ある少女の日常
雲一つない、どこまでも蒼が広がる空の下、ぞろぞろとグラウンドを周回する人の群れに心の底から合掌した。久しぶりの快晴ではあるが、まだ梅雨明けしていない為空気がほんのりと湿っている。身体を動かすのは好きだが、身体にじめっとした汗が纏わりつくのは嫌いだ。こんな日はクーラーの利いた教室でダラダラと座学を受けるに限る。頬杖をつきながら自分の教室の教卓に視線を移すと、数学の教師が事務的にこの前の期末テストの答案を返却しているところだった。幸いにも今日はウチのクラスは体育は無いし、各教科の授業もテストの返却とその解説で潰れる。暇といえばそれまでだが、睡眠学習で一日楽に潰せるのだから文句は言うまい。
「芹澤」
自分の名前が呼ばれ、サッとカーディガンの袖口から出ていたイヤホンを引っ込める。うーん、ちょっと音漏れしている?いや、大丈夫か。返却された答案に一喜一憂するクラスメイトらの方がよっぽど煩い。
「惜しかったな」
「……どうも」
手渡されたテストの右上には赤字で大きく98≠ニ書かれていた。サッと目を通すとどうやら最後の問題で計算をミスしたらしい。
「またこのクラスのトップは芹澤さんかな?」
「そうじゃね?今チラっと見えたけど、98点だってさ」
「マジ?オレなんて25点……」
いや、25点はバカすぎるだろ。基礎問題だけ解いてれば60点は行くわ……ま、口には出さないけど。教室の一番後ろの一番窓際。この教室で1番の特等席が私の席だ。いや、この教室だけではない。入学当初から私は各教室でこの席以外に座った事が無い。別に駄々をこねたわけではないが、悪名高い友人らのせいで私は入学当初から悪い意味で有名人だった。だからか入学後初めての席替えで無条件にこの席が献上されたのだろう。そういえば、去年中学に進学した彼の妹も同じような事を言ってたっけ。「入学初日なのに、上級生もウチの事避けて歩くの!」だって。いいじゃん、障害物が無く廊下を歩けるんだから。
ブブッ…
席に戻り再び袖口からイヤホンを取り出していると、机の上に置きっぱなしだった携帯が小さく震えた。サブ画面が光った瞬間見えた時刻は10時過ぎ……あ、起きたな。
『今どこ?』
本文無し。件名に短く書かれた文字に溜息が出る。それと同時にふと目に入った自分の爪の現状に眉間に皺が寄った。爪の根元が伸びてきてしまい、施術してもらっていたネイルが浮いてきてしまっていた。次のサロンの予約はいつだっただろうか……いや、むしろ今日の放課後寄ってくるべきなのでは……?
『学校に決まってんだろ』
萎えた気分のまま、件名Re:”今どこ?≠ナ返信してやると、間髪入れずに次のメールが入る。
『朝起こしてって言ってんじゃん』
『起こした。殴っても起きないから放置した』
『ケンチンからすっげー着信来てたんだけど』
『あ、私にもメール来てた。ちゃんとマイキー起こしてから学校行け。だって』
『やーい!怒られてやんの!』
どんだけ揺すっても、どんだけ頭叩いても、どんだけ腹を蹴っても起きないバカをどう起こせと?普段から寝起きの悪い男ではあるが、今日はまた一段と酷かった。エマからも「珠綺が遅刻しちゃうようなら置いて行っていい」と言われているんだし、私は悪くない。第一、いつ私がコイツを起こさなければいけないと決まったんだ。中1の時はドラケンの仕事だっただろうが。そんな相談された覚えが無いぞ。
『置いてった。今起きたみたい。メール来た』
とりあえずドラケンに報告のメールを打っていると、それを邪魔するかのように受信通知が入る。件名がRe:Re:Re…≠ネので送信者はすぐに特定出来た。こっちが返事するまで待てよ。
『今からケンチンと桜中に殴り込みに行くから珠綺も来て』
………は?
『もう着く』
立て続けに携帯が震え、思わず私の耳からコロン、とイヤホンが外れた。
『何勝手言ってんの?私授業中』
イライラと両手でメールを打ちこんでいると、今度は外から聞き慣れた排気音が聞こえてきた。バン、ブーと愛称の由来となったその独特な音は、明らかにどんどんと近付いてくる。慌てて校庭に顔を向けると、木陰でサボっていたぺーやんと目が合った。
「珠綺ーーーーッ!マイキー来てんぞーーーーーッ!」
言われなくても分かるわバカ。大声出すな、恥ずかしい。カーディガンからiPodとイヤホンを引っこ抜き、雑にカバンに荷物を詰め込む。まだ1時間目なのに早退させられるだなんて、何の為に学校に来たんだかワケが分からん。つーか、これじゃ今日絶対ネイル行けないじゃん。
「おい芹澤、まだ授業中……」
「スンマセン、ちょっと子守りしなきゃいけなくなったんで早退します」
席を立つとすぐさま数学教師が慌てたように口を開くが、教科担任の中でも1,2位を争う程にひょろっちいこの教師が生徒に物言い出来るはずも無い。ちょっとだるそうに視線を向けると、もごもごと口ごもり顔を反らされてしまった。……あ、やばい。サボったって三ツ谷にバレたらまたぐちぐちと説教される。瞬間的にそんな事が頭を過ったがもう遅い。仕方ないので世話焼きな幼馴染には後で言い訳のメールを入れておくとしよう。
教師に軽く頭を下げて一歩教室から出ると、むわっと湿気を帯びた生ぬるい空気に包まれる。クーラーの利いた室内では適温を提供してくれていたカーディガンがあっという間に敵となってしまった。歩きながらカーディガンを腰に巻き、携帯にカチカチと文字を打ち込む。
『今出た』
『遅ぇ』
『途中コンビに寄ってもらえる?』
『何買うの?』
『アイス』
『あ、オレも!』
その時、件名無しの新規メールが入ってきた。何だ、ドラケンか?何気なしに受信メールを開き、私はウッと顔を顰めた。
『珠綺、サボんだろ?マイキーに伝えといて。今日部活で少し集会遅れるって』
そりゃそうだ。あんな排気音轟かせておいてバレない筈が無かったのだ。(おまけにぺーやんが叫んだもんだから全校生徒に筒抜けだ)
『分かった、伝えとく』
携帯を折り畳み、代わりに朝自販機で買ったパック飲料を取り出した。茶色いパッケージのコーヒー味の豆乳飲料。プスッとストローを刺して吸い込むと、ベコッとパックが凹む。うーん、ぬるいとイマイチだな……。
廊下でも十分暑かったが、外に出るとまた一段と日差しが堪える。迷惑にも校庭で大声を上げてくれたぺーやんは、どうやら木陰でサボっている内に眠りこけてしまったらしい。あまりにも間抜け面なので、とりあえず写メに納めておく。じっとりと暑い空気の中、未だグラウンドを走り続ける同級生らはどいつもこいつも死にそうな面をしていた。まったくもってご苦労な事だ。そんな彼らに背を向けて、私は「遅い」とぶーたれる男の頭目掛けて空のパックを投げ付けた。
そう、これが私の日常。
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