦まじく並んでいる姿を想像してみた。いや、確かに見目のいい男ではあるが、どうにも彼が楽しそうに誰かといる姿が結びつかずイメージしづらかったのが本音だった。

 木崎はしばしあってから、鼻先でまずはそれを笑った。続けざまに唇の端を持ち上げて、心底可笑しそうに笑って見せた。自嘲するような、嘲笑っているかのような、しかし泣き笑いに近い表情だった。――苦しい息を堪えるように、木崎はそれが落ち着いてから一つため息を吐いた。

「……“大切なもの”だって……? 見誤ったな、アイツ。俺に大切なものなんてもう存在してないってのに。そいつは面白いな、いや、何だ。傑作だ、今年で一番面白かったかも」

 あはは、とまた一笑を交えながら木崎は言い、最後に少し悲しそうな表情を一瞬だけ浮かべたのだった。それが彼の本音なのかどうかは分からないが、ネームレスは木崎の背中を見つめながら言葉を投げかけた。

「おい、どうするんだ?」
「それよりさっさとここを出る事を優先しよう。……いちいちつまらない挑発に構ってられないよ」

 木崎は振り返る事もせず、機材の山へ向かい手を伸ばしていた。そんな彼の様子は、やはりどこか物悲しそうに見え、その背景にあるものをどう解釈すべきなのかネームレスにはよく分からなかった。


 廃墟と化した、その遊園地。
 導かれるようにそこへ辿り着いた鳴神ミミは、現在――絶体絶命のピンチに晒されていた――……。

「……いやあああああっ! 無理、無理ーーーーっっ!!」
 
 自慢じゃないが運動なんて学生以来、まともにやってないし。あたしインドアだし。休日だって引きこもってばっかりだし。ジムだって入会してから三か月は真面目に週に三度ほど足を運んだけど、それが週一になり、二週間に一度になり、やがて一か月に一回になり、結局辞めたし。……だから運動神経なんかほとんどないんだってば! と、ミミは心の中で叫んだ。

 スケッチブックの少年を追いかけて遊園地の前に来てから、というもの。ミミは何故か自分を待っていたかのように開け放されたゲートを潜り抜け、それから光の方向へと歩き続けていた。
 簡潔に説明すると、その途中――見た事もない、少なくとも自分の知る限りの記憶には見当たらない形状の化け物に遭遇してしまって、追いかけられている。なう。……化け物の形について説明すると、そいつは顔を二つ持った四つん這いで動く『何か』だった。一応、人間に近い容姿かもしれない。というか、全身の皮膚がずる向けた、猿のようにも見えた。子どものような甲高い声を上げながら、こちらを見るなりにタッタカタッタカと駆け出してきた。
 遊んでいるような調子でそいつは近づいてきていて、案外スピードは遅いのが幸いだったけど、全速力を出したらどうなるか分からない。というか捕まったらどうなるんだろう。遊園地のアトラクション? なわけない、行き過ぎている。

 ミミは一先ず暗闇の中に紛れるようにし、狭い道に逃げ込みファンシーショップの中へと滑り込んだ。カウンターの中に隠れ、リュックを降ろしてスマホを探し出した。

(ああ、何だって最近ずぅううっっっ〜〜〜〜とこんな目に遭うのよ! ホンットこの前からついてない、女の厄年っていつだっけ!?)

 ついてない、本当に今年はついていない事だらけだ。三十一歳迎えてから、ろくな事がない! ミミは取り出したスマホを操作するが、まあお約束で電話が繋がらないのを知り肩を落とした。

――ああああ、もう、何これ? お願いだから夢なら覚めてよぉ、それかあたしにとって都合のいい夢に変わってよ! どうせならいっそイケメンマッチョがかっこよく助けに来てくれる展開にして欲しい……

 混乱のあまり馬鹿な事を考えながら、ミミは祈りをささげるように画面をタッチしたが結果は同じだった。圏外表示――一体この場所はどこなんだ? ってゆーか、日本なんだよね? あれ、確か、バスの中では普通に使えた筈だったが……。

――どうしよう。これでもしあたしに何かあったら、トキオは大丈夫かな……? 旅行だから萌絵ちゃんに預けたけど、この先ずっと面倒見てくれるとは限らないぞ。何せあの遊び人は……っ!

 付き合いの長い友人なだけあって好き放題モノ申しているが、というかこの仲だからこそ彼女の人となりが分かるというか何というか……いやいや。友人と愛猫と実家の家族の事を思い浮かべ、ミミは両の頬を叩いた。ダメだ。諦めたらダメだ。絶対に。

 せめて何か身を守るものを……と思い移動した矢先、暗闇の中で何かが指先に触れた。嫌な感触に咄嗟に手を引き、辞めときゃいいのにそれが何なのかを確かめようと目を凝らした。月明かりと、外から漏れる微かな光をほのかに受けて浮かび上がった輪郭。一瞬マネキン人形か何かだと思ったが、いや多分……蝿の飛び回る音と、それから強烈な臭いを嗅ぎ、ミミはその場にドテッと転んでしまった。開けっ放しのままのリュックから、あれこれ零れ落ちたようだが、もはやそんな場合ではなかった。くぐもった悲鳴を漏らしながら、ミミは這いつくばるようにして移動していた。
 冷静に考えれば死体が起き上がって襲い掛かってくるわけはないんだけれど――そんな、まるでどっかのゾンビ映画じゃあるまいし!――まあ、混乱をきたしたミミにはそこまで頭が回らなかった。中身を回収するのは後だ、それよりさっさと立って逃げないと!!

 鳴神ミミ、三十一歳にして嬉しくもない初めての体験が彼女を待っているのであった……。