クロロに絵本を読んでもらったことがある。
絵本に登場するものはどれも見たことも聞いたこともないものばかりだったから、内容を理解することはひどく難しかった。それでも、本は多くの学びを私に与えてくれた。
絵本の中にあったキラキラと眩い世界には理不尽な暴力と飢えが存在しないこと。それを当たり前のものとして享受している人々がこの世界のどこかに存在していること。──そして、そんな眩い世界が自分には縁遠いものであること。夢と希望が詰まった絵本は、私に現実を突きつけてくれた。
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兄の薄い身体越しに伝わる強い衝撃によって、瞳に張っていた薄い水の膜が地面に落ちた。目尻を離れた水分が頬を伝うのを感じながら、視界を覆い隠す薄汚れた白に顔を埋める。
そんな現実逃避も長くは続かなくて、兄の体が脱力したと思った瞬間、目の前がクリアになった。突然光を映したことによってチカチカと白む視界には、まだ日の高い時分だというのにいくつもの三日月が浮かんでいる。もう体勢を保つことすらできない兄の体を正面から抱きしめながら、それらをじっと見つめる。また生意気な目つきでもしてしまっていただろうか。苛立った様子の男に髪を力任せに掴まれ、ブチブチと鈍い音がした。
「それに手を、出すな。出した……ら、殺す」
私に覆い被さっている兄は息も絶え絶えで満身創痍な状態であるにも関わらず、瞳を爛々と光らせて私たちを襲う脅威へと殺気を向けている。そんな彼を面白い玩具であると認識したのか、再び振るわれ始めた暴力から兄を守ろうと身を捩ったけれど、身を捩れば捩るほど強く抱き竦められる。苦しげな吐息を漏らす兄に「フェイ、どいて」と懇願をしても、それが聞き入れられることはない。
しかし、既に限界を迎えていた兄の体はそう長くは持たず、一際強く与えられた衝撃によって再び地面へと崩れ落ち、腕は力無く地面を擦った。
兄が意識を失ったことによって守るものがなくなった私の上半身を、いくつもの靴が踏み躙る。頭に走った衝撃と共に意識が霞み、感覚が鈍る。脳を揺さぶられ、高い金属音が耳の奥に響く。
私自身が暴力を受けているはずなのに、なぜか暴力を受ける自分を私は外から見ていた。痩せこけた小さな少女が幾人もの青年に嬲られる姿はひどく痛々しい。ああ、どうして世界はこんなにも理不尽で、不公平なのだろう。
暴力を振るわれているにも関わらず、何故か痛みを感じることはなくて、私はまるで兄と二人ゆりかごの中にいる心地でいた。ふわりふわりと、身体が揺れる。
──兄と私は元々一つの生き物だった。手と手、額と額。二人を繋いでいた薄い皮は母胎で剥がれ落ち、私たちは生まれ落ちると同時に分離してしまったのだと、ずっと信じていたかった。
私たちは二つで一つ。二人揃ってようやく完成することができる。一人では不完全なのだ。だからこそ、兄の側にいることは私にとっての絶対だった。兄の側にいることができるのは彼と同じ生き物である私だけで、私の側にいることができるのは私と同じ生き物である兄だけだった。この世界に存在するのは兄と私だけで良いと、心の底から思っていた。
意識を失った兄を膝に抱え、上半身を起こす。目を瞑り、私の膝に頭を預ける彼はまるで赤ん坊のようだった。兄の顔や体は殴打されたことで赤黒く変色し腫れ上がっていて、私を守ったことによってできた傷を慈しむようになぞる。
どうしてこんなにも兄のことが好きなのだろう。所々に滲んでいる血の一滴一滴すらも愛おしくて、髪の先から足の爪先まで食べてしまえそうだった。兄の頬から滴る赤に唇を寄せると、口の中が甘い味で満たされる。好き、好き、好き。こんな危機的な状況であっても、兄が好きで好きで堪らなかった。
「なんだ、コイツ」
頭上から困惑したような耳障りな声が落ちてくる。兄の頭を抱きかかえながらそちらに視線を向けたものの、涙に濡れた瞳では焦点を合わすことができず、ぼんやりとした複数の影しか視界に映すことができなかった。
「気持ち悪ィガキ……!」
額に触れた靴底は酷い悪臭を放っていた。絵本に登場した、キラキラと眩い世界で生きる女の子たちは世界にこのような悪臭が存在する事をきっと知らない。どうして世界はこんなにも私たちに優しくないのだろう。どうして世界は兄と私を二人きりにしてくれないのだろう。どうして、どうして。次から次へと流れ落ちる涙は視界を歪ませ、閉ざさせる。
私の世界には、たった一つのものが存在していれば、それだけでよかった。私が望むものは兄だけで、それ以外は何も望んでいなかった。兄が私だけを望んでくれれば、それだけで心は満たされていたのに。どうしてたった一つの望みすら叶えられないのだろう。
「ね、なんで消えてくれないの。お願い、消えてよ」
瞳から流れ続ける涙と、切れた唇から流れ続ける血液の味が混じって妙な味がする一方で、兄が拾ってきてくれる砂糖菓子を食べた時みたいに口の中がひどく甘い。私たちが生きる世界が孕む理不尽さへの嘆きで思考が埋め尽くされる中、頭上に浮かんでいた三日月が沈んでゆくのが見えた気がした。
身体と頭が沸騰しているように熱い。目の前がチカチカと白く光って、意識が黒く塗りつぶされる。まるで感覚を遠いどこかに置いてきてしまったみたいだ。誰かが私の名前を呼んだ気がしたのに何も聞こえない。息が苦しくて、喉の奥で何かが詰まる。
自分の身を苛む不安を紛らわせようと膝の上にかかる重みを強く抱きしめる。この重みがあれば、私は。
「────」
肩を強く掴まれた感覚で黒塗りになった世界に色が指した。目と鼻の先にあった顔はよく見知ったもので、猫のような大きな瞳は心配げに揺れている。彼女の名前を呼んだつもりだったけれど声にはならなかったようで、場は静寂で満ちていた。肩を支えて起こしてくれるマチに私たちの身に何が起こったのかを聞いてみたけれど、彼女の表情は暗い。その表情を見て、年長の者たちに何かを口止めをされていることを悟る。
ふと、周囲を見渡す。兄と私を中心にして、地面が円状に黒く焼き焦げている。まるで兄と私以外の全てが煤と成り果て朽ちてしまったようだった。風に吹かれて舞い上がった黒い煤が私たちの周りをふわふわと浮かんでいるのを見て、兄と手を繋いで飛んでゆくのも悪くないと思った。
前方からクロロとウボォーが歩いてくる。クロロは何か考え事をしているような表情で周囲を観察し、ウボォーは神妙な顔で兄が負ったはずだった怪我の様子を伺っている。
私の膝の上で静かに眠り続ける兄の頬は、傷一つなく綺麗だった。
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