始まりの日の遠吠え

 古ぼけた蓄音機から流れ出てくるジャズのレコードを聞きながら、独りの老人が深く椅子に腰掛けていた。薄くオレンジ色に部屋を照らし出しているのはアンティークのライトスタンドのみで、部屋の輪郭がぼんやりと見えるだけだったが老人はあまり気にした様子もなく、美しい意匠の施されているバカラグラスに入っているウィスキーを転がす。球体の氷がガラスに当たる度に心地の良い音を奏でて、老人がふと顔をほころばせたところで――そのカッシーナの革張りのソファの対面側に小さな影が蠢いた。
「ちゃおっス」
 小さな子供の声であったが、老人はそのしわくちゃの顔をより綻ばせて彼を迎え入れてソファに座るように促した。そして、同じバカラグラスをテーブルを滑らせて渡すと、小さな手で器用にそれを受け取って眼の前の少年というよりも更に幼い彼はニヤリと口角を上げた。
 彼の名はリボーンという。七人の最強の赤ん坊と呼ばれる虹(アルコバレーノ)の一人であり、老人とはすでに長い付き合いである。赤ん坊であるが、彼は赤ん坊ではない。イタリアの裏社会に於いて、リボーンの名前を出せばその場にいた人間が全員震え上がり、武器を捨てて一目散に逃げ出していくほどのヒットマンである。そのヒットマンを好き勝手に呼び出せるとしたら、この老人――ボンゴレ九世以外にはいないだろう。
 二人の間には特別な信頼感のようなものが存在していた。特段会話があるわけでもなく、心地のいい静寂が流れており氷とグラスが重なる音とジャズの小気味の良いリズムだけが流れていた。リボーンがちらりと九代目を見やる。彼と自分の間には六十、いや七十ほどの年齢差があってもおかしくないほどだ。だが、その絶対的な信頼感は何物にも代えがたい尊いものだった。
 九代目はやがて二つの写真を取り出した。
 一つは少年が映っている。顔立ちはアジア系。特筆して言うなら、日本人寄りをしており、とりわけて美男子というわけでもなく、平々凡々な顔立ちのように見える。気弱そうな瞳はカメラの方へ向いておらず、隠し撮りであることがはっきりと分かるものだった。彼のことは、リボーンも知っている。今まで極東の地にいたこともあり、ボンゴレ内部では日の目を浴びてこなかったが、れっきとしたボンゴレのボス候補の一人である。
 名前は、確か――沢田綱吉。
 ボンゴレの外部組織である門外顧問、組織のナンバー2である沢田家光の一人息子であり、妻が一般人であったことから比較的ボンゴレから遠ざけられて育てられてきた。家光自身はボンゴレの中では初代の血を引く由緒正しい出であるが、九代目や家光自身は沢田綱吉には平穏な生活をと望んでいた。九代目が密かに、沢田綱吉の生活を聞き及び楽しんでいることはリボーンも聞き及んでいた。彼からしてみて、家光の息子ともなれば孫のような存在なのだろう。
「これは?」
「最近、エンリコ、マッシーモ――そして、秘蔵っ子のフェデリコまで死なれてしまった」
 懐かしむような目線が彼に巡ったのは、まるで息子のようにかわいがってきたボス候補たちの姿を惜しんでのことだろう。ボンゴレは常に派閥争いが繰り広げられるほどに巨大なマフィアだ。高齢であるボンゴレ九代目の跡目である彼ら三人は常に暗殺の危機にさらされてきたし、それらに対応できるほどのマフィアであったはずだ。特に有力候補であったエンリコは幹部の中でもずいぶんと支持を受けていたし、護衛だって四六時中ついているような有様だったというのに――彼は抗争中に被弾したらしい。即死だったところを見ると、相手のヒットマンは中々の凄腕だな、とリボーンは彼らの死に様の写真を見て、頷いた。
「私ももう若くない。――できうる限り、彼には平穏な生活をしてほしかったが」
 鎮痛そうな表情を浮かべて、九代目は静かに十字架を握りしめた。彼らへ死の弔いを。そして、これから先に苦難が待ち受けるであろう沢田綱吉へせめてもの祈りなのだろう。九代目には切実に後継者がいない。三人の候補がいなくなったら――最終的に、家光の初代からの正当な血筋へと戻ってくるのは当然のことだった。
 となれば、リボーンの仕事は一つだった。
「彼をボンゴレの十代目にふさわしくなるよう教育してくれないか、リボーン」
 彼の頼みともなれば、断る理由がない。リボーンは一つ返事で頷いた。
 そんなリボーンの様子を見て、九代目は少しだけ安心したのだろう目を細めて、バカラグラスを傾けた。からり、と氷とグラスの弾ける音が鳴る。
「もう一枚の写真の子を覚えているかな、リボーン」
 九代目の言葉に、リボーンは沢田綱吉の写真の下に置かれているもう1枚の写真を取り出した。
 夕日を落とし込んだかのような金茶髪は特徴的で、白人のごとく白い肌と緑色の瞳からコーカソイドの血を強く持っているのだとわかった。完全に日本人離れした外見が周りの他の日本人の少女たちとは一線を引かせていたが、更には写真からでもわかるほどの彼女が放つ静謐な空気にリボーンは少しだけ体を強張らせた。
 物憂い気な顔とは打って異なり、冷たい緑色の瞳がそっとカメラのレンズの先を見越しているように見えたからだ。この隠し撮りをしたボンゴレの人間は無事だったのだろうか、とリボーンが考えてしまうほどには、この少女は静謐な殺気を放っていた。
 そして、リボーンは彼女を見たことがある。
「生きていたのか――右京、紅葉」
 ボンゴレ至上最大の反逆事件――ゆりかご。
 その時の首謀者の一人だった少女は、彼らのリーダーが行方不明となった時にリボーンの元へも情報が届かなくなった。それが、生きて、十代目候補の傍に置かれているとは誰が思うだろうか。リボーンはまじまじと紅葉を眺めて、昔に比べ雰囲気が変わったな、と率直に思った。あの事件はボンゴレにも、そして、紅葉自身にも深刻な傷を残したのは明確だった。リボーンが最後に見た少女は、うつろにただ椅子に座っているだけの人形にも等しい姿だったことを思い出し、写真の中にいる紅葉が完全に生気があるとは言えないが、それでも生きている雰囲気を感じさせる表情をしていることに少しだけ安堵した。
「……どうして、沢田綱吉の傍に右京紅葉を置いたんだ」
 リボーンの疑問は尤もだった。
 九代目はごまかすように少しだけ笑った後、静かに虚空を見上げた。
「彼女はきっと、すべてを思い出したら私達を赦さないだろう」
「……思い出したら? ――まさか」
「ああ、私は紅星に辛い選択を強いてしまった。しかし、あの時、彼女を生かすためにはそうするしかなかった」
 ――それが良いことだったか、わからないが。
 九代目が目を細めた。
「リボーン、私は彼女に償いがしたい。綱吉くんの傍で、わけもわからないまま命の危険にさらされ続ける彼女をこれ以上は放っておけない」
「……わかった。いざとなれば、やつのことも話していいんだな」
「ああ、もちろんだとも。もしも、彼女がすべてを知った上でボンゴレを憎み、ボンゴレを、紅星を赦さないというその時は――致し方ない、私もボスとして適切な処置をする」
 ボンゴレの中でも典型的な穏健派と言われる九代目の瞳にもうっすらと冷たい光が宿る。九代目はそれだけいうと、他には何も語らなかった。巨大なマフィアボンゴレのボスという椅子はあまりにも座るものに重責を背負わせるものらしい。ボンゴレに何かあれば、裏社会全体が荒れると言われるほどの組織だ。その双肩にかかる負担はリボーンが思っている以上のものがあるのだろう。優しいただの老人は、れっきとしたマフィアなのだ。確か、右京紅葉はゆりかごを起こしたときには六歳だったはずだ。穏健派である九代目が殺すのをためらったのもわかる。
 僅かだが、リボーンにも聞き及んでいる右京紅葉の過去を考えれば――同情的な目になるのも致し方がない。
「この件、紅星は知っているのか?」
「ああ、もちろんだとも。紅星もリボーンになら任せられると言っていたよ」
 息子のようにかわいがっている幹部のことを思い出して、九代目は嬉しそうに笑った。リボーンも九代目につられるようにして、右京紅葉とよく似た顔立ちをしている右京紅星を思い出した。実直という言葉を絵に描いたように真面目な男は今日もしかめ面をしながら、カルテと患者とにらみ合いをしているのだと思ったら少しだけ笑えた。
「じゃあな、九代目」
「ああ、リボーン。頼んだよ」
 九代目とリボーンはそれで会話を打ち切ると、リボーンはソファから飛び立った。
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