それは美しき、

私が恋したプリンセスは、既に誰かのプリンスだった。

「こんにちは、ケイト先輩」

食堂、彼はひとりで座っていた。

「おひとりですか?」
「トレイ君とエーデュースちゃんたちもいっしょ!場所取りして待ってるとこだよ」

朗らかに微笑んで彼は言う。私は彼の正面に座って、人差し指を唇にあててみせた。

「少しだけ時間をください。直接伺いたいことがありまして」
「ん、いいよ?」

私は、ケイト先輩が好きだ。
離れれば貴方の声を思い出す。離れた瞬間から、また会いたいと感じる。話せなければ気分は落ちるし、話せた日は一日うわの空になる。次に話せる機会を心待ちにし、時にはすれ違っても声をかけることができない自分にやきもきする。
メールひとつも送れない自分に嫌気がさして、明日こそと思いながら今日が終わる。
恋だと呼べる自信はない。いっときの夢かもしれない。思い違いかもしれない。
けれど、誰のものにもなってほしくないと思うくらいには、私は彼を想っている。

「失礼を承知で伺います。監督生さんとお付き合いをされていると聞きましたが事実でしょうか」

ケイト先輩の、どの自然よりも美しいエメラルドが見開かれる。それから少し目を逸らして、また地面に落ちて、ようやっと私をみて眉尻を下げて微笑んだ。「うん」、という明確な返事とともに。

「……そうでしたか」

机の下で、握りしめた拳に力がこもる。いくら爪が手のひらにくい込んでも、握る力を緩めることはできなかった。きっとそうしてしまったら、私は、私をどうにもできなくなってしまう。気を抜けば、貴方を想って自分勝手に積み上げてきた想いが、目に見えるものになって溢れてしまいそうだった。

「……ミアンちゃんさ」

名前を呼ばれて、慌てて顔を上げる。彼は歪んだ、それでも整った顔で私を見ていた。

「監督生ちゃんのことすきなの?」
「えっ?」

間抜けな声が漏れる。
ああそうか、そうなるのか、むしろ、そっちのほうが自然なのか。ああいや、自然ってなんだ。

「いいえ、そうではありません」

彼はじっと私の目を見つめて、やがて微笑んで「そっか」とだけ返した。
きっと彼は、信じきっていないだろう。私が監督生さんのことがすきだから、ケイト先輩と彼女の間柄を良く思っていないと。そう解釈したのだろう。
私が誰かしらを深く想っていることは、どうやら顔に出ていたようだ。

「ケイト先輩」
「うん?」

深呼吸はいらない。
これは告白ではない。
むしろ、弁明と言っていいほどの。
あなたに、そんな顔はしてほしくないのです。

「私は、あなたがすきです」

世間話のようなトーンで放った言葉は、食堂のざわめきにかき消されることはなく、その中で特別目立つこともなく。ただの日常会話として流れ、ただここに漂う空気だけが滞って渋滞していた。
先程よりも大きく、彼の瞳が見開かれる。瞳孔が揺れる。私のほうは落ち着いていて、なんとか困ったように笑うことができた。

「ふってください、先輩。あなたの幸せを、私は願いたいのです」

彼は驚いた様子のまま、何も言わなかった。
お願いします、と繰り返すと、彼は視線を落とした。しばらく目を閉じて、それから顔はやや伏せたまま、目を私に向けた。

「……ごめん、ミアンちゃん」
「はい」

固く握りしめていた拳をほどく。これで、おわり。

「オレ、ほんとうに、監督生ちゃんが好きなんだ」

ひゅ、息が詰まる。拳を握り直したが遅かった。
知っていた、知っていました。
先輩が恋をしているということ。その相手が私ではないこと。よく知っているつもりで、だから私も諦めるつもりで。
自分からふってくれなんて頼んでおいて、その口から別の誰かへの愛を聞くことが、こんなにも胸を抉るなんて、私は、知っているはずがなかったんだ。
はあ、息が漏れる。拳を握る。
ぱた、聞きなれた足音が聞こえる。たぶんハーツラビュルのひとたちだ。たぶん、トレイ先輩やエース君たちだ。

「ありがとうございました。突然すみませんでした」

私はごく自然に立ち上がった。脈打つ心臓の全てを無視した。荒れ狂う胸の内の、その全てを押さえつけた。
代わりに、私はほどいた拳から一輪の花を出す。残念ながら造花だ。

「あなたの幸福を、心より祈っています」

差し出して、彼は一瞬戸惑ったけれど、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。軽く一礼をして、トレイ先輩たちとは目が合わないように立ち去る。いつもの歩調で食堂の扉をくぐる。扉が閉まりきった瞬間、私は走り出していた。
廊下を抜ける。レンガを踏みしめる。土を踏む。枯葉を蹴る。気づけば中庭に出ていて、もうこれ以上走れまいと、全身の筋肉と血液が悲鳴をあげていた。
仕方なく、傍のベンチに座る。耐えきれず膝を抱えた。どうかだれも見ていませんようにと、ただ私は祈るしかなかった。

「おや、これは」

しかしその祈りも一瞬にして砕け散る。
乾いた瞳で見上げると、予想通りの人物だった。

「奇遇だね、ムシュー・行動力。こんなところでどうしたんだい?」

ルーク先輩はいつもの大袈裟な手振りで、軽やかに言葉を紡ぐ。その底抜けに見える明るさが、今は恐ろしく痛かった。

「すみません、今はひとりにしてください」
「おっと、これはこれは……すまないがしかし、ムシュー・行動力。私はここを去ることはできない」
「なぜです?」
「悲しみに暮れる儚くも美しい心の持ち主に、ハンカチを差し出すという大切な役割があるからね」

相も変わらず詩的なひとだ。
生憎泣く予定は、と思いかけて、喉の奥に込み上げるものを感じた。
私は恐らく普通の人より、精神的な感性が鈍い。だから気づくのが遅れたのか、そうだ、人間ってやつは、慰められれば弱くなる生き物だった。

「ほら、ムシュー・行動力」
「………ありがとうございます」

鼻声なのが無様極まりない。なるべく擦らないよう、そしてメイクで彼のハンカチを汚さないように、慎重に涙を拭く。少し拭いて返すつもりが、なかなかどうして、溢れる水滴は止まることを知らない。

「座っても構わないかな?」

立ったままだった彼が、私の隣を指して言う。頷いて答えると、彼は音もなく腰掛けた。そういえばこの人は狩人だったと今更思い出した。

「すみません」
「何がだい?」
「……醜態を晒しています」
「醜態などではないさ。その涙は、君が一人の人間を心から愛したという証。一切の曇りもない、純粋な恋の道筋を、笑える者などいないとも」

彼の言っていることはわかる。
私も、私以外の人間であればそのように思っただろう。けれど、対象が自分になると話が変わる。自分の感情は、他人の持つそれより明確に推し量れる。他人の感情を正確に読み取ることは不可能だから、他人の誠実な心に対しては、常に肯定的であるべきだと心得ている。
けれど、自分は違う。己の感情の重みは、己のみがグラムまで寸分違わず知っているつもりだ。だから、己の場合は、己に見合った重みの扱いでなければ嘘なのだ。
つまり。私の心は、美しい部分などひとつもない。

「私の恋は、純粋とは言い難い。曇りだらけで美しいところなどどこにもない、薄汚れたものです。泥の中が似合う穢れの集大成だ」
「それは違うよ、ミアンくん」

思わず顔を上げる。こぼれた雫が制服にシミを作った。

「どんなに迷っても、歪な輪郭を描いても、それは絶対的な美しさを秘めた心だ。キミがそれを否定してはいけない。一度でも、他の誰かを何よりも大切だと思えたのなら。キミのその心は、誇れるものであるべきだ」

まばたきをする。
また、雫が落ちる。
ルーク先輩の黒い手袋をした右手が伸びてくる。私の頬の輪郭に軽く触れて、「ああ、メイクが伸びてしまって。せっかくの美しい肌が台無しだ」なんて呟いていた。
今、美しいものに触れたのは、きっと私の方だ。
彼が肯定してくれたものは、自分で否定しかけていた、汚いと思い込んでいた全ては。今、このひとの言葉で掬いだされた。それも、彼の美しい心のおかげだったのだ。

「……お優しいですね、あなたは」
「さあ、優しさかどうか。しかしそう思えるのもまた、キミの心が白鳥の湖が如く透明だからだろう」

彼のハンカチを目元に押し付ける。メイクが滲んで薄い青に染まって、それはひどく今の空の色に似ていた。

「ごめんなさい、汚してしまいました。洗ってお返しします」
「汚れなんて私は構わないが……キミがそうではないのだね。ではお言葉に甘えて、お願いするとしよう」
「ありがとうございます」

気づけば私は微笑んでいて、涙もいつの間にかおさまっていた。手の中のハンカチをまたもう一度みつめる。ありがとうございます、と小さな声で繰り返して、そのハンカチを丁寧にポケットにしまった。

「しかし、ルーク先輩がこんなに人の恋心にお詳しいとは。もしかして、あなたにも意中のお相手が?」
「──────さあ、どうだろうね。私はただ待つだけさ。狩人というのは、待つという行為にさえも、快楽を感じるものだ」

そうですか、と返したものの、よくわからなかった。しかし彼の言うことがわからないのはいつものことだ。
私は立ち上がって空を見上げた。今ならほんとうに、なんのわだかまりもなく、心の底から、ケイト先輩と監督生さんの幸せを願える気がした。

「ありがとうございました、ルーク先輩。また後日」
「ああ、ムシュー・行動力。今晩のキミが良い夢をみられることを願っているよ」

ふふ、と私は笑って、午後の授業へ向かう。
足取りは驚くほど軽く、きっと涙の痕だって、それほど目立たないことだろう。