水に埋葬

砂浜だった。彼女は足首までを海水に浸し、水に湿る重たい砂を踏みしめていた。
彼女はなにか、探し物をしている。

「よだか」

呼びかければ振り返る灰色の瞳は、照りつける太陽と打って変わって冷ややかだった。刺すように鋭く、それでいてつつけばすぐに崩れるほど脆い。

「何を探しているんだい?」

彼女はやっと足を止めて、私の顔を見た。それからうっすらと目を細めて微笑む。それは、この世の誰よりも美しく、完璧な微笑みなのだ。

「さあ、なんだったかな。みつければ思い出すだろう」

何かをなくしたことを、彼女はわかっている。私もわかっている。
しかしそれがなんなのか、言葉にどう形容するのが正解なのか、私たちには判らない。いつもギリギリのところで手が届かないまま、水面から数ミリだけ顔を覗かせて、辛うじて息をして生きている。

「海は、どうしてこうも眩しいんだろうな」

よだかが言った。
確かに眩しい海だった。太陽の光を反射させ、水平線まで続く青を白く照らす。

「織田はやはりいい趣味をしている」

ぱしゃん。弾けた音は、よだかが水面に足を踏み入れた音だ。先程までの浅い水の中ではない。彼女は水平線に向かって、深いところへ足を踏み入れていた。
気づけば体が動いていた。私の手は、彼女の手首を握っていた。

「私が、お前の自殺を止めたことがあったか?」
「あったろう、何度も」
「そうだったかもしれないな」

ぐ、と彼女が腕に力を入れて振りほどこうとする。私は勢いに負けて水の中に引き倒された。
幸いすぐに起きあがることができた。思ったより浅瀬だったらしい。顔を上げて少し経って、彼女も水から顔を上げた。よだかも転んでいたのだと初めて気がついた。
彼女の青みがかった短い髪から、水滴がひとつ、ふたつ、こぼれ落ちる。銀色の瞳は鋭さを失い、ただ呆然と、私を見下ろしていた。

「見つからないよ」

よだかは言った。
その瞳から零れるのは涙なのか、頬を濡らすのは海水なのか、私には判らなかった。
判らなかったけれど、その顔に浮かべられた微笑みの意味は判る気がした。

「風弥」

彼女は私から目を逸らす。これから私が放つ言葉から逃げるように。

「私は」

遮って、よだかが言った。
一度息を吐いて、それからまた吸う。それでも言葉が出なかったのか、グロスが色気を際立たせる唇を、彼女はきゅっと噛み締めた。
判っている。言おうとしたことは、私も彼女も同じなのだ。

「織田作は、死んだよ」

波が打ち寄せる。波が逃げていく。
白い飛沫を幾度見送ったか判らない。潮の香りと乾いた風を、幾度懐かしんだか判らない。
それほどの時間が経って、やっと彼女は私を見た。

「私は、彼を慕っていた」

淡々と、少しの情の欠片もなく。
何も表に出さない瞳で、彼女は過去を見ていた。

「嗚呼、知っているとも」

彼女は薄く微笑むと、おもむろに立ち上がった。振り返った太陽に目を細める。

「彼は私に言ったんだ。『お前は良い本を知っている』と」

じわ、じわり。心臓が徐々に、囲まれるように。嫌なリズムを刻み出す。それは私の知らない話だった。私の知らない織田作だった。けれど確実に、私の友であった織田作だった。

「良い本を知っている? そんなはずはない。スラムで育った孤児が、乞食が。美しいものなどカビのマシなパンしかなかったような薄汚い女が、良い本なんか知っているはずがない。良いという感覚を正確に辿れるわけがない」

一度大きく息を吸う。
彼女の身体は小刻みに震えていた。それは寒さのせいか、或いは。

「それでも、それでも私は、彼の言葉を信じたいと思った。彼に言われたことなら、ああそうかもしれないななんて、思いたくなった。でも決まってる。良い本なんて、世界で、彼が書いた本だけなんだ。私は、」

気づけば、私はよだかを抱きしめていた。互いに潮臭い、濡れた服で。
それでもよだかは、続けた。

「私は、彼の書いた本を読むまで、良い本になんか出会えないんだ」

それは、彼女が織田作を好いているからではない。その感情が織田作を贔屓するのではない。
ただ、我々は、そうとしか思えないのだ。
この地獄のような世界で、どうしようもない世界で、ただひとつの、立っていられるきっかけだった彼が。
彼の本こそが、世界でたった一つの本であると。
信じて、疑えないのだ。
腕の中に閉じ込めた小柄な女は、遂に私の背に腕を回さなかった。
これは愛や恋などといった抱擁ではない。女の口を塞ぐ為の、口付けより手軽な手段というだけだ。よだかは抱擁では黙らなかったが、接吻という手段をとる気には、さすがの私もならなかった。

「帰るよ、よだか」
「帰る場所なんてないさ」
「探偵社員が泣くよ?」
「ふふ、優しいな」

痛いよ、と、微かに囁かれた一言。私は確かに聞き取って、その証明に彼女の手を握った。

「眩しいな」

海を見て、よだかが言う。

「嗚呼、本当に。」

死体を沈めるには、些か綺麗すぎるほどに。
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