ある少年の名前
仲が良いヤツもそうでないヤツも、顔と名前が一致しないヤツらですらオレの事をその名前で呼ぶ。ガキの頃、妹の為にと付けたマイキー≠チて名前はいつの間にかオレの日常に溶け込んでいた。
「はぁ?マイキー≠セぁ?」
何だそりゃ?と顔を顰めた珠綺に向かって、オレは両手を腰に当てて胸を張って見せた。
「そ!これからはオレの事マイキー≠チて呼べよな!」
同じ事を場地に言った時はその理由を追及されてかなり面倒な思いをしたけど(ウザくなってとりあえず殴って黙らせたんだっけ)、珠綺は何かを察したのか、それとも単に興味が無かっただけなのか、特に何を言うワケでも無く「あ、そう」って頷いただけだった。とは言っても、この頃の珠綺はオイ≠ニかお前≠ニかばっかで碌にオレの名前を呼ばなかったから、呼び方を変えさせたところで滅多にその呼び名を口にする事は無かったんだけど。だから、珠綺がオレをマイキー≠チて呼ぶ事に慣れねぇのはそのせいだって思ってた。場地やエマ、学校のヤツらにその名前で呼ばれても何も感じねぇのに、珠綺がマイキー≠チて口にする度に何とも言えねぇ居心地の悪さを感たんだ。だからと言って自分でそう呼べと言った手前、今更前言撤回する事も出来ねぇ。「男は二言しねぇ」って、シンイチローがよく言ってたからな。
「今日は無理。幼馴染の家で宿題する約束してるから」
でも、ある日そんなオレのプライドを揺るがすような出来事が起きた。この頃のオレのブームはというと、近所のイキった上級生を捕まえて実力試しとばかりに喧嘩をふっかける事だった。今となっては無敵のマイキー≠ネんて呼ばれてるオレだけど、この頃は1つ歳が離れてるだけでタッパも体格も全然違うもんだから相手が複数人となると苦戦する事も屡々。そんな時は場地や無理矢理引っ張ってきた珠綺に取り巻きの相手を任せたりしてたんだけど、場地は勿論珠綺も元々負けず嫌いな気があったから、気付くとオレよりも喧嘩を楽しんでるなんて事も少なくなかった。
「何でだよ!今日は2コ上の喜多村一派をヤろうと思ってたのに!」
「ンな事知るか。行くなら2人で行ってこいよ。私が居ても居なくても、どうせ結果は同じだろ」
当ったり前だ、と場地。確かに珠綺の言う通り、喜多村自体は図体がデカいだけのデブだからオレ1人でもヤろうと思えばヤれただろうけど、そうじゃなくて!オレとしては、その場に珠綺が居るって事も大事だったんだ。珠綺の拳が相手に決まってるのを見るのは気持ちが良かったし、オレが相手方の頭を潰すと満足そうに口角を上げる珠綺の顔を見るのが好きだったから。
「なー、珠綺も行こうぜ!何だったら今日は喜多村ヤんのは珠綺に譲ってやってもいーから!」
「……ちょっと魅力ではあるけど、今日はマジで無理。調理実習の感想文、提出が明日なんだよ」
珠綺の料理の腕はこの時には既に壊滅的だった。小2の調理実習なんて作るのは蒸しパンだとかホットケーキだとかその程度なのに、何でか珠綺は悉く材料を無駄にする天才だったらしい。
「学校で白玉粉全部ダメにしちまったから、家でちゃんとしたの作って来いって……」
「白玉って……粉と水混ぜるだけじゃね?」
場地がそう言うと、珠綺はバツが悪そうにそっぽを向く。きっと珠綺の事だから、適当に水を入れて白玉粉をただの白い水にしちまったんだろうな。珠綺と同じ班になったヤツらには同情する……まぁ、調理実習で食べる係以外やった事がねぇオレが言うのも何なんだけど。
「白玉団子なんてすぐ出来んだろ?喜多村潰して、それから幼馴染の家行けばいいじゃんか!」
「いや、そうは言っても向こうだって予定ってもんが……」
「じゃあちょっと遅れるって電話しろよ!オレんちの電話使っていーからッ!」
な?な?って詰め寄ると、珠綺の口から「んー……」って唸り声が漏れる。こうなりゃあと一押しだ。自覚があるのか無いのか知らねぇけど、珠綺は昔っから押しに弱かった。無理矢理に珠綺の背中を押して、玄関の近くにある電話の前に立たせる。さぁ電話しろ、今すぐ電話しろ。そうやってオレと場地が促すと、珠綺はついに諦めた様子でゆっくりと受話器を持ち上げた。
「……あ、もしもし?隆?」
……タカシ?
「タカシって、珠綺の幼馴染の名前か?」
場地が「知ってるか?」って首を傾げながら聞いてきたけど、オレが知るはずがねぇだろ。珠綺とは学校も学区も違ぇから、放課後会えるのはじいちゃんの道場でだけ。この時のオレは珠綺の幼馴染が男なのか女なのかすら知らなかった。
「んー、そう。ちょっと遅れる。……え?いや、大した事じゃないけど……分かってるってば。ったく、隆は心配性だなぁー……」
口調がどこか柔らかいのは相手が気心の知れた三ツ谷だったからなのか……少なくとも、この時のオレには知る由も無ぇ。ただ、珠綺がオレの知らねぇ男の名前を口にしてるのがたまらなく嫌だったのは覚えてる。要件を伝え終えて、受話器を元に戻しながら珠綺が言った。
「……行くならとっとと行こうぜ?あんま遅くなると隆ンちに迷惑かけちまう」
「おう!喜多村達がよく集まってるのって第二公園だったよな、マイキー?」
「………」
黙り込むオレに珠綺と場地が顔を見合わせる。
「どうしたんだよマイキー?」
「喜多村潰してぇって張り切ってたのはマイキー、お前だろ?」
「……ん、そうだな」
ああ、やっぱ慣れねぇ。珠綺にマイキーって呼ばれるのは。マイキー≠チて名前を作った事を後悔した事はねぇ。この名前をバカにしてきたヤツは片っ端から黙らせてきたし、こんな呼び名一つでエマが笑うきっかけを作れたのだと思うと万々歳だ。だけど、みんながオレをマイキー≠ニ呼べば呼ぶ程、みんなの中から万次郎≠ェ消えていくような感覚に襲われた。もしじいちゃんも、シンイチローも居なくなっちまったら、万次郎≠ヘどうなっちまうんだろう……?
「万次郎!!危ねぇ!!」
「……へ?」
ハッと我に返ると、オレと対峙していた喜多村のコメカミに珠綺の飛び蹴りが決まった瞬間が目に飛び込んできた。勢いよくぶっ飛んでいった喜多村はズザザ…地面に身体を擦りつけて動かなくなった。後から聞いた話によると、どうやら脳震盪を起こしてたらしい……。他人の事をどうこう言える立場じゃねぇけど、ホントに珠綺は恐ろしいヤツだと思うよ。
「何ボーッとしてんだよ!つーか、私が喜多村ヤるっていう約束はどうなったんだテメェ!」
「いや、ヤってんじゃん」
結果的に。オレがそう言うと珠綺は「私は過程の話をしてるんだ!」と大声を上げた。それからぶつぶつと文句を言いながら、珠綺は場地の手を免れて逃げ出そうとするヤツらの首根っこを捕まえ顔面に拳をお見舞いしていく。けど、そんな事はどうだっていいんだ。
「公園に着くなり真っ先に喜多村に突っ走っていきやがって……万次郎、お前兄貴になったんならそのワガママっぷりどうにかしろよな!」
「……珠綺」
「あ?ンだよ、謝ったって許さねーぞ」
「……名前」
「はぁ?」
「今、オレの事何つった……?」
珠綺は髪を引っ掴んで振り上げた右の拳をピタリと止めて「あ…」と小さく言葉を漏らした。
「うー……どうも慣れねぇんだよな……お前、マイキー≠チて顔してねーんだもん」
だって、お前は万次郎だろ?珠綺は気まずそうだったけど、オレの心情はまるで正反対だったと思う。むしろ、どこかスッキリとした気持ちになっていた。オレはエマの兄貴のマイキーだけど、珠綺にとってはただの佐野万次郎≠ナいたいって思ったんだ。この頃のオレはまだまだ毛の生えてねぇガキだったから、何で珠綺に対してそんな気持ちになるのかは理解出来てなかっただろうけど。
「……仕方ねーなぁ。そこまで言うなら、珠綺は特別に万次郎≠チて呼ぶ事を許してやるよ」
ホントはオレがそう呼んで欲しかっただけなのにな。感謝しろと言わんばかりの顔を珠綺に向けると、珠綺はムッと顔を顰めて手にしていた野郎をポイッとその場に放り投げた。
「それはこっちのセリフだ、バカ万次郎」
結局、珠綺がオレの事をマイキー≠チて呼んだのは片手で数えられる程度だったと思う。どんだけオレの事呼んでなかったんだよと突っ込みたくもなったけど、珠綺が言うに「呼びにくかったから出来るだけ呼ばないようにしてた」との事。あのままマイキー′トびを強要してたら珠綺の中でオレの名前がオイ≠ゥお前≠ノなってたんじゃねぇかと思うと少しゾッとした。
「え?ヒナ?」
「ん?」
珠綺に勧められてエマの誕生日に付き合ってカフェで駄弁ってると、突然目の前のテーブルが衝撃で揺れた。何事かと視線を上げれば、タケミっちの彼女のヒナちゃんがすげぇ形相でオレとエマを睨みつけてる。
「二人は最低です!珠綺ちゃんとドラケン君が可哀相……!」
「は?珠綺?ケンチン?」
「ひ、ヒナ?何言って……?」
初対面でビンタされた時から思ってたけど、やっぱヒナちゃんってぶっ飛んでるわ。時間を置いて詳しく話を聞いてみると、どうもオレとエマが二股かけてるように見えたんだと。二股も何も、オレもエマも珠綺やケンチンと付き合ってるワケじゃねーからその表現はどうかとも思うけどな。
「兄妹……だったんスね、マイキー君とエマちゃんって」
「へー、タケミっちもオレが珠綺からエマに乗り換えたって思ったワケ?」
「えっ!?いや、そんな事は……」
タケミっちはホント嘘が吐けねーな。目ぇ泳ぎっぱなしだぞ?
「将来の事なんて分かんねぇけどさ、きっとこの先何年経っても珠綺以上に好きになれる女なんて出来ないと思う」
そう言うと、何でかタケミっちは嬉しそうに頷いた。変なヤツだなぁ。何でタケミっちが喜ぶんだよ?オレの1番は珠綺で、珠綺の1番はオレ。勿論根拠なんて無ぇけど、それだけは自身を持って断言出来る。オレの事を万次郎≠チて呼ぶ女は後にも先にも珠綺だけでいい。
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