ぽたり。
一筋の汗が、骨張った頬を伝い落ちる。男の潜む押入れの床に、丸く染みを作った。
男は体躯に似合わず、その体を縮こめ震わせていた。まるでおばけに怯える子供のように。光の指さない押入れの中はカビ臭かったが、男は文句も言わない。声も出さず、息も殺して、ただ押入れの中に隠れている。
断りを入れると、この男は強盗などではない。むしろ、れっきとしたこの家の家主である。ならば、彼はなぜ押入れに?
彼の部屋は決して広くない。普通のアパートの一室に、一人暮らし。普通の六畳一間。押入れと玄関の距離も長くない。だからこそ、それは耳に入ってくる。
玄関のドアを一枚隔てた先からは、絶えず異音が響く。何か硬いものでドアを引っ掻いているような、はたまた金切り声のような、嫌な音。
キィ、ギ、ギギギギギ。
それは一定のリズムを刻んでいた。
キィ、ギ、ギギギギギ。
男はガタガタと震えていた。姿を隠してもなお耳を劈く異音。心当たりはあった。大有りだ。彼がガクガク体を震わせて、押入れに閉じこもって怯えているのはそのためだ。
男は怯えると同時に祈っていた。早く音が止んでくれ、ではない。確かにそれも一理あるけれど、彼の本当の願いは、
「××くーん、何で開けてくれないの? あたし、ここに入ってくの見たよー。ねえ、お話ししよう? 出てきてよー」
外から呼びかける声の主……ないし、自宅のドアを中華包丁で引っ掻きながら呼びかけてくる異常な女がどこかに行ってくれることである。
外の呼び声は、至って普通の女の声だ。朗らかではっきりした聞こえやすい声が、金属音に混じって室内に届いてくる。
それ自体が異常である。男を呼ぶならインターホンを鳴らせばいいし、設置されていないなら今のように呼びかけるだけでいい。彼女の声は通りやすい。彼も気付いて扉を開けてくれることだろう。少なくとも今のように、“中華包丁でドアを引っ掻いてこじ開けよう”とまでしなくていいはずだ。
にも関わらず、扉の前に佇む彼女は、一向に金属音と話すことを絶やさなかった。ギィギィと嫌な音を立てても嫌な顔一つ見せず、変わらぬ笑顔で口を動かし続ける。もちろん、一向に立ち去る気配はない。
そんな彼女の一途さが、男をますます怖がらせた。自分の名前が呼ばれるごとに、震える肩を跳ねさせて、目尻に涙を滲ませる男。さながら少女のような怖がり方をする。いや、実際なりふり構う余裕がない程怖かったのだ。金属音もさることながら、教えた覚えのない自分の名前を繰り返されることは特に。
しかし、小狭いアパートの一室に出口は複数もない。唯一の脱出口は件の女に塞がれている。かといって窓から飛び降りる勇気もない男には、ただことが過ぎるのを待つしか出来なかった。早くどこかへ行ってくれと、半泣きで願うしかなかったのである。
その必死な祈りが届いたのだろうか。不意に、不快な騒音がピタリと止まった。女の声も同時に止んだ。外にも室内にも、久方ぶりの静寂が帰ってくる。
とうとう諦めたのだろうか?
男は恐る恐る押入れの引き戸を引いた。特に部屋に変哲はない。外にも気配は感じられなかった。
帰ったのか。帰ったんだ。
とうとう諦めたんだ、あの女も!
先程までの震えはどこへやら、彼は勢いよく押入れから転がり出た。溜まった涙を拭いつつ、すっかり安心したように息を吐く。
思い返せばあの女は、電車で会った時から変だった。初対面の自分に、さも親しげに話しかけてきた。
それなのに、肝心の会話は噛み合わなかった。さっきまで饒舌に話していたかと思えば、急に口を真一文字に結んで黙り込んだりする。同じ話を繰り返した次の瞬間には、突然数年前の出来事について語り出す。挙句、鞄から覗いた中華包丁。明らかにおかしい。異常な女だった。
でも、そんな気狂い女ももういない。外からの声も音もなくなった。一時はそれこそ気が狂いそうだったが、どうにか大事には至らなかった。一安心だ。後は念のためチェーンをかけて……。
男はすっかり安心していた。油断しきっていた。そのため、一瞬何が起きたかも理解できなかっただろう。チェーンをかけに足を踏み出した彼の目の前で、ドアがガチャンと音を立てたのだ。紛れもなく鍵が開いた音。男が固まる。
だが、固まった彼の姿など気にも留めず、扉は蝶番を軋ませて開いていく。
嫌ほど聞いた金属音の先には無論、
「やっと開いたぁ」
と言いつつ笑う女がいた。彼女の両手には、ついさっきまでドアに傷をつけていたであろう中華包丁が握られていた。忘れていた恐怖の色が即座に男の顔に戻る一方、女は頬を紅に染める。
ヒイと金切り声を上げて、男がその場に尻餅をつく。その弾みで、彼の服のポケットから何かが落ちた。服を飛び出したそれは、フローリングに弾かれ、軽快な音を立てて床に転がる。コロコロと動く、恐らくプラスチック製の、指のようなもの。男は気づかない。
しかし、女は目敏く気づいたようだった。転がったそれを拾おうとはしないものの、途端に頬の血色を失った顔で「あーあ」と呟く。更に蹲み込んで、顔面蒼白で腰を抜かした男に目線を合わせた。あまりの怖さに喉を鳴らす彼。対する彼女は笑みを称えた口を開く。
「だーかーらー、言ったじゃないですかぁ。次《私》を捨てたら殺すって。言いましたよね? 捨てちゃダメなんだってば。ねえ、言いましたよね? 言いましたよね、言いましたよね言いましたよね言った言った言った言った言った言っイヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
その表情は至って穏やかだったが、言葉を続けるにつれ、彼女は息継ぎをしなくなっていった。壊れたラジオのように同じ言葉を同じトーンで繰り返すだけだ。やがて最後には、完璧に抑揚のない甲高い笑声に変わる。最早女は、目の前の男のことも見ていなかった。
ただただ際限なく笑い続けるだけ。明らかに異常な様子に、男はますます顔を青くする。
そして辛抱堪らずこう叫んだ。
「なんだよ、なんで、この前も今日も俺の家に来てんだよっ……! 何なんだよお前!」
語勢だけは強かった反面、声は情けないくらい強張っていた。ところが彼が声を荒げた瞬間、部屋中に轟いた笑い声はピタッと消える。
恐々男が視線を向ければ、すぐに真顔の女と目が合った。ひっと悲鳴が漏れる。けれど、見るからに怯える男に、目の前の彼女は柔和な眼差しを向けていた。薄いリップが塗られた唇が開く。
「あたしはアケミだって言ったじゃん。それに、場所がわかる理由も説明したよね? ××くんが、《私》を持っててくれたからだよ。そうしたら、どこにいても××くんを見つけられるんだってさー」
今や男は、恐怖で感覚すら遠くなりかけていた。それでもなお、女の言い分がやはり噛み合っていないことは理解できていた。この女の発言は、質問に答えているようで全然答えになっていない。話の通じなさを改めて感じさせられた男。体の震えがまた強くなる。
一方、肝心の女はといえば、なぜか突然包丁を手放した。大振りの中華包丁が、重力に従って彼女の手を滑り落ちる。これまた派手な金属音がした。
思わず肩を揺らす男。しかし女はひたすら、彼へ穏やかに話しかけるだけだ。
「ねえ××くん。なんで最初からドアを開けてくれなかったの? 何をそんなに怯えているの? あたし、怖くないですよぉ。あ、でもー……言ったよね。あたし、《私》を捨てたら殺すって。なのに××くん、捨てたよね? 《私》のこと。扉、開けてもくれなかったもんね。あたしのこと入れてくれなかったもんね。そっかあ。なるほどね。分かったよ、××くん…………」
穏やかに、ただ淡々と彼女は語る。彼女の視野に男の存在はない。一人語って語って語り続けて、ふと唐突に口を噤む。何なら、もう男にも思考らしい思考はなかった。彼の脳内は、目の前の異常な女への不理解と恐怖で満ちていたのだから……。
そんな思考不能状態だったから、彼は気づかなかったのだろう。次に相手が口を開く時、彼女の右手には包丁が再度握られていたのに。
「ひどいよね。あたし、《私》を大事にしてくれない××くんなんか大嫌い。死んじゃえ」
変わらぬトーンで淡々と言い添えた女と、すぐ目の前で怯えることしかしない男。普通のアパートの一室は今や、異常者だけの空間と化している。その中で、彼女は躊躇なく、淡々と男に中華包丁を振り下ろしたのだった。
*
物語としてはここでおしまいだが、最後に一つだけ余談をすると、この後男は遺体となって隣人に発見された。ちなみに、男の死は他殺として調査が続けられている。何せ凶器が持ち去られていたものだから。
……では、彼を殺して凶器を持ち帰ったのは誰か? そんなことは言うまでもない。言うまでもなく──。
「ねえ、××くんったら、ひどいよね。あたしはわざわざ言ってあげてたのに、聞かずに《私》を捨てちゃったんだもん。ねえ。そりゃあ殺されて当たり前だよね。《私》を愛してくれない××くんなんかいーらない。……でしょ?」