ぼくたちは、かつて一つだった。
それはずっと昔の、今では思い出せない記憶。


大学に入って一年目の夏休み。小さいけれど大好きなオレンジ色の車を、自分で運転して実家に帰った。ただ家に帰るだけなのに、胸がひどく高鳴る。

中学生の頃に通った道や、高校生の頃に立ち寄った店がところどころに立ち並ぶ。記憶を探りながら、見慣れた懐かしい道をゆっくりと走る。変わっていないその道の奥に、変わっていない自分の家が見えた。

親の車の横に自分の車をとめる。降りてからじっと、自分の家を見つめた。すみずみを見渡しても、外見は変わっていない。俺が出て行ったときのまま。それが少し切なく、けれども嬉しかった。

「あら、慈郎!?」
「……あ」
「やだ、いつ帰ってきたの!?」

感傷に浸っていると、家の中から母親が出てきて声をかけた。実は今日帰ることは誰にも言っていなかった。帰ってくるならそう言いなさいよ、と文句を言いながらも母親は嬉しそうだ。

家の中から庭をのぞくと、めぐみがいた。声をかけるとめぐみははっとして、水の出ているホースを持ったままこちらを向いた。自分にそっくりなあの顔があると思っていたけれど、振り向いた彼女は俺とはまったく違っていた。

「ジロー! やっだ! 帰ってくるんなら連絡くらいしなよ!」
「俺の家だもん。いつ帰ったって同じだよ」
「違う! うっわ、ちょう久しぶり!」

外見は変わっていても、中身はあまり変わっていないような気がする。少し離れただけで俺は、めぐみのことを忘れてしまっていた。俺の知っているめぐみ。その姿を思い出そうとして、ふっといろいろな感情が思い出された。

俺は不完全だった。だった、と言っても今でも俺は不完全なままだ。完全な人間なんてこの世にいない。

それ故、完全になろうと君を求めた。かつて一つだった自分たち。かつて一つだったからこそ、一つの完全体になれると思っていた。けれどそう思っていたのは俺だけで、君はそれを拒んだ。

……どうやら君ではなかったらしい。

そう気づいたときはどうしようもなく苦しかった。この気持ちをどう言ったらいいのか、どう整理したらいいのか、どう向き合ったらいいのか、さっぱりだった。

少し離れてみて分かったこと。それは「それでいい」ということ。もし俺が求めるものが君で、君もそうだったとしたら。それこそ大変なことになる。

俺たちはお互いにお互いがいちばん近い存在だけど、離れるのがいちばんいい。

「どうしたの?」

ぼんやりとしていた俺は、その声ではっと我に返り、現実に引き戻される。

「……なんでもないよ」

立海大行ったんだっけ? と俺は訊ねる。ホースを足で乱暴にまとめていためぐみは、こちらを向いてちょっとムッとした。

「嫌だなぁ、ちゃんと覚えててよ」

仁王立ちしながらめぐみがそう言った。ごめんごめん、と苦笑いしながら俺はふと思った。

何故忘れてしまったのだろう。前までは、こんなことはまったくと言っていいほどなかったのに。けれどそれが何故なのかすぐに分かった。俺たちが違う生活を始めたからだ。

今まで多少なりとは違えど、ほとんど一緒の生活だった。同じ時間を同じ顔の俺たちは過ごしていた。俺の時間の中にめぐみは必ず存在していた。

それが大学生になってから変わった。俺は一人暮らしを始め、俺の時間は俺のものになった。

だからこそ許せたのかもしれない。時間とはなんてすばらしい力を持っているんだろう。

「立海ってほとんど附属の高校から来てる子たちなんだけどね。私、丸井くんと同じ学科なんだ」
「丸井くん? 俺の知ってる人?」

知らない名前を出されて首をかしげる。するとめぐみは、とんでもないとでも言うように大きな声を上げる。

「ちょ、何忘れてんの。あんなに追っかけてたくせに」
「……あっ!」

そう言われてやっと思い出す。四六時中テニスのことを考えていた、あのころの俺のヒーローだ。それが、テニスから遠ざかった今では、忘れてしまっているなんて。俺は丸井くんに申し訳なく思った。

「私まだ覚えてるからね。買い物行きたいって言ったのに、テニスコートなんかに連れてかれてさ。で、なんか知らない男の子のこと散々語ってるし。ホモかと思っちゃったじゃん」

めぐみは、もう俺が忘れてしまったことを、べらべらと話し出した。しかもその話のほとんどが俺への不満だった。(だからめぐみは覚えていたに違いない)そんなこともあったっけ、と苦笑いする。

今まで何気なくすごしていた時間。それが、家に帰ると流れが遅くなったように感じるから不思議だ。ゆっくりと、ときどき巻き戻されながらも流れていく時間。ここで俺は生きていたんだ。

「で、幸村くんもかっこいいんだ。目の保養! あ〜、でも中学校では幸村くんの他にもかっこいい子がいたって言うから勿体無い! そうそう。幸村くんって言えばね……」

散弾銃のように話をしていためぐみは、そこで話を止めこちらを見る。

「幸村くん、中学生の頃に夢を見たんだって。何か、学校にいる夢なんだけど、そこに私とジローもいたんだって。その頃は知らないはずでしょ? なのに出てきたんだって! すごくない? これって運命!?」

大げさな身振り手振りで、めぐみは話した。「俺は中学校の頃から知ってるよ」と言いかけて止める。夢は壊しちゃいけない。

「しかもね、その夢私も丸井くんも見てるんだ」
「……」
「ここまでくると夢か現実か分からなくなるよね。もしかして現実だったのかな? ただ私が忘れてるだけで」

めぐみはそう言うと視線を下に落とす。

どこからかやってきた風が、庭の樹木の葉を揺らした。さっきめぐみが撒いた水のしずくが、チラチラと顔や腕に当たる。

「……夢だよ」

俺はそう言って笑った。そっかぁ、とめぐみも笑ってつぶやいた。

「もしかしてジローも同じ夢見た?」

日が暮れはじめ、家に入ろうとするとめぐみが訊ねる。サンダルを脱ぎかけた俺はその手を止める。夕食のにおいが鼻をかすめた。

「……忘れちゃったよ昔のことなんて」

俺は笑いながらそう言った。

「何それ、ホントは知ってるんでしょ」

めぐみはそう言って口をとがらせる。そういうところも前とちっとも変わっていない。外見は変わっていてもめぐみはめぐみだった。

俺はそれに安心して、あの日伝えようとした言葉をまた胸にしまいこんだ。

あのころの切なくも美しい日々。思い出すと今でも胸が痛むけど、それでも俺は覚えている。


ぼくたちはかつて一つだった。
それはずっと昔の、今では思い出せない記憶。


2005.06.06


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