白の皇子と黒の騎士

 神聖ブリタニア帝国の帝都ペンドラゴンにある皇宮――その広大な庭園の一画。
 人があまり寄らないような区画に作られているその四阿は薔薇のチャペルにその壁を包まれており、外から中を伺うことは難しい。
 しかし、四阿の中には薔薇のチャペルの合間から木漏れ日のごとく外の光が入り込み、まるで世界から隔絶された空間であるかのように幻想的な場所がそこに広がっている。

 今年、五歳になった第二皇子シュナイゼル・エル・ブリタニアはこの薔薇園の四阿で本を読んでいた。
 その日は三月の暮――穏やかな春の陽気が周囲を包んでおり、薔薇が咲くには些か早い時期ではあるが早咲きの薔薇が僅かに花をつけており、甘い香りが鼻腔をかすめて、シュナイゼルは目を細めた。
 母はあまり出歩くことを喜ばないが、今日はそんな母も会食に出かけていて離宮にはいなかった。
 家庭教師のレッスンさえ終わってしまえば、シュナイゼルは比較的自由になった。
 そう――気まぐれだったのだ。
 いつもなら、部屋の中で本を読んでいることが殆どだったが天気がよく、澄み切った空と咲き始めた薔薇に誘われるようにして薔薇園の中へと踏み入った。
 四阿の中は暖かさを持ち始めている太陽の光から柔らかくシュナイゼルを隠し、しかして寒さを与えない。
 心地の良い香りと澄み切った空気に包まれた環境にシュナイゼルは満足して、読書にふけっていた。
 昼食後から直ぐにここに来ていたのにもかかわらず、シュナイゼルが本から顔を上げたときにはすでに外は夕暮れが近いのか、四阿の唯一の入り口からはオレンジ色の光が覗いていた。
 しまったな、と思ったのはつかの間だった。
 母はどうせ、まだ持ってきていないだろうし、どうしても遅くなるようなら誰かが迎えに来るだろう。
 そう考えたシュナイゼルは再び本の文字を追おうとして、ふと違和感を覚えた。
 ――泣き声?
 顔を上げて、シュナイゼルは首を傾げた。
 かすかに聞こえてくる声が泣いているように思えた。
 どこから聞こえているのだろう、と思った彼は本を四阿に置き去りにしてそこから出ていった。
 広い庭園の中央に備えられた四阿から望む四方の薔薇園は夕暮れに染まっていて、白い薔薇はオレンジ色に見えて、赤い薔薇たちは寄り深い赤に見えた。
 生垣はまるで迷路のように複雑に道が開かれていてシュナイゼルはそこへ踏み入っていく。

 泣き声の主は何者なのだろう。
 声の質から言って、女の子のような気がするとシュナイゼルは思いながら生垣の角を曲がったところで――見つけた。

 最初に目に飛び込んできたのは、深い、深い紅色だった。
 薔薇の赤に囲まれてなおも霞むことのない鮮烈な紅い髪は短く切りそろえられている。
 野暮ったい深い夜のような黒いドレスだったこともその赤を際立たせる後押しをしたのかもしれないが、シュナイゼルのすみれ色の瞳に赤はひどく焼き付いた。
 ぱきり、と小枝が足元で折れる音がした。
 その音が聞こえた瞬間にシュナイゼルも驚いたがそれは自分の足元から聞こえた音であり、目の前の少女は自分よりも深く驚いたのだろう、慌てて顔をあげるとシュナイゼルを見た。
 ――緑色と青色の瞳がまるで宝石のようにシュナイゼルを写し込んだ。
 互いに何も言うことができず、ただ、黙って互いを見つめているだけとなり、赤い髪の少女はみるみるその大きな瞳に大粒の涙を浮かべてしまう。
 ああ、とシュナイゼルが思うよりも早く、その瞳からぽろりとこぼれ落ちた涙が夕日を反射させて輝き、宝石よりも美しく見える。
「……だぁれ?」
 そこまで見惚れていたのだろう、と気づいたのは少女の声が聞こえてきてシュナイゼルがはっと現実に戻ってきたからだった。
 シュナイゼルは動揺した素振りを見せることもなく、少年とは思えないほどのスマートさで静かに少女の前に膝をつくと、ハンカチーフを差し出した。
「私はシュナイゼル。君は?」
 そっと白い、薔薇の刺繍の施されたシルクのハンカチーフを涙で濡れた少女の頬に押し当てて涙を拭き取る。
 少女はしばしためらったようにしながらも、夕日のせいか、その白い頬は赤く染まっているようにも見えた。
 涙が次第と止まっていき、少女はぼぅとシュナイゼルを見つめており、シュナイゼルは首を傾げた。
 返答がなかなか無いことに、シュナイゼルがどうしたものかと思っていると少女が慌てて立ち上がって、礼を執った。
「わ、私は、アスナ、です……」
 慌てたせいで、淑女らしい礼ができなかった彼女は足を使えさせてしまって前のめりになるとそのままシュナイゼルの方へ倒れ込んでしまった。
「あ、あ、ごめん、なさいっ」
「大丈夫。君にけがはない?」
 シュナイゼルは優しくアスナと名乗った少女を起こして立ち上がらせると、自分も立ち上がった。
 柔らかなほほ笑みを浮かべているシュナイゼルを見て、アスナはまた見惚れそうになったが慌てて首を横に振った。
それは怪我がないことを示しているのと同時に、見惚れそうになった自分の意識を振り払おうとした行動だったがシュナイゼルには後者のことはわからないので、怪我ないと首を横にふる少女に向かってよかった、とその手をとった。
 ――すると、アスナが顔をしかめた。
「……手が?」
「こ、これは、違うの!」
 慌てふためいてアスナは言う。
 シュナイゼルは首を傾げながら、少女の手に視線を落とした。
 その手はイブニンググローブによって隠されており、指先は震えていた。
「これは、その……元から」
 アスナはあまりにもいいにくそうに口を噤んだ。
 そして、しばらく逡巡するように視線を泳がせたあとにシュナイゼルをちらりと見て、心配している様子の彼の表情に少しだけ決意を決めたように頷くと、そっとイブニンググローブを外した。

 白い手だった。
 まだまだ子供の短い指の手は――ボロボロだった。
 シュナイゼルはできるだけ優しくその手をとった。
「私、騎士になるから」
 そういったアスナにシュナイゼルは納得がいった。
 彼女は毎日剣を握っているのだ。
 アスナは悲しげに瞳を歪ませたかと思うと、またその瞳から涙が滲んできて――こぼれ落ちていった。
「痛むの?」
 アスナは小さく頷いた。
 手はあかぎれだらけで、たくさんの豆ができていて、ところどころ潰れてしまい固くなっているところがあった。
 白い手にはあまりにも不釣り合いなそれを見て、シュナイゼルは目を細めた。
 だが、恐らく、多分、このときのシュナイゼルには彼女に対して深く踏み込む理由などなかったはずなのだ。
 ただ、泣き声が聞こえてきたからその元が何だったのか探しに来ただけのこと、――たったそれだけのはずなのに。
 くすん、と涙を滲ませたアスナはきゅ、と唇を噛み締めたあと、また笑った。
「もう、大丈夫」
 どうして、笑ったのだろう、とシュナイゼルは少しだけ目を見開いた。
 どう考えても、この手は痛むはずだった。
 大丈夫という彼女の瞳はやっぱり涙に濡れていて、シュナイゼルはじっとその瞳を見つめていた。
 へにゃりと笑ったのは目の前の少女だった。

 ――それが。
 いずれ黒い騎士となりブリタニアの栄華の足がかりを作り出したアスナ・シュヘン・ガル・クラウンと。
 神聖ブリタニア帝国宰相となるシュナイゼル・エル・ブリタニアのはじめての出会いであった。


 二人は静かに、大人たちが知るところもないところで逢瀬を重ねた。
 最初はただの友人――年が近い相手だったのかもしれない。

 それが、いつか。
 愛おしく、手放し難いものと幼いながらになっていく。
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