這い寄る混沌に魅入られた少女と五条悟のはなし
生まれてこの方、家族から浴びせられる視線は冷えきったものだった。
樗木の家は、名家とは言わないまでもそこそこ歴史のある呪術師の家だ。
そんな家に生まれた私は、呪力が発現するはずの四歳の時分になっても、何とか呪霊を認識出来る程度のそれしかなく、既に年の離れた姉もいた樗木の家において用済みだった。
用済みだったとは言っても、一応は平成時代の先進国日本の一家庭である。
母屋ではなく離に押し込まれてひとり砂を噛むように食事をし、姉とは違う師に一応の剣の稽古だけ付けられた。
跡継ぎの婿を迎えるはずの姉を守る壁として、いざと言うとき使うつもりなのだろうと思う。
世話役は居ない。食事を母屋から持ってくる以外は接触もしてこない。
まだ幼い当時の自分は、酷く悲しかったのだと思う。
小学校で周りの皆が話すように、母や父や姉に愛でてもらえなかったことが。
いざ顔を合わせても、何の感情もないとばかりに存在を無視されてしまうことが。
それが悲しくて辛くて、どうにか呪力が宿らないものかとひとりぼっちの布団の中でずっと思案していた。
そんな生活を続けて幾星霜、小学校も五年か六年になった頃だと思う。
この世のものとも思えぬほどおぞましくて、そして何より甘美な声が私に語りかけたのは。
─呪力が欲しいのか?
ひとりぼっちの部屋に、夕日の眩しい光が差し込むころだった。
相変わらず、遠い母屋から微かな人の声が聞こえてきていた。
その日、私は国語のテストで満点を取ったけれど、当然家の人は誰も褒めてくれない。それどころかいつもの如く見て見ぬふりをされて、やはり誰も自分を見てくれないということを突きつけられた日だった。
謎の声と共に、ドロドロと粘着質な物体が畳を這っていた。
私は、これを見た瞬間に母屋の呪術師たちへ声をあげるべきだった。
─呪術師にどうにかできる存在であるかは謎だけれど。
「呪力、くれるの?」
─呪力そのものとはいかないが、似通ったものをくれてやることは出来る。要するに呪霊や呪力に干渉出来ればいいのだろう。
その粘着質な物体は、よくよく見れば触手のような、肉塊のような様相のわりに流暢に人の言葉を操る。
小学生の私には、いまいちそれが言うことが分からなかった。
─それで、呪力が欲しいのか、欲しくはないのか。
欲しい。
何よりも望むものだ。
七夕やクリスマスなんてものは学校の擬似的なそれでしか体験したことは無かったけれど、こっそりと短冊に、他の人に見られないように書いてみたり、イブの夜に寝枕で密かにお願いしたりもした。
─それがあれば、お前はきっと父や母に認められるぞ。
「欲しい!」
わんわんと声が響いた。
同時にくつくつという厭らしい笑い声のようなものも聞こえた。
─私は旧き神の一柱。お前に授けるこの力、存分に奮うといい。
私に呪力に似た何かを落として言ったその神は正に這い寄る混沌。
それを知っていれば、私は目先の欲に囚われなかったろうか。
「悟、新入生だ」
ばさりと学長によって眼前に落とされたのは、数枚の紙資料がまとめられたひとつのファイルだった。
口の中の飴玉を噛み砕きながらその中身を覗く。
右上に見えた小さな写真には、呪術師にしては珍しく気弱そうな顔をした一人の少女がおさまっていた。
「樗木〜?」
そして年頃の少女にしてはしゃんとした字で細く書かれた名前を見て声を上げる。
「何か問題があるか」
「問題っていうか、樗木の家の娘ってこんな幼かったですっけ?」
そう言いながら過去の記憶を呼び起こす。
「確か僕と同年代の娘だったと思うんだけど」
「お前が覚えてるとは珍しいな」
学長が心底不思議に思っているような声を出した。傍から聞いたら普段の素っ気ないそれと大した違いは無いけれど。
「そりゃあ樗木から釣書届いてたので」
「…お前ちゃんと釣書見てたのか」
「いや、釣書は見ずに捨てましたけど。その後珍しく娘も連れて会いに来た呪術師がいたので何となく覚えてました」
馬鹿な親子だった。
後から聞いた話、樗木は呪術師としての権力を上げるために婚姻による繋がりを、それは必死になって求めていたらしい。
それにしても御三家のひとつを狙ってくるとは大した度胸だが。
「一年生ってことは、妹だろうなあ。それにしても表に出てこないっていうのは珍しいけど」
「…呪術師の家系だ。何があってもおかしくはない」
秘密兵器として秘匿されていたか、妾腹か、居ないものとして扱われていたか。
呪術師の家は人間の欲の坩堝だ。呪力を扱うだけあって陰気臭いうえに、叩けばホコリしか出てこない。
「そういえば、二、三年前に呪術師の死亡事件が起きたのも樗木だったか」
これは少しばかりこの界隈を騒がせた。
呪術師の家で複数人が発狂死したという。そもそも発狂死というのが意味がわからない。使役する呪霊の暴走と聞いたがそれ以上の詳しい話は聞き及んでいない。
「何だかきな臭いなあ」
「きな臭くてもお前の生徒だ。きっちり育ててやれ」
「そりゃあもちろん」
にっこりと口角をあげて見せて、隅で堅い表情をする樗木の娘の写真を眺めた。
「たえ、ね」
写真の中の少女の目は、年頃のわりに酷く澱んで見えた。
脳が激しく揺さぶられる。
久方振りの感覚を味わった。
巨大な触手のような、肉塊のようなそれに遠く殴り飛ばされた。
思わず目を見開いたし、自分の周囲にいた生徒たちも唖然とした顔をするのが見えた。
「成程そういうこと」
成程、とは言っても理屈は分からない。
遠くに真っ黒のぬらぬらした触手が、少女の背後で揺らめいている。
くたりと首を傾げた少女の目は澱んでいて、焦点は合っていない。正気でないのは一目瞭然だった。
自分の受け持ちの生徒であるその少女は、呪術師の家に生まれた、それでも平均的な、もしくは平均以下の能力の呪術師のはずだった。
実家と何やらきな臭い問題はありそうなものだが、扱うのも呪具の刀と蛸のような式神を扱うだけ。
しかしそんな少女の扱う"式神であるはずのものによる攻撃"が自分に触れた。
自動化された無下限術式による絶対的な防御とも言うべきそれが、何故か効いていない。
鼻の下を何か伝う感触がして手の甲で雑に拭いさる。
殴られて鼻血を出すとは本当に学生の頃以来ではないか?
「五条先生!」
「あ〜、大丈夫大丈夫」
全く理屈は分からないが、一先ずざわめく悠仁や野薔薇に手のひらで待ったをかける。
恵は難しい顔をしていた。
今まで共に過ごしていた同級生の一人がおかしくなって、あまつさえ最強と名高い呪術師に一発食らわせたとなれば不安にもなるだろう。
雑に自分の目を覆っていた目隠しを取った。
真っ直ぐと少女を見つめる。
─限りなく呪力に近しいが、呪力ではない。
この極限の状態になって初めて気がついた。
少女の呪力は、呪術師と名乗るには不十分なほどの量だった。
当然これでは式神を扱えるわけがない。
そして、少女の呪力に紛れ込むように重なるおかしな力。
では、少女が扱うあの式神もどきは一体何か。
樗木がたえを高専に放り出した理由は、きっとこれにある。そして今の今まで存在が隠されていた理由も。
「ひとまず今は攻撃が当たるかどうか、かな」
彼女はずっと、青白い顔をして名状しがたい文言をぶつぶつと唱えるばかり。
─涙のようなものが流れたように見えた。
「よーし、たえ、先生がどうにかしてやるからな」
大丈夫、僕最強だから。
樗木 たえ
這い寄る混沌に力を与えられた少女
先生に生徒が攻撃ぶち当てるところがみたいが故のこじつけ設定。
破滅に向かって行ってしまう教え子をどうにかしたい先生が奮闘する話。
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