プロローグ

 見つめるは虚空か。その小さな体は、地下室の暗く冷たい空気にさらされて震え、鳥肌が立つほどであったのにもかかわらず身じろぎもせず、氷の張った床に座り込んだまま動きもしなかった。
 かつん、と地下室の床を叩く靴の音。しかし少女は振り返ることもせず、陰鬱とした暗い生気の抜けた瞳でただ一点を見つめていた。焦点が合っていない様で、焦点が合っている瞳は淀んだ緑色をしていた。靴の音の主が足を止めた。少女を見咎めてはぁ、とため息をついた。オレンジ色の灯りをともすランタンに照らされて男の顔が見えた。彫の深い顔、翡翠の瞳はコーカソイドの血が流れている証拠であり、鮮やかな橙色の髪と、世界の人口の二パーセントにも満たないのだという翡翠の瞳の男は地下室の薄ら寒さに少しだけ自身の手で服を撫でた。ほんの気休めにしかならないと知っているが気分的に少し違った。

「紅葉」

 ――男の名前は右京紅星という。まだまだ若いがボンゴレが誇る医療戦闘部隊を束ねる長にして九代目の幹部の一人。"大地"の名前を冠する右京家の九代目当主として、右京流剣術の頂点に君臨する男である。彼は返事のない少女――紅葉の様子に眉を顰めた。また、日が暮れて、倒れるまで、彼女はここに居続けるのだろう。彼女に向けて灯りを差し出せば、同じオレンジ色の髪が照らし出される。頬はこけ、まるで死んでいるような瞳で虚空を見つめ続ける彼女に紅星は奥歯を噛みしめた。その拍子にぎり、と鳴った音があまりにも静寂なこの地下室を反響したような気がした。




* * *





 あれを生きている、と言っていい物か紅星は医者として判断に困っていた。――医学的には彼女は明確に生きている。心臓が動き、脳波も異常はない。大きな損傷はどこにもなく、怪我は擦過傷――いわゆるかすり傷、すり傷――程度。大きな混戦を潜り抜けたとは思えないほど紅葉の体はあまりにも綺麗だったのだ。
(だが、あれは)
 地下室で延々と寒い中座り続けるあの姿は生きていると言えるのか。――心が、死んでいるのだ。と結論付けた。すでに生きる目的も、生きる目標も失い、ただ体が生きているからそこにいるだけとなった少女。あれをあのまま生かしてやることが優しさなのか、しかし、生きていてもらわなければならない事情が紅星にはあるのだ。あんな少女でも、たとえ周りが何と言おうとも――右京家の嫡子は紅葉を他に置いていないのだ。
 それがかえって紅星の思考力を奪っているといっても過言ではなかった。紅星は若いながらも右京家の当主として次代の事を考えてゆかねばならない立場にある。ゆえに才能に恵まれ、今後を担っていける紅葉をあっさりと手放すわけにはいかなかった。――いや、手放すには惜しい、と思わせるほどの成果を紅葉は見せてしまった。心が死んでいるたった六つの少女を――戦わせられるのか。自分の心に問うと、紅星は足元が急激に凍りついたかのような錯覚を覚えた。ぞっとする。自分はそこまで冷酷ではないつもりだ、と急速に冷えた体から嫌な汗が噴き出てきて、そこで――

「――紅星?」

 呼びかける声に顔を跳ね上げた。は、はい! と上ずった声が聞かれると歴戦の男たちからの視線がぎろり、と紅星に向けられた。九代目の守護者たちの中では紅星たちは代替わりしたばかりでまだまだ若輩者。新参者に近く、先日起こったクーデターに気が立っている彼らは紅星が意識を遙か彼方へ向けていたことは耐えられなかったのだろう。向けられた殺気に紅星は身がすくむような思いがし、しかし、それに負けるような小心者でもないつもりだった。すぐに居佇まいを直し、そして手元の紙をめくった。
「右京紅葉は生命活動的には何ら異状は見受けられません。あれだけの戦闘をしながらも怪我は単なる擦過傷。大きな傷は一つもなく、身体的機能に異常は見られません」
 淡々と医者として診断の結果を述べる。――ただ、と言葉を繋げて、一瞬発言をためらうようなしぐさをした後、九代目へ向き直った。
「あれを"生きている"と表現することは私にはできません」
 生きることに意欲をなくし、ただ茫然と今を流れるだけの紅葉は死んでいる。
 一つ深いため息をついたのは同じオレンジ色の髪の初老の男性であった――年頃は九代目と似た頃だろうか、その男――右京紅花は紅星をじろり、と翡翠の瞳で睨みつけた。
「お前の教育不行き届きも良い所だ」
「申し訳ありません、父上」
 紅星はそっとその翡翠の瞳を閉じて、素直に謝辞を述べた。紅花はその名前と外見が示す通り、紅星の実の父親である。そして、つい先日までボンゴレの八代目大地の守護者として前線に立っていた男だ。その風格も威圧も貫録も、九代目の並み居る守護者たちの中で群を抜いていると――家族のひいき目なしに紅星は思うのだった。彼の前では自分はまだ幼子も当然、というわけだ。だが、紅星は自分の剣が父に劣っているとはすでに思っていなかった。そして何より、おとなしくしていられるだけ自分は冷静な穏やかな性格をしていないことくらいは自覚しているつもりだ。
「ともかく紅葉はもう右京家に名を連ねる資格はない――あれだけの事をしでかしたのだ」
 紅花はやや忌々しそうに呟くと咥えていたタバコをかみつぶした。愛煙家である紅花の愛飲しているタバコは無残にも噛み砕かれ、ヤニの匂いを残して紅花の手によって灰皿に押し付けられた。ガラスの灰皿に押し付けられた煙草を見ながら、紅星は拳を握りしめた。
「紅花、少し待ってくれるかな」
 九代目がいらだつ紅花を抑えるように柔らかく声を出した。
「紅葉ちゃんには会えるのかな」
 紅星への問いかけも穏やかに続けられ、紅星はふと力の入った拳を緩めて、視線を逸らした。そして、首を横に振った。
「会っても、会話は不可能であると思われます」
 ここ数日紅葉には右京家の監視が二十四時間体制でついているが全くの行動が見られない。ただ、氷の彫像の前で座り続けるだけ。それ以上も、それ以下もなく、ただ大人ですら震えるような地下室の寒さの中でひたすら座り続けているだけだった。
「そうか……」
 九代目はふと悲しげに目を伏せた。これが巨大マフィアボンゴレのボスなどと誰が信じるのだろう、と紅星は思った。きっと彼の人となりを慕って今のボンゴレが出来上がっていると言っても過言ではない。紅星はその九代目を守ることのできる守護者の立場を持って本当に良かったと――誇りにすら思っている。この右京家に生まれたことは自らにとって、誇りであると、胸を張って言いきれるだろう。――ただ、あの少女を思い浮かべれば、その誇りがあまりに陳腐なものに感じてしまうこともあるのだ。
「紅葉ちゃんは今年でいくつだったかな」
 九代目の質問に、紅星は答えられなかった。――自分の娘であるはずの紅葉が一体いくつになったのか、即答も出来ないほどに自分は父親としての役割を放棄している。答えに窮した紅星を見かねたのか家光が言った。
「うちの綱吉と同じになったはずです、九代目。だから、六つです」
「まだそんな年だったのか……かわいそうに」
 それは紅葉の運命に対する言葉だったのか、それとも紅葉が戦いに赴かねばならなかった理由だろうか。どちらにせよ、その言葉は確かに紅葉への慈愛と、憐れみを含んだ言葉であることだけは確かだった。そうか、まだ、紅葉は六歳だったのか、と手元のカルテに視線を落として気が付いた。だからあんなに体が小さかったのか――と思ったところで九代目が決断を下した。
「紅葉ちゃんにはまだ生きていてもらおう。――確かに残酷かもしれないが、彼女はいずれボンゴレに必要になる」
 九代目は静かにそう告げた。ボンゴレのボス――ブラッドオブボンゴレのみが持つ超直感が紅葉に何かを見出したのだろうか、と紅星は悲痛な表情を浮かべる九代目に視線を向けながら考えた。しかし、自分が答えを導けるはずもない。九代目の考えはあくまで九代目にしかわからず、しかしながら、九代目の言葉は確かにここでは絶対的なのだ。例え一時の気まぐれであっても、ここに居る全員が九代目に忠誠を誓って座っている。紅葉を右京家から排するべき、と発言していた紅花ですらこの場は押し黙り、腕組みをしたまま座っている。
「――しかし、あのままでは紅葉は日常生活すら、」
 紅星が言いかけて、紅花がぎろりと睨みつけた。
「"それ"がお前の仕事だろう」
 何を言わんとしているのか、紅星にはすぐに理解できた。
「九代目、紅葉はあのままでは危険な異端分子であることには違いない。右京家としても紅葉の才能は認めたとしても人格を認めるわけにはいかない。ゆえに一つ処置を取らせて頂きたい」
「――仕方ないね」
 これは強引に紅葉を生かすと決定した以上仕方がなかった。右京家にはボンゴレよりも厳しい規則が幾重にもある。ボンゴレ側が介入して生かすと決めて規則から逸脱させるというのなら、ある程度の譲歩は互いに必要だった。右京家はそれほどまでにボンゴレを守ることに徹してきた一族なのだから。
 紅星は視線を落とした。鮮やかな絨毯が視界いっぱいに広がる。これからすることを考えれば、一生自分は紅葉に恨まれるだろう。――いや、恨むことすらできないのだろう、今の彼女には。



 危険な異端分子だと紅花は言った。――まさか、と紅星は鼻で笑った。あれに何ができるというのだろう。紅葉にはもう生きる目的がない。生かしてくれていた支えがもうないのだ。
 紅星が部屋から出て来ると近づいてきたのは上島冥夜と、寒柊であった。彼らの顔は一様に心配や、不安が滲んでいたが紅星は笑って見せた。何言わずに冥夜の肩を叩くと、彼からは大丈夫か、と珍しく心配する声が返ってきた。それに頷く。
「――大丈夫だ」
 その話を後に聞けば、今にも死にそうな顔をしていたと冥夜が苦笑して語ることになるが今、三人にとっては笑い事ではない事態だった。ボンゴレを守護するための御三家のうちの一角――最大にして最強の右京家の地盤が確実に揺らいでいるのだ。ここできっちりと締めておかなくてはならない、と紅星は試されているような気がしてならなかった。ボンゴレの為なら、娘すら断罪せよ――という明確な命令に指の先が冷えてならなかった。震える紅星の手を柊が掬い上げて、握りしめた。
「紅星」
 凛とした声。その紫色の瞳がじと紅星を見上げた。
「いい?あなたの罪は私たちの罪。あなたが受けるべき罰は私たちも受けるべきなのよ」
 ――私たちは運命共同体。三人で一人なのよ。
「ホント、いい女だな、お前」
「でしょう?」
 つつましやかに、しかし自慢げに笑った柊の表情に紅星はようやく落ち着いたように笑った。しかし、これからすることはちゃんと説明しておかなければならないだろう。右京家だけの問題ではない、御三家として肩を並べる上島家、寒家にもちゃんと説明しなくてはならないのだ。

 すべてを説明してすぐに柊が泣きだしたのは、女性だったから――泣くに泣けない紅星の立場を慮って、子供を持つ一人の母として、紅葉の事を自分の子供のように思う柊の優しい性格が見えた気がした。冥夜は同じ父親の立場として紅星のなさんとしている事の重大さがわかっているのか、顔をしかめて、拳を握りしめると壁に思いっきり叩きつけた。冥夜の力で叩きつけられた壁はあっさりとへこんで、ぱらぱらと粉になった部分が落ちてくる。二人とも、実の父親である紅星以上にこの事態を痛み、悲しんでいてくれた。
「本当に、するの?」
 紅星が差し出したハンカチで目尻の涙をぬぐいながら柊が紅星を見上げた。

「それで、紅葉が生きていられるなら」




* * *





 かつん、と踏み入った場所はやはり寒く、紅星が吐き出した息は白く変わる。階段を降りた先に広がる広い空間。氷の彫像の前で紅葉は相変わらず座ったまま動かない。右京家の護衛役たちに手で合図すると、一人部屋から出るのをためらった男がいる。自分と合わせ鏡の姿をした男はじっと翡翠の瞳で紅星を見つめた。――右京赤月。紅星の双子の弟は紅星に比べて少しばかり淡いオレンジ色の髪をしている。彼の言わんとしていることはちゃんと伝わっている――と紅星は頷いて見せた。彼は少し不安に瞳を揺らがせながら、何も言わずに階段を上がって行く。
「紅葉」
 その声は届かない。虚ろにただ、彫像を見つめている彼女にはもう外界のどんなことも耳に入っていないのだろう。悲しいがこれが現実だ。――ならば、強制的にでも生きる目的を与える必要があった。
「これから俺はお前に許されないことをする」
 紅星は自身の手を覆う手袋を外して、紅葉に近づく。かつん、と靴の音だけが響き渡り、紅葉はそれでも何の行動も反応も示さず、ただそこに座っているだけの存在であった。そのオレンジ色の髪に手袋を外した手をかざす。頭をなでるわけではなかった。――といっても、紅星は紅葉が生まれてから一度も紅葉の頭を撫でたことなど無い。
 右京家が医療に優れている――それは医学的な技術も踏まえて、この他者の身体に介入・干渉することのできる能力に起因しているのだろう。特に紅星は脳をいじることにたけていた。――記憶を司る部分、海馬への干渉。
「今のお前は生きてはいない。――ただ、縋り付き死んでいる人形も同然だ」
 少女の瞳がようやく紅星へ向いた。
「生きる為には理由が必要だろう。生きる為には目的が必要だろう。それも理解できる。――お前にとってそれがあの男だったのだろう」
 だが、もうその男はいない。いないのなら、紅葉は死んでいる。――ならば。
「忘れるんだ。全てを」
 紅星の手が紅葉の額に触れた。それまで死んでいたはずの少女の瞳に大粒の涙が浮かんだ。――忘れたくない、いやだ、止めて、と叫ぶ心の声が聞こえた気がした。しかし、紅星は止まるわけにはいかなかった。
「すまない」
 ――だが、俺を赦さなくていい。


「夢から覚めれば、お前は――」


 少女はぐったりと力をなくす。虚ろな翡翠の瞳からは涙があふれ落ちる。
 呼ぶべき名前を、口が空を切る。――ああ、誰を呼ぶつもりだったのだろう。少女はぼんやりと、薄暗い地下室の天井を見上げて考えるのすら億劫になった。


 ――そういえば、私は誰だろう。
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