あらわれた
おれには縁のない事だと思っていた。
慣れた路の途中にある川沿いには桜の木が連なって育っており、春にはこれでもかと花弁を散らす。
優しい風と桜の花弁の中、道路を挟んだ反対側の歩道。
柔らかそうな焦げ茶の髪が揺れて、俺はあっという間に心を奪われた。
ふと、彼女の歩いた後に何かがあるのが見えた。
ハンカチだ、多分、彼女の。
おれは最低限だけ車を見て、横断帯もない道路を走り、ハンカチを拾い上げる。
…そもそも走ったりなんていつぶりだ?
一瞬頭を過ぎるが、すぐに今度は彼女の背中を追いかける。
「なぁ、あんた」
おれの問いかけに振り向く、彼女。
いつもおれに言い寄ってくる女共とは全然違う系統の彼女。
薄い化粧に、透き通る白い肌は桜に攫われそうだと柄にも無く本気で思う。
やや薄い色素の茶色い瞳がおれを捉えた。
「あ、これ…!」
「落としたのが見えた」
「ありがとうございます」
ハンカチを受け取り、ぺこりと頭を下げる。
サラサラと髪の毛が揺れる。
「あの、何かお礼をさせてください」
「礼なんざいい」
「でも」
嗚呼、困らせてしまった。少し罪悪感が湧いたが、それ以上に色んな表情が見たいと思った。
「なら名前だけ教えてくれ」
「名前、ですか?」
「あァ。おれはロー。一応名刺を渡しておく」
怪しい者と思われても困る。外科医を務める病院名と名前が書かれた小さな紙を取り出す。
「あ、えと、ありがとうございます。私は学生なので名刺はないのですが、リンドウミヤビと申します」
「…ミヤビか。宜しくな」
学生だったのか…大人びているので気付かなかった。恐らく大学生だろうか。
「あの、迷惑でなければ」
「ん?」
「連絡先を…」
車の音、少し先の公園の子供の声、雑音だったのものが全て聞こえなくなるような感覚に陥った。
「ありがとうございます。今度お礼にお茶でもいかがですか」
「あァ…また連絡くれ。その時確認する」
春は出会いの季節。
つまらない季節が少し変わりそうだ。
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