ある青年の非日常

 2017年の7月4日、オレは確かに駅のホームに落ちたんだ。よく九死に一生を得た人の体験談で「見えている全てがコマ送りに見えた」なんて話を聞いた事があるが、今日それを身をもって体感した。全身に走る鈍い痛み、つんざくようなブレーキ音、ガヤガヤとざわつく周囲、刻一刻と迫る電車……。テレビで訃報を知るまで忘れていたと言うのに、顔もうろ覚えで彼女とどんな付き合い方をしていたかも覚えていないのに、自分が死ぬ間際に脳に浮かんだのは他でもない、橘ヒナタの面影だった。



「あれ……橘って、どんな顔してたっけ?」



 長い長い走馬灯の中、オレは妙な追体験をしている。12年前の今日、それは今までのオレの人生が一変し、毎日が地獄と化したその根源となった日だった。今から死ぬんだろ、オレ。なのに何でこんな走馬灯見させられてんだよ。渋谷三中の3年生に2度目の半殺しにされたオレは、一人残された公園で激しく自分の人生を恨んだ。



「確か、橘の家って……」



 この走馬灯はいつまで続くのだろうか。せっかくなら嫌な思い出だけでなく、楽しかった思い出として橘ヒナタの顔を見ておきたいと思った。真面目な彼女の事だから、この時間はもう家に帰ってしまっているのだろう。それなら彼女の自宅に向かおうと決めたものの、なんせ12年も前の話なのだ。何度か送り迎えをした事はあったが、記憶の片隅で眠っているその道のりを思い起こすのは簡単な事では無い。乏しい頭をフルに回転させ、何にせよ一旦駅に向かおうと結論付けた。



「はー……にしても、大分この辺も変わったんだなー…」



 12年前からこの街が若者の聖地だった事には変わりないが、それでも色々な物が様変わりしたのだと実感する。あ、昔のパルコ……懐かし—…壊される前、ゴジラとコラボしたって話題になってたよな。あ、このころまだマルイシティだったんだっけ?駅の周りもずっと工事してるけど……そーいえば2019年来年に新しい商業施設が出来るってニュースでやってたっけ。中学の頃はよくこの街に遊びに来ていたが、中学を卒業して以降はなるべく近寄らないようにしていた。何故って、東京卍會の奴らに見つかるのが怖かったからだ。夜になって一層賑わいを増す渋谷の街。目に入るものに多少の違いはあれど、人々の話声や宣伝トラックの爆音、パトカーや消防車のサイレンの音等、耳に入ってくる様々な音は今も昔も大差が無いように感じた。



「……っと」

「うわぁっ!!」



 しんみりと感傷に浸りながら歩いていたのが良く無かった。曲がり角で勢いよく対向者とぶつかったオレは、咄嗟の事で踏ん張るべき足を滑らせダサくもその場にひっくり返った。元々ボコされて限界寸前だった身体が悲鳴を上げる。痛ってぇ……と強打した尻を摩りながら顔を上げると、えらく顔の整った女子学生が目の前に立っていた。どうやらオレは彼女にぶつかったらしい。



「あ……えっと、スイマセン…余所見してて…」

「ん−……」



 黒いセーラー服……確か、これって渋谷第二中学の制服だったよな?カーディガンを腰に巻き付けた彼女は、丸く大きな瞳でじぃっとオレを見下ろしている。



「け、ケガとか…無いッスか…?」

「うん、別に平気。それより、お前の方が重傷じゃね?」



 清楚な見た目に似合わず、随分と口の悪い子だ。彼女は癖の無い黒髪をさらりと耳に掛け、オレの顔を覗き込むようにその場にしゃがんだ。いや、しゃがみ方!ヤンキー座り!パンツ見えてんじゃない!?



「あ、あのー……」

「何?喧嘩?」

「え?」

「その怪我。お前見るからに弱そうだもんな。一方的にボコられたって感じ?」

「痛ぇっ!」



 ぐいっと頬を親指でなぞられる。そこは渋谷三中の連中に何度も拳を打ち込まれたところだ。オレが悲鳴を上げると、彼女は「ぷっ」と笑って何やらがさごそとカバンを漁り始めた。



「ま、私には関係ないか」



 そう言って、彼女は「はい」とウェットティッシュと絆創膏を差し出してくれた。



「えーと……」

「私の周りもしょっちゅう喧嘩するバカばっかだから、何となくカバンに入ってんの。ぶつかったのが私で良かったな。相手によっちゃお前、また顔の傷増やされてたぞ」



 んー、例えば、黒髪ロン毛の八重歯に特徴がある奴…とか?そう言って彼女はずいっとウェットティッシュと絆創膏をオレに握らせる。オレが受け取ったのを確認すると、彼女は「よいしょ」と立ち上がり軽くスカートを払った。立ち上がる瞬間チラっと見えたが、どうやらちゃんと見えパンとやらを履いているようだった。残念、とか思ってないぞ。



「あー……ちょっと過ぎちゃったか…」

「え?」



 彼女の言葉にポケットから携帯電話を取り出すと、サブディスプレイには19:09≠フ文字が映し出されている。



「いや、間に合えば行きつけのネイルサロンに押しかけて施術してもらおうと思ってたんだけど、20時から別の予約があるって言ってたから今から行っても凝ったデザインはしてもらえないかなーって」



 ほれ、と彼女は自身の爪を見せてきた。綺麗な黒髪に薄い化粧(それでも可愛いんだから元が良いって事だ)、着崩しの無いセーラー服に紺のハイソックス……どう見ても優等生のような見た目をしているのだが、彼女の爪は優等生から程遠いまでにキラキラと光っていた。



「うっわ…すっげー」

「でしょ?私の趣味」



 彼女はニッと歯を見せて笑う。



「あ、っていうかオレのせい?」

「いいよ、気にしなくて。元々は昨日行こうと思ってたんだけど、ちょっと邪魔が入って……明日にでも出直すわ」

「ホント、ごめん……」

「良いって言ってんじゃん。あんまうじうじ言ってると私がほっぺの青痰増やすぞ?」

「ひぃっ!」



 そう言って彼女は拳を振り上げる素振りを見せた。本当に見た目に反して荒っぽい子だ。その時、ブーブーとバイブの音が聞こえてきた。オレの携帯は今手元にあるが、手に振動も何も感じないのでどうやら彼女の物らしい。再びカバンを漁った彼女は、手に取った携帯電話のサブディスプレイを見てオレに向き直る。



「ゴメン、電話だ」

「出なよ。オレももう行くし……」

「ん。じゃ、気を付けて」



 ひらひらと手を振って、彼女は通話ボタンを押して電話の主と会話をし始めた。オレも軽く手を振り返し、当初の目的だった橘の家に向かうべく駅へと急ぐ。一向に人が減る気配の無い夜の渋谷。ブォンッと響くバイクのふかし音に、オレはぶるりと震える。まさかとは思うが、再び東京卍會の連中に見つかってボコられるなんて真っ平御免だ。いつ終わるのか分からない、ろくでも無い過去の追体験。せめて橘の顔を見るまでは死ぬんじゃねぇぞ、オレ。