静まり返った室内でぼんやりと天井を見上げる。黒ずんだコンクリートの壁は冬の寒さで冷え切っていて、室内はとても肌寒い。寒さを和らげようと肩に羽織っている毛布の合わせを引っ張って、体を抱き込むようにして暖をとってみても寒さが和らぐことはない。みんな早く帰ってきてくれないかな。そうしたら、このだだっ広いコンクリートの空間にも多少は熱が入り込むのに。一つ、二つ、三つと天井の黒ずんだ染みを数えども、みんなが帰ってくる気配はない。
──半年ほど前のことだ。歳が比較的近く、行動を共にすることが多かった青年たちと私たち兄妹は流星街を出た。私たちの身分は流星街で生きる戸籍のない貧しい子供からクロロを団長とした盗賊団へと変わり、繰り返し略奪行為を行っては金品を手に入れていた。念能力という強い力を得た彼らは向かうところ敵なしで、順風満帆な盗賊生活を送っている。今日もみんな揃って血気盛んに出かけてしまったために、私は一人で留守番をしていた。
私が一人だけ留守を任されているのには、幼い頃に兄と共に暴行を受けたことが関係している。当時、暴力に抵抗する術を持たなかった私が出来たことといえば兄を腕に抱いて蹲ることくらいで、暴力を受け続けた私はいつのまにか兄を腕に抱きしめたまま気を失っていた。その時の暴行は頭部へと重点的に加えられていたらしく、次に意識を取り戻した時、私の耳からは音が消え去っていた。頭の中には大切なものがたくさん詰まっているから、きっとそこが壊れてしまったのだとクロロが説明してくれた。
その一件以来、私は静かな世界で生き続けている。ただでさえ運動神経が鈍くて鈍間だったのに、そこへ追い討ちをかけるように五感の一つを失うというハンデを負った私がみんなのように強大な力を発現させることなんて出来るわけもなく。うっかり死んでしまうことがないよう、今日も留守番をしている。
────────オ……、帰……ぞ
不意に遠いどこかからノブナガの声を感じて、ぼんやりと天井を見上げていた意識が建物の出入口に向く。どうやらみんなが帰ってきたらしく、複数人の歩く気配が建物の外から伝わってくる。先頭を歩いているのは声の震えから判断するに、ノブナガ、シャルナーク、フランクリンの三人だろう。みんなは両手いっぱいに荷物を抱えているらしく、足音の他に金属同士が擦れる感覚や、何かを引きずる振動が響いてくる。
念能力を碌に使えず、みんなのお荷物になってしまっている私にも得意なことが一つだけあった。それは、円だった。私の円は変幻自在に形を変え、縦横無尽に広がって行くことができる。その円に触れた音は私自身の耳が聞こえないために音として成立はしないけれど、空気の震えとして私の元に届く。言葉というものには一つ一つ特有の振動があって、その振動の機微を理解することさえできれば、円を使っている時に限って言葉を聞くことができる。これは、聴力を失ってしばらく経った頃に気がついた特技だ。
不審な気配にいち早く気がつけるよう最大距離にまで伸ばしていた円を解き、仲間たちを迎えるべく入口に駆け寄る。立て付けの悪い扉を無理やりこじ開ければ、やはり両手いっぱいに荷物を抱えたみんなが扉の前に立っていた。
おかえり、と先頭に立っていた三人に飛びつけば、荷物を床に放り投げたノブナガが頭を撫でてくれる。私の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら豪快に笑う彼に触発され、私もにこりと笑う。刀を得物として使う彼の指にはマメがたくさんあって、常人と比べて皮が厚くなっている。時には皮がめくれてしまうほどに鍛錬を積んだ手のひらは、仲間に対して温かい。
「ね、フェイは」
姿を見せない兄の所在を聞けば、ノブナガはそっと私の手を取り、手のひらに文字を一つ一つ書いてくれる。
流星街にいた頃はその日一日の時間を生きるために使っていたけれど、暮らしに余裕が出来た頃から勉強に費やすようになった。努力の甲斐あって今では簡単な文字であれば読むことができるようになり、円を使っていないときは手のひらに文字を書いてもらって意思疎通をしている。
「す、こ、し、遅れ……る。先に部屋行って、ろ?」
ノブナガが書いてくれたのは、兄からの伝言だった。声に出して書かれた文字を確認すれば、ノブナガは正解だと首を縦に振る。いつもなら一番に帰ってきてくれるのに珍しいこともあるものだ。そんなことを思いながら部屋に向かって歩き出す。もしかしたら、怪我をしてしまって帰る前に手当てをしようとしているのかもしれない。私に心配をかけさせまいとしているのか、それとも兄の威厳を保つためなのか。理由はわからないけれど、兄は酷い怪我を負ったとしてもそれを隠し通そうとする。その行動は兄から頼りなく思われているように感じてしまい、不甲斐ない自分が悲しかった。
兄と使用している部屋の前に立つと、不甲斐なさからくる寂しさを振り払うように扉を開ける腕に力を込める。錆びた扉は立て付けが悪く、体全身を使わないと開けることは難しい。やっとのことで開いた扉の先にはコンクリートの壁が続いていて、肌寒さが和らぐことはない。
肩に羽織ったままの毛布に包まって床に腰を下ろす。手当てをしているならどうせしばらくの間は帰ってこないだろう。そう予想して少し眠ろうと膝に顔を埋めた瞬間、前髪にふんわりとした何かが触れた。驚いて顔を上げると、そこには真ん丸な瞳をしたウサギがこちらを見下ろしていて、その背後には兄が立っていた。数刻ぶりに見た兄におかえりと言葉をかけようとしたけれど、それよりも先にウサギを顔に押し付けられてしまい、何も言えなくなってしまう。
視界いっぱいに広がっていたウサギから兄が手を離したために、床へ落ちそうになったそれをすんでのところで受け止める。こんなふわふわの塊を持つことは初めてだったから取り扱いが解らなかったけれど、とにかく落とさなくてよかったと、ホッと一息吐く。ふわふわの塊を汚さなかったことに安堵していると、合図もなく体を持ち上げられ、兄の膝の上へ座らさせられる。
鼻を鳴らして匂いを嗅いでも、兄の体から鉄の香りはしない。なんで血の香りがしないんだろうと首を傾げる私とウサギを交互に見つめた後、「みやげ」と私の手のひらに書いた兄を見て、他のみんなにこのウサギを持っているところを見られたくなかったから、一人遅れて帰ってきた可能性に思い当たる。それがどうしようもなく嬉しく思えて、頬を兄の胸元にすり寄せると、私の肩を抱く手のひらに力が篭る。
兄からウサギの人形を貰うのはこれが二度目だった。あの日懺悔と共に零した自らの言葉を、兄は覚え続けていてくれたのだろうか。
「フェイ、ありがとう」
礼を告げながら、擦り寄った胸元に体重を預ける。幼い頃からの定位置である兄の腕の中は涙が出そうなほどに暖かくて、肌寒さはすでに私の体から消え失せていた。
「いつまで経ても子供のままね」
手のひらに書かれた言葉を見て口を開きかけた後、再度閉じる。別に、兄と共に居続けられるのであればずっと子供のままで良いと思っていた。年齢を重ねて性差による違いが浮き彫りとなり、いつか死によって兄と分断されてしまうのであれば、大人になんてなりたくなかった。でもそれは、大人になって力を手に入れることを望んでいた兄に伝えることではないと私は思っていた。
涙がうっすらと浮かぶ目元に兄の唇が落ちてくる。まるで眼球を捕食するかのように目尻を啄ばまれ、思わず瞳を瞼で覆う。それでも尚、瞼を啄ばみ続ける兄に身を委ね続けていると輪郭をなぞった唇が頬を甘噛みし、驚きで目を開く。開いた視界の先には意地悪に笑う兄がいて、睨みつけて抗議をしてもそれは兄をさらに楽しませただけのようだった。
拗ねたと言わんばかりに兄から顔を背ければ、まるで謝罪をするかのように抱かれる力が強くなる。つい数分前まで寒さで凍えそうになっていたはずなのに今はもう寒さの影は微塵もなく、私は陽だまりの中にいるかのような心地よさを感じていた。
昔、クロロに読んでもらった絵本の内容を今はもう思い出すことができないけれど、飢えや理不尽な暴力が存在しないキラキラと眩い世界に憧れたことははっきりと覚えている。あの時、眩い世界は自分には縁遠いものだと思ったはずなのに、こうして柔らかな手触りのウサギに顔を埋めながら兄の胸に抱かれていると、自分もまるで眩い世界の住人になれたかのような錯覚がした。
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