私の夏休み

 まっしろな入道雲。痛いほどまっすぐなお日様。朝夕に響く蝉時雨。冷やしたラムネ。なかなか終わらない宿題の山と、うだるような暑さ。対抗する扇風機。夜には消されるクーラー。軒先で揺れる風鈴。庭に転がったままの水鉄砲は二つ。毎日欠かさず届く手紙。それから、

「こんにちは。迎えに来たよ、とあちゃん」

 白いワンピースを着た、見たことのない女の子。それが、私の今年の夏休みの全て。そしてもちろん、私の名前はとあだった。

 けれど私は、目の前の女の子を知らない。

 見たこともなければ話したこともない。この辺りに住んでいるとも思えない。なのに、一方の彼女は、鍔の広い麦わら帽子を揺らしてにこにこ微笑んでいる。よく見れば可愛らしい顔立ちをしていた。

 見知らぬ美少女はなぜ私の名前を知っているんだろう。そして何の用だろう。迎えに来たってどういうこと?

 私の頭の中はまたたく間にめちゃくちゃになってしまった。疑問が多すぎる。

「……あなた、誰?」

 こんがらがった思考から、どうにか一番の疑問を絞り出す。でも返ってきたのは、

「あれ? 私のこと、忘れちゃったの? そっか。でも、大丈夫だよ。とあちゃんは、絶対私のこと知ってるもん」

 なんて、噛み合わない上にあいまいな答えだけだった。少女への不信感が加算されて、流石に怪訝に思えてくる。なまじ彼女が人懐っこそうな笑顔を絶やさないのも、ますます怪しい……っていうのは、ただの偏見か。

 それでも、眼前の彼女が怪しいことには変わりない。全く面識がないのに、こっちの名前も住所も知ってて家を訪ねてくるなんて、考えただけでも怖すぎるから。

「ごめんなさい。人違いだと思う。別のところを当たってもらえますか」

 というか、私が見覚えがないことは事実なんだから、さっさと帰ってもらうのがお互いのためじゃないか? 

 そう考えてドアを閉めようとしたけれど、閉まり切る前に手を掴まれた。その子の手は、やけにひんやりとしていた。ぎょっとして相手の方を見れば、くりくりした大きい瞳と目が合った。同時に少女が口を開く。

「人違いじゃないよ。私の言うことを、とあちゃんが信じようと信じまいと、あなたは私を知ってるし思い出せるの。だから聞いてほしいな。あんまり話も長くないから」

 ……正直、ここまで言っている意味がわからないと、面倒なキャッチセールスか何かかと疑ってしまいそうだ。夏休み前の授業で習った範囲が悪質セールスだったけど、肝心の対処法は覚えていない。もっと真面目に聞いていれば良かった。後悔はつくづく役に立たない。

 ひやっこい体温が握られた手のひらに伝わる。そういえば、この女の子は、今日みたいな暑い日でも汗一つかいていない気がするけど。一体この子は何者なんだろう。そんなことをぼんやり思う私に構わず、当の彼女は話を続けた。

「ねえ、とあちゃん。七月の頭から八月の終わりまで、とあちゃんのところには手紙が届かなかった? ずっと、毎日一通ずつ。宛名がなくて、内容もバラバラの不思議な手紙」

 彼女が語る話には脈絡がなくて、聞いていてちょっと戸惑った。でも、手紙と言われると思い当たる節はある。何なら相手が話した通り、つい先月から昨日まで、手紙はポストに入っていた。毎日欠かさず、ずっと。

 見た目はレターセットの手紙そのものだったが、便箋にはいつも変な噂が書かれていて。届く度に面白がって封を開けていた覚えがある。今日は届いてなかったけれど。

 それを、どうしてこの子は知ってるんだろう。また一つ、疑問が増えてしまった。すると彼女は、私を見てくすりと笑ってこう続ける。

「心当たりあるんだね。顔に書いてある。とあちゃんってほんとにわかりやすいね。ちゃんと全部読んでたことも知ってるよ。しかも、書いてあった話はその都度家族に話してたね。図星でしょ?」

 楽しそうな語り口で、知る由もない事実を声にする少女。もちろん図星だ。

 普通に考えれば恐ろしい状況なのに、不思議とよく知ってるなあ、くらいにしか思わない。暑さにやられて、とうとう私もおかしくなってしまったのかもな。他人事宜しく考えた。相手の話はまだ終わらない。

「毎日熱心に読んでたねえ、とあちゃん。でも、注意書きは読めなかったのかな。あの手紙は、人に喋っちゃダメなんだよ。人に話したから怒られるって訳じゃないんだけど」

 注意書き? 言われて初めて知ったことだ。手紙の内容を他人に教えてはいけないなんて知らなかった。普通に弟に見せたりしちゃった、と焦ったものの、次の発言で胸を撫で下ろす。

 怒られる程のものじゃなくてよかった。そう思う私の心を見透かしたように、女の子は小さく頷いた。

「むしろ、とあちゃんが喋ってくれたおかげで、私はあなたを見つけられた。こうやって、迎えに来ることができたの。……ところで」

 彼女曰く、私はルールを破ってしまったけど、逆にそれが良かったらしい。なんだ、良かったじゃん、と得意顔になったのも束の間、握られていた手が離される。掴まれている時には気づかなかったが、握られていた手のひらはあり得ないくらい冷たくなっていた。久しぶりに感じた異常さが、私の危機感を呼び戻す。

 今までどうして話を聞いていたのだろう。そもそも個人情報を知られている時点でやばいじゃないか。早く扉を閉めて話を終わらせなくちゃ。

 今更すぎる判断でドアノブに手をかけた瞬間、相手の両手が私の肩に伸びた。避ける暇もなく、ぽんと冷たい両手が私の肩に乗った刹那、途端に私の思考は混濁した。脳をぐちゃぐちゃにかき混ぜられていくような感覚。そんな中で、得体の知れない少女の声だけが明瞭に響いてくる。

「ねえ。そろそろ思い出したでしょ? 覚えてるよね、私……ううん。ロアわたしのこと」

 思考がぐるぐる回る。回っている。

 この子は誰だ。ロアとは何だ。正常な疑問が、精神が、彼女の言葉でめちゃくちゃに潰されていく気がした。

 ロア。ボーガンの爆発。宇宙人の誘拐。包帯を巻き続けた四十歳は死ぬまで。エレベーターのボタン。好奇心。自宅の死体。バチカンの解剖はなし。動く人形。コロラドの殺人予告。開かないマンホール。蓋。ロア。ロアって何? ロア、ろあ、信じようと、信じまいと──…………。


 数多の熟語単語、短文乱文が脳を埋め尽くした。意味なんて誰にもわからない。あるようでないような、嘘のようで本当のような、噂話のようなものだ。

 それが、私の精神を滅多打ちにすること数秒。脳内を掻き乱し巣食った単語の羅列が引いた頃、私の脳裏には忘れていた記憶が蘇っていた。

 そうだ。どうして忘れていたのだろう。
 目の前の彼女は、知らない人なんかじゃない。「昔から仲の良かったロアちゃん」じゃないか。私が白昼夢写真の計算ドリルで困っていた五歳の時から仲良しの……。

 いつの間にか肩に置かれた手は下ろされていた。後ろで両手を組んで首を傾けた相手に、私は簡単な返事をする。

「うん。思い出したよ、ロアちゃん。変なこと言ってごめんね」

 私が決められたように口を動かせば、ロアちゃんはすぐさま目を輝かせた。ううん、と可愛らしく首を振って、こちらににっこり微笑みかける。心底嬉しそうな表情だ。

「でしょ? 良かったあ。じゃあ、早速一緒に行こう。ロアわたしはとあちゃんを迎えに来たんだよ。とあちゃんは、ロアわたしについて来てくれる?」

 そう矢継ぎ早に述べた彼女が、私に手を差し伸べてくれた。いつもひんやりしてて、あたたかい手。私はそれを、もちろんだと肯定しながら握る。心地良い感覚が手に伝わる。

 ロアちゃんがますます嬉しそうに笑うのが見えた。繋いだ手がそっと握り返される。

「やったあ! じゃあ、今すぐ行こう。ロアわたしが手を引いてあげる。大丈夫だよ、とあちゃんはロアわたしについてくるだけでいいからね。なーんにも怖くないよ、大丈夫。さあ行こう、今日は飛行機雲が晴天だよ」

 せっかちな彼女らしく、言葉を言い終わらないうちに足が動き出していた。軽やかな足取りに釣られて、こちらも楽しくなって歩き出す。

 今や彼女への不信感や恐怖なんて、一ミリも存在していない。だから、ロアちゃんと行く道にも不安なんてない。むしろ、今は楽しくて仕方がなかった。空を見上げてみると、彼女の言う通り空は飛行機雲が日本晴れ。土砂降りの巻積雲じゃなくて良かったと思う。気分が弾む。

 私達は、歩いて歩いて歩いた。
 見覚えのない街に出ても、人がいなくなっても、道がなくなっても、そんな些細なことなんてどうでもいい。ただロアちゃんが手を引いて歩いてくれるならそれだけで良いのだ。彼女がいる限り、私はずっと笑っていられる。幸せだ。

 えも言われぬ多幸感とともに歩いていれば、不意にロアちゃんが喜色満面に口を開いた。

「楽しいね、とあちゃん。ロアわたしも、とあちゃんと一緒にアクチノイド神社の参道を辿れてすごく嬉しい。ねえ、とあちゃん。ロアわたし達、このままずっと、一緒にいようね。とあちゃんも一緒にロアわたしたちになろう?」

 一言二言呟いた相手。ぎゅっと手を握られる力が強くなった。最後の質問が少し冷凍のピカータのように不安げだったけれど、今更聞かれなくたって私は元々そのつもりで。だから、一緒に《ロア》になろうと頷いた。一方、彼女は私の返事に喜んだ。その顔が、私にとって最高の夏の思い出になったのである。


 私の夏休みに、風鈴やラムネや入道雲なんて存在しなかった。ただあるのは、ロアちゃんの笑顔と手紙だけ。それだけが、私の夏休みの全てだったのだ。ああ、どうして今まで気づかなかったのか。こんなに簡単なことなのに──。

 一人巡らせた考えに、満足げな笑みを浮かべる私。晴天の飛行機雲もアクチノイド神社も、きっとロアちゃんと私を祝福していたに違いないだろう。