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ひどい話だと思った。




「どうした?弥生子」


畑仕事でカサついた手のひらが、自分の額を撫でている。
寝転がった自分の頭の下にある、骨っぽさを感じる膝。
上から覗いた宍色をした少年の顔は、まだまあるくて、きゅっとつり上がった瞳は意思が強そうで、そして、口元に傷はなかった。


「錆兎くん」


ああ、この人はわたしを置いていってしまう人だ。
ぼろりと生ぬるい涙が流れた。






自我を持つような、持たないようなそんな年の頃から、違う人間の半生のようなものを眺めながら生きてきた。
それはこの明治の世とは違って、真新しい不思議なものに溢れた世界での、ある女の半生だった。
それを始終眺めていたせいか、わたしは常にぼんやりと宙を見て、言葉もなく、笑うことも泣くことも怒ることもない子供だった。
何故こんなものを見ていたのかはさっぱり分からない。ただひたすら夢現の中で、自分の生と女の生の両方を辿っているようであった。
そんなわたしを、家族は薄気味悪く思っていたのだろう。弟が生まれた時、母は家から随分と離れた所にある村の入口で、「ここで待っていなさい」とそう一言告げて二度とわたしを迎えに来ることは無かった。

身を寄せた村は割合に広く、奉公先を転々としながら日銭を稼いで生きていた。
しかし、四つか五つの子供ができる仕事などあっという間に無くなるもので、ある程度働くと外に遊びに行くように放り出されるものだった。
だが、感情の薄い私の顔に近寄ってくる子供はなく、ぼんやりと空を眺めては頭の中だけにある知らぬ世界に生きる女の半生に思考を巡らせるのが日課になっていた。



「お前、ひとりか?」



いつだったか、ひとり少年が声をかけてきた。

うすらと桃色がかった髪に、溌剌としてきりりとした顔立ちの少年は錆兎といって、村の子供にも人気の面倒みのいいお兄さんとして有名だった。


「ひとりなら、今から鬼事をやるらしいから、一緒に遊ばないか?」


くりくりとまあるい目玉が輝いている。眩しい少年だ。


「あんまり、いろんなひととあそぶのは苦手なの」


きょとりと少年の首が傾く。


「そうなのか」

「そうなの」




「そうか、じゃあ俺と話そう」



なんとも不思議な少年であった。

それから、錆兎くんはことあるごとに私の世話を焼いていた。
そのせいで村の子供たちとの交流は薄くなっていたようだし、そもそも錆兎くんのように体力のありあまっていそうな少年にとって、わたしと二人ぽっちでだべったり、村を探検するなんて遊びはつまらなかったろう。
だのに、彼は毎日私と遊んで世話を焼いては、夕刻になるとわたしを背におぶって帰路についた。

錆兎くんの膝を枕に、草っ原の上で昼寝をするのは存外気持ちのいい行為で、その日も錆兎くんに額を撫でられながら夢現を漂っていた。
ゆるゆるととろけた思考の中で、またあの女の半生に思考を巡らせる。
あの女は、絵巻物やら本やらを読むのが好きらしく、また感情も豊かなようで物語の中の人物に思いを馳せては泣いたり笑ったりしていた。ご執心は、大正時代とかいうのを舞台にした、鬼と人の物語らしい。


自分とは大違いだな。


そんなことを思いながら、ふとのぼってきた意識に目を開き、こちらを見て微笑む錆兎の宍色に触れた。
宍色。この国の人間の肌の色で、肉の色。生の色だと、そう思った。

…はて、宍色?自分は今まで宍色だなんて言葉、知っていただろうか。
その瞬間、ぐわりと血の気の引く音が聞こえた。



宍色の髪をもつ狐面の少年。
刀をもって戦い方を教える少年。
口元に傷のある少年。
…すでに、死んでいた、少年。





ああ、なんてひどい話だと思った。












「錆兎くんは、きっとわたしを捨てて置いていくよ」



そんな言葉を言われたのは、少女の涙を初めて見た日のことだった。

その少女は弥生子といって、捨て子で、俺の住む村に身を寄せていた。俺よりも五つは年下で、まだ幼いながらに少ない日銭を稼いで暮らしていた。

弥生子は感情の無い子供だった。感情が無い、というかぼんやりとしていて、全く現実に生きている気配がしない。村の大人は、月に魅入られたとか、直に神さまに連れていかれるとか言う始末で、村の大人にも、はたまた子供たちにも弥生子は遠巻きに見られていたのを覚えている。

彼女と話すのは俺くらいで、まだ十一ほどの齢の俺は、不遜にもその少女を憐れだと思った。
家族に捨てられ、五つほどの年頃で日銭とも言えないような銭を稼いでくらす弥生子のことを、憐れんでいた。俺は彼女の面倒を率先して見ていた。


弥生子が泣いたのを見たのはたったの一度きり。
俺の膝でうとうとしながら、ふと俺の髪に触れたと思ったら顔を真っ青にして、脈絡もなくはらはらと泣き出した。

ぐすりと鼻をすする弥生子を背負いながら、夕暮れに落ちていく家への帰路を辿る。


「そんなに泣くなよ、弥生子。一体どうしたっていうんだ。」


「なんでもないよ」


「なんでもない、なんてことはないだろう。俺はお前が泣くところをはじめて見たぞ」


俺には言えないことか?
俺は、俺がこの憐れな少女と一等仲がいいことを自負していたし、だからこそ、この妹のように可愛がっていた少女が隠し事をすることがとても気に食わなかった。


「だって、錆兎くんはきっとわたしを捨てて置いていくよ」


だから言わない。

頭をガツンと殴られた気分だった。
あれほど面倒を見ていた少女の信頼を、俺は欠片も得られていなかったのか。
そんなことは受け入れられなくて、でも冷静な男を装いたくて言葉を吐いた。


「…いささか心外だぞ。俺がそんな男に見えるのか」


思わず語気が強まった。
それでも、弥生子は何も言わない。
むかっ腹がたって、たって仕方がなかった。


「俺は!何があってもお前のことを捨てておいて行くことはないし!必ず!お前の所に戻ってくる!」


図らずも弥生子の言う通りになったのはその晩のことだった。
俺の家は、鬼に襲われた。








「錆兎!」
「ああ、炭治郎」


蝶屋敷ですれ違ったのは同じ師を持つ、弟弟子の竈門炭治郎だった。
相変わらずの様子で木箱を背負い、後ろにはオドオドとした様子の金髪の少年を連れ立っている。

炭治郎は齢が十五程で、ちょうど、あの弥生子と同じ歳のはずだ。
鬼に家を襲われたあと、家族を失った俺は弥生子に二度と会うことなく、鱗滝さんの所で世話になることが決まった。
しばらくはバタバタと忙しない生活で他のことを考える暇が無かったが、ふとした時に弥生子のあの言葉を思い出し、ぎりぎりと歯を噛んだ。

十年の時が経った今も尚、忘れられない。酷く傷つき、そして未だに怒りが消えないあの言葉。
普段は感情が薄いくせに、あんな、悲しそうな、それでいて諦めた表情をしやがって。
入隊試験の時も、その言葉が頭をチラついて、斬るべき敵からあわやのところで逃げてしまった。
…義勇にさんざっぱら泣かれてしまったので、結果的には良かったのかどうなのか。


ああ、絶対にあいつを、弥生子のやつを見つけ出してやる。
弥生子は、今も息災でいるだろうか。いや、息災でいてくれなくては、困る。



「同期の女の子の隊士と合同任務があって、」

「へえ、同期の」

「名前は弥生子といって、」



「今なんと言った」

ひいと金髪の少年から声が上がる。しかし知ったことではない。

「あの、錆兎…」
「いま弥生子といったか」

「そうだ、弥生子。同い年の、女の子の鬼殺隊士だ。」



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