一人部屋の中、梨蘭は一冊の童話を読んでいた。
 否──童話と呼ぶにはあまりにも残虐で冷酷な話であった。
 狂気の皇子と、その皇子によって変わってしまった哀しき姉妹の話。かつて皇子に救われたその姉妹が皇子の存在によって歪められていく、そんな話。

 ひどく、暗い話。
 だが、梨蘭はその話が何故かとても好きだった。よく分からないが、白雪姫やシンデレラなんてものよりも、親近感を覚えたのだ。同時に何処か憧れを抱いているような気もする。


「……皇子、」


 梨蘭の脳裏に浮かぶのは夢の中に出てくる一人の青年の姿だった。現代ではおよそ考えられないような服装に身を包み、瞳の奥に世界への憎悪や狂気を孕ませた、残酷までに美しい男。
 思えば、あの男も夢の中で皇子、と呼ばれていたような。


「まあ、所詮夢は夢か」


 こんな童話を好んで読んでいるせいで見る夢までだいぶ偏ってしまったのだろう。嫌ではないが、もう少し年相応、乙女チックな夢を見ても良いのに、と梨蘭は自嘲気味に嗤う。

 ふと、思い出したように時計を見やる。ああ、そういえばもうこんな時間か、と立ち上がり、制服の裾を正す。
 このスカートはもう少し長くならないものか。姉のものとは違ってピンク色をしたスカートに少しため息をついた。
 と、そんなことを思っている場合ではない。


「おはよう凌牙」


 リビングの扉を開けながら兄の名前を呼ぶ。兄に対する態度としては似つかわしくないようにも思えるが、昔からこの調子なので今更治る気もしない。
 椅子に座した凌牙は、既に学校へ行く準備を終えているようだった。こういうところだけは律儀な不良だ。

 神代 凌牙。あだ名はシャーク。梨蘭の兄にしてハートランド学園の二年生。加えて、札付きの不良。
 札付き、と呼ばれるようになる前はいたって真面目な少年で、かつてはデュエルの全国大会の決勝まで駒を進めたことがあった。
 ……その大会のせいで不良になってしまったのだが、それはまた少し後に語るべき話である。


「……はよ」
「もう出れるのか? 相変わらず、準備だけは早いな我が兄は」
「嫌みか、梨蘭……」
「まさか。純粋に褒めているというのに」


 ふふ、と悪戯に笑った梨蘭を見て凌牙は一つ深いため息を落とした。
 ツンケンしているが、凌牙はシスコンの気がある。それは梨蘭だけではなく、凌牙の双子の妹――梨蘭から見れば姉にあたる、神代璃緒に対しても、だ。諸事情で、今この場にはいないが。
 札付きの不良、なんて呼ばれている彼に弱点があるとすれば、妹二人の存在だろう。


「ったく。ほら、行くぞ」
「歩いてかい?」
「当然だ、あんなので行ったらうるせえ奴がわくだけだ」


 凌牙がいうあんなの≠ニは、バイク……のような何かだ。厳密にはバイクではないのだが、残念なことにこの世界にあの機械の名称を表す言葉がない。
 兎も角、14歳の彼が乗っても文句を言われない機械があるわけだが、学校に乗っていくのは少し悪目立ちするため、なるべく使用は控えているようだ。


「分かった、……っと、少し待ってくれ、忘れ物をした」
「忘れ物?」
「ああ」


 ぱたぱたと自室へ戻っていく。すぐ凌牙の元へ帰ってきた梨蘭の手にはDゲイザーと赤い色をしたネックレスが握られていた。
 梨蘭にとって、その二つはどちらも大切なものである。

 Dゲイザーは、兄と姉、二人からの初めての贈り物だった。デュエルを始めようとした日、サプライズとしてプレゼントされたもの。
 兄と姉が二人でお金を出しあったらしく、その形は梨蘭が使うデッキをモチーフにされているようにも見えた。

 ネックレスの方は、物心ついたときから持っていたような気がする。どのようにして手に入れたかは、正直覚えていない。
 が、それは梨蘭にとってはどうでも良いことだった。このネックレスを身につけていると、どこか落ち着くのだ。理論は知らないが、心の底から安らぐ。


「……お前な。んな大事なもん忘れんな」
「仕方ないだろう、朝は嫌いだ」


 関係ねえよ、なんて凌牙から聞こえてきた気がするがきっと気のせいだろう。
 つん、とその言葉を無視して玄関へ向かう。ローファーを履いて、扉を開けた。
 朝故に見えない星に願いを託して、また今日も、一日が始まる。



(……凌牙、体操服は?)(あ? んなもんサボるに決まってんだろ)(このバカ兄……)

僕らが生きた世界。