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まずいまずいまずい。

鬼が多すぎる。

炭治郎は深い森の中をひたすらに駆けていた。
まだ日は高い。
しかし、森の木々は鬱蒼と生い茂って地面に一片の光も落とすことがない。

カリカリと背に負った木箱の中から引っ掻く音がする。
彼女の訴えを聞きながら、それでも妹を戦場に出すものかと、兄である炭治郎は無視してただ走った。

炭治郎自身、まだまだ鬼殺隊では下級の剣士であるがそれなりの鬼を切ってきた。
しかし、鬼が徒党を組んで襲い掛かるとは思いもよらず、(そもそも鬼は仲間を作らないと聞く)一人で対処するには荷が重すぎた。

鋭い斬撃が首元を通過する。
やはり呼吸を習得した所で、根本的な身体機能は鬼には叶わない。

炭治郎に近づいてきた鬼は、その顔に下卑た笑みを浮かべながら再度その腕を振りかぶった。

まずい!
即死は避けられても致命傷は避けられぬ。

不思議なことにゆっくりと流れる視界は、背後から肉薄する鬼と、自分の背負う箱から伸びる女の足を捉えていた。

そして炭治郎の効きすぎる鼻は、場違いな火の粉の匂いを感じ取った。




「大丈夫?少年」




その声は、実に柔らかく炭治郎に語りかけていた。

ひと瞬き。

そんな短い間に、炭治郎に迫った鬼は首をごとりと落として地に倒れ伏していた。

炭治郎にやんわりとほほ笑みかける女性は、その女人らしい見た目とは裏腹に、火の粉の匂いが漂っている。


「あ、助けて下さってありがとうございます…!」

「気にしないで。あの数の鬼を相手にするのは難しいことだよ。よく生き残ったね」


はっとして自分の駆けてきた道を見渡すが鬼の姿はない。

彼女が、全ての鬼の首を切ったのだ。

炭治郎は息を飲む。
彼女は自分よりも上の階級の剣士だ。
そのことを実感して、ぎゅっと自分の握る刀の柄を一層握りしめた。


「急に見知らぬ鴉に呼び止められて驚いたけど、ともかく、無事で何より。少年、お名前は?」

「か、竈門炭治郎です!」


そう、とゆったりと返した彼女は、「篭手田 光子」と静かに名前を告げてきた。
どうやら炭治郎の鎹鴉が危機を察して、近くの光子を呼んできてくれたらしい。

ふいに、火の粉の匂いに饐すえた匂いが交わった。
なんとも言い難い匂いに、炭治郎は顔を顰める。脳内でその匂いを思い出そうと頭を巡らしていると、ふと自身の父親を思い出した。

そうだ、これは。

病床に伏した人間の匂い。
自身の死に、覚悟を決めてしまった匂い。

そして、その匂いは紛れもなく光子から漂っていた。



「竈門くん」


「は、はいっ!」


しかし彼女が病人とはとても思えない。
でも、死が近い人の気配に似ている。

目の前の彼女は、その右手に刀を握ったまま炭治郎を見つめていた。


「隊律違反の自覚は、もちろんあるんだね?」


炭治郎はその赫灼の目を見開いた。

なんで、どうして。
妹は、禰豆子は箱から出ていないのに。
そう思った瞬間に、光子が首を切った鬼から炭治郎を守るために、禰豆子がその扉を開けて足を伸ばした一瞬の光景を思い出した。

きつく唇を噛み締める。
自分のせいだ。それさえなければ、光子は鬼となった妹の存在に気が付かなかったはずなのに。
いや、光子の実力なら、あるいは箱から禰豆子が出ずとも、気づいてしまった可能性もあったのかもしれない。

何にしろまずい状況だった。
彼女には炭治郎の実力では適うはずもない。
鬼殺隊に入って一年も経たずに除籍したのではなんの意味もなさないでは無いか。


「鬼は殺さなくてはならない。
君が後ろに背負う彼女が、竈門くんの家族なのか恋人なのかは分からないが、そのことは君自身良く分かっているはずだね」


光子の目は、こんな状況でも穏やかで、刀を持っていることが可笑しく感じるほどだ。


「それに、鬼を生かして一番苦しむのは君でも周囲でもない。」


彼女自身だ。

その言葉に、炭治郎は頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。
苦しむのは禰豆子?
禰豆子が鬼になって、明確な言葉を聞いたことはない。それでも、禰豆子のために、彼女が人間に戻る術を見つけようと必死になってきたつもりだった。

つもり、だっただけなのか?

俺は、俺のことしか考えていなかったのか?

ぐらぐらと視界が揺れるような心地がする。
嫌な匂いがして、気分が悪くなった。



ふわりと自分と似た色の髪が視界に散って、炭治郎は顔を上げた。

禰豆子。

禰豆子は、ただ何をするでもなく光子に相対するように立っていた。


「…いい子だね」


光子は、音を立てて刀を構えた。
その刃は赤く染め上がっている。

それと同時に、禰豆子が右手を上げたのが分かった。
光子の柳眉がぎゅっと釣り上がる。


「待って!やめてください、光子さん!」





ぐしゃり。

醜悪な顔が、地に落ちた。


「…え?」


光子の間の抜けた声が霧散した。

何が何だか分からない。
ただ状況を説明するとするならば、右手を血に染めた禰豆子が、光子の頭をその胸に抱くようにして、守っているようだった。

ガシャンと光子の右手から刀が滑り落ちる。

簡単な話だ。
鬼に残党がいて、禰豆子に集中していた光子はそれに気が付かなかった。
それを禰豆子が守った。

ただ呆然とする光子と炭治郎を後目に、禰豆子はゆっくりと光子の頭を撫でていた。


「ね、ねねねね禰豆子!!!」


やめなさい!失礼だぞ!と炭治郎が繰り返すも、禰豆子は光子を抱きしめて頭を撫でるばかり。

これは引き剥がさねば、と炭治郎が一歩踏み出した時、光子の腕が禰豆子の腰に回った。


「え?」


光子さん?
思わず漏れた炭治郎の声は、光子には届いていないようだった。
禰豆子の腰にゆるゆると巻かれた光子の腕は、次第に力が籠っていく。

涙をこらえるような声は聞こえない。
それでも、炭治郎には光子が泣いているように見えた。
まるで母親に縋り付く子供のように。

もしくは、病床の人間が死にたくないと縋り付くように。












見逃してしまった。


数日に及ぶ任務が終わって、煉獄家に帰ってきても、私はそれに思考を囚われていた。

あの後、炭治郎と鬼の禰豆子を見逃した。

鬼は切るべきもので、憎むべきものだった。恐怖の対象だった。
でも、ふと考えてしまったのだ。

私を鬼に差し出した養父と、私を鬼から守った禰豆子、どちらが善でどちらが悪なのかと。

私にとって、人間は恐ろしい生き物だ。
腹の中で何を考えているか分からない。

ただ唯一、煉獄家の人々には報いたいと、その一心で生きてきた。

それなのにどうだろう。
私は鬼に救われた。
あまつさえ、幼子にするように頭まで撫でられる始末。

右手を自分の髪に這わせる。
禰豆子の温度の名残があった気がした。

優しさを与えられた時、私は何を返せばいいのか分からない。
私にはこの身体ひとつしかないから。

何より、そんな善の人間を、殺してはならぬと思ってしまった。
一度そう思ってしまったら、私は禰豆子を殺せない。殺せなかった。

私が彼女に、炭治郎と禰豆子に出来ることは、ただ見逃してやること。
柱でもない私では、お館様に口添えするにしても、大したものにならないだろう。

きつく口を引き結び、手に持った箒を握りしめる。
すると、風に流れてバサバサという羽音が聞こえてきた。



「カア!カア!光子!篭手田光子!
柱合会議ニ出廷セヨ!竈門炭治郎及ビ鬼ノ禰豆子ノ参考人トシテ、柱合会議ニ出廷セヨ!」



鴉の甲高い声が響き渡る。

杏寿郎さまは、まだ帰っていなかった。




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