赤い髪は幼い頃に比べ遥かに長く伸ばされており、風が吹く度に、その風に乗って、まるで焔のように揺蕩う。
紅い薔薇の花びらも同様に舞う姿は正しく切り取られた絵画のようだとシュナイゼルは薔薇園の入り口で目を細めながら眺めていた。
その気配に気づいたのか――アスナは虚空を見上げるようにしていた瞳に光を灯して、まるで薔薇が大輪の花を咲かせたかのようにほころばせて笑ったではないか。
シュナイゼルはその笑顔に暖かく、柔らかく微笑みかけた。
「シュナ」
彼女はそう、シュナイゼルを呼んだ。
初めて出会ってからすでに十年ほど経過しているが、出会った当初、彼女はシュナイゼルのことを「シュナイゼル」と呼べなかったのだ。
シュナイゼルと呼ぼうとする度に、舌を噛んでしまう幼い彼女に笑ってしまったのは今となればもう昔のことだった。
シュナイゼルに散々笑われたアスナは頬を膨らませてしばらく拗ねていたが、シュナイゼルが楽なように呼んでくれて構わないと笑うので、そこからシュナ、と皇族を呼ぶにはあまりにも不敬な呼び方を始めたのだ。
――もちろん、それは二人きりで会うときに限っていたが。
薔薇のチャペルに囲われた四阿にちらりと視線を来ると、アスナはわかったかのように頷いた。
そして、アスナは四隅を守る兵士たちへちらりと視線を向けた。
その視線を受けて、その中に一人がアスナに敬礼をして四阿から視線をそらすようにして、それぞれが薔薇園の外側へ視線を向けた。
四隅を守る護衛のブリタニア兵たちはシュナイゼルとアスナがここで秘密裏に逢瀬していることを知っているが、口出しをすることはない。
彼らは――アスナの生家であるシュヘンベルグ大公爵の息のかかったものだからだ。
シュヘンベルグ大公爵――クロス・シュヘン・アリア・クラウンは元々、クロス・アリア・ブリタニアと呼ばれていた。
すなわちは――皇族であったのだ。
現皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの異母兄であったが、本人は皇帝にまるきり興味を抱くことなく、シャルル皇子に皇位継承権を譲ると、母の実家、シュヘンベルグ大公爵家に跡取りがいなかったことをいいことに、大公爵家に収まった。
彼はかねてから変わり者だと呼ばれていたが、正しく変わり者の行動であった。
皇位継承権を棄て、一介の貴族に――大公爵であるため、ただの貴族とは明確に言えないが――なった彼は、家系に引き継がれてきたナイトオブサーティーンの座へ腰掛けた。
本来十二人であるはずの円卓の騎士の呪われた十三番目の騎士――それがシュヘンベルグ大公爵を名乗るもののもう一つの顔だ。
ナイトオブラウンズといえは、皇帝勅令の特別権限を持つ、ブリタニア騎士たちの頂点であり、自らの親衛隊を組織することができる。
様々な特権が絡むのがナイトオブサーティーンであるが基本的にはその本質は変わらないため、ここらの護衛を担当しているのは父の親衛隊であることをアスナは知っていた。
彼らはアスナに敬意を払っている。
それはいずれ、アスナがシュヘンベルグ大公爵家を継ぐと信じているからだろう。
十代に入るまでは――毎日のように剣が嫌いだ、と父に食い下がっては大喧嘩をしてシュヘンベルグ家の離宮から飛び出していた少女は、今となっては真面目に剣の稽古をする優秀な騎士見習いである。
今季末には士官学校を首席で卒業予定であった。
* * *
昔から、剣が嫌いでよく抜け出していたアスナだったが、それが以前よりも顕著になった頃に父と、ナイトオブワン、ビスマルク・ヴァルトシュタインに捕まえられたアスナはすべてを洗いざらい話すしかなかったのだ。
――稽古を抜け出して、第二皇子シュナイゼルと会っていると。
厳密には、その話をした時、アスナはシュナイゼル――シュナがあの第二皇子シュナイゼルだと思っていなかったのだ。
そう。
あまりにも無知であったかもしれないが、アスナは有名な第二皇子シュナイゼルの顔を知らなかったのである。
もちろん、噂ぐらいは聞いたことがあったが現物をちゃんと見たことがなかったので、あの時優しく声をかけてくれた少年がシュナイゼル殿下だと思えなかった。
父たちに説明するときも、アスナにとってシュナイゼルはただのシュナイゼル。
ビスマルクはまるでめまいがするような思いがして、剣の弟子であるアスナを叱咤したが、父は笑い転げて、涙すら浮かべていた。
アスナはいずれ皇族を守る剣になる予定の騎士であったし、当然知識として頭に入れておかなかればならない情報だったのだ。
「そうか、そういう運命か」
さんざん笑い転げて、腹を抱えていた父がうっすらと涙を浮かべてアスナの頭をなでた時、父はうっすらと悲しそうな顔をしていたような気がしたのをアスナはよく覚えていた。
なぜ、そんな顔をしているのかアスナにはよく理解できなかったのだが、それがわかると父とナイトオブワンはとても迅速な動きだった。
アスナとシュナイゼルは正式に、貴族と皇族として引き合わされたのだった。
――アスナは同い年で、同性のコーネリアの遊び相手ではなくシュナイゼルの遊び相手として抜擢されたのだ。
そして、いつの間にか、アスナはシュナイゼル第二皇子の婚約者となっていた。
それは様々な思惑の絡んだことであったが、アスナやシュナイゼル――少なからずこのときの彼――には関係のない話であり、ただあのときに出会った少年・少女とともにいられるという喜びのほうが勝っていたようにアスナには思えた。
子供ながらに、この人とおとなになっても一緒にいられるのだろうという漠然とした期待があった。
しかし、いくらアスナが皇帝の姪であっても、シュナイゼルの婚約者となったとしても、皇籍を持っているわけではないただの貴族の子供であるから、大公爵の娘であったとしても皇子には軽意を払わなくてはならない。
アスナにとって相手がただのシュナイゼルであったとしても、そうしなくては父の評判が落ちてしまうし、そもそもシュナイゼルに迷惑をかけることはアスナが一番良くわかっていた。
これが守れないなら、自分はあっさりとシュナイゼルの婚約者の地位を剥奪されてしまうだろうと、アスナはわかっていた。
皇族であるシュナイゼルには、アスナ以外の婚約者候補がいるのなんて、火を見るよりも明らかなことだったからだ。
でも、シュナイゼルはアスナが自身に対して、そういった態度をとることを喜べなかったようで、しかし、立場をしっかりと理解しているシュナイゼルはアスナに無理をさせない程度に――せめて二人きりのときはあのときと同じように、シュナと呼んでほしいと約束を取り付けた。
そうして、アスナとシュナイゼルの関係は十年続いている。
互いに二次性徴を終え、以前に比べずっとその性差は歴然としていた。
元々美しく中性的な顔立ちをしていたシュナイゼルはあっという間にアスナの身長を追い越してしまい、今ではアスナは見上げなくてはシュナイゼルの顔を見ることはできなくなったし、アスナは騎士として訓練をしていても女性らしい丸みのある身体になっていく――とは言っても、平均的な女性にしては、背丈はずいぶんとある方だとわかる。
アスナはシュナイゼルに手を差し出した。
本来なら、男性が女性をエスコートするのが儀礼であろうが、この二人では反対なのだ。
騎士であるほうがエスコートをするのが当たり前。
この十年の間にアスナは徹底的に騎士としての儀礼を学び、それを実行しようと心がけているのだが――シュナイゼルは笑顔でそれを制すると、まるで絵本の中にいるお姫様を愛する王子様のようにアスナに柔らかな笑みを浮かべて手を差し出した。
「さぁ、お手を」
「……うっ」
シュナイゼルの笑みは蕩けそうなほど甘い笑みを浮かべている。
この歳の頃になると皇族には婚約者がいたとしても、貴族たちは隙を狙って、縁談を持ち込むが、そんなものがなくても、シュナイゼルは途方もなく女性人気が高かった。
パーティーへ出席すればあらゆる貴婦人や貴族の子女から視線を向けられ、その視線は熱を持っている。
(確かに……この美貌なら頷ける)
美しい金糸の髪が風に流れてサラサラと揺れているのが見えた。
その奥には美しいすみれ色――巷ではロイヤルパープルと呼ばれている皇族に現れやすい紫色の瞳をしている。
まるで高名な芸術家がその心血を注いで作り上げたかのような顔立ちに、均整の取れた体躯。
婚約者の贔屓目なしでも――シュナイゼルという人間はとても美しかった。
そんな彼を独占できるなんて、なんて贅沢者なのだろう。
本来ならエスコートをしなくてはならない立場だというのに、アスナは白い頬を薄っすらと赤く染めてシュナイゼルの手に――イブニンググローブで隠された手をそっと乗せるのだった。
優雅にシュナイゼルにエスコートされたアスナは薔薇のチャペルに囲われた美しい四阿の中へ入った。
誘われるままにベンチに腰掛けた。
四阿の中は空間が隔絶されたかのように静かであったし、軽やかな草花の匂いがとても心地よかった。
外から見れば、薄桃色と白色の薔薇が美しいチャペルであり、内側からは新緑の美しい自然の壁であった。
柔らかな緑の壁にそっと手を当てると、イブニンググローブ越しにわずかに突き刺さる感覚がした。――薔薇の棘だ。
アスナはそれを柔らかく、しかし少し悲しそうに見つめて、シュナイゼルへ視線を戻した。
「怪我をしてしまうよ、アスナ」
「大丈夫、私はグローブしてるもん」
アスナがからからと笑うとシュナイゼルは困ったように笑った。
四阿のベンチに対面に腰掛けている二人の間にはチェス盤だ。
こうやって二人は時間を過ごすのが好きだった。
今日はチェスをして遊ぶが、次はきっと互いに読書をしていて、その内容をディベートのように話すだろう。
次ぐらいは、もしかしたら薔薇園の散歩を二人でするかもしれないが、この薔薇園の外周の散歩は八年の間で飽きるほどしてきたので、もう探検のような新しい発見はないのだろうな、とアスナは思いながら座り直した。
シュナイゼルとチェスをするのはとても緊張するのだ。
元々、チェスは父に教わったアスナは、同年代はもちろん大人であれば父以外には中々負けることはなかった。
例外があるとすれば――マリアンヌ皇帝妃であったが彼女は戦略的にというよりも発想が自由な人間なので、アスナが勝つこともあれば、負けることもあるという感じである。
だが、シュナイゼルは違う。
戦略思考は圧倒的にシュナイゼルのほうが優れていたし、元々物事にこだわりが深いタイプではないので、フレキシブルな思考で、あらゆる局面にも対応されてしまう。
アスナは――いずれ、自分はシュナイゼルのもとで騎士となり、まだ開発段階だろうが今後戦力の中心となるだろう人型自在戦闘装甲騎、ナイトメアフレーム(KMF)に騎乗し、戦場を駆けることになると思っている。
――もちろん、結婚するまでという短い期間かもしれないが。
指揮官はシュナイゼルでなくてはならない。
しかし、シュナイゼルがいない状態でも自分が同様の軍隊運用ができることが最低限必要なのだと、今シュナイゼルにこうしてチェスで挑むのは彼の思考を理解するためだ。
――未来への勉強、と父やビスマルクには剣の稽古を抜け出す理由として持ち出している。
シュナイゼルが白い駒を優美な動きで持ち上げる。
こうして、シュナイゼルと向き合うのは実は久しぶりのことであった。
ボワルセル士官学校に通うアスナと帝立ノーザンブリア寄宿舎に通うシュナイゼルでは以前に比べて会える時間がぐっと減った。
それぞれが学校に通うまでは、家庭教師による教育がされていたためスケジュールさえうまく噛み合えば、毎日会うことだって決して難しいことではなかったので、いずれ騎士となり、軍隊の所属になるからとアスナは早くから経験を積みたくて、士官学校を選択した。
その結果を間違いだったとは思わないが、訓練だ、なんだと遠方への外出が増えてめっきりセントダーヴィン通りにあるシュヘンベルグ家の離宮であるライブラ宮に帰ってくることも難しくなった。
そのせいでシュナイゼルに会う機会も当然のように減っていた。
シュナイゼルはシュナイゼルで寄宿舎に通っている以上はちゃんと寮生活を送っているのだ。
皇族が多く通う寄宿舎であるから警備的な問題もまったくなく、パブリックスクールらしい伝統的な教育を受けているという話は聞いているし、先日寄宿舎の監督生に抜擢されたのだという話を――手紙で聞いた。
「監督生はどう? 大変?」
アスナは興味が勝ったのか、シュナイゼルへニコニコと笑いかけて聞いた。
シュナイゼルは少し苦笑しつつ、大変だよ、と答えながら駒を一つ進めていく。
「いろいろな人がいるから。でも、やはり学びも多いよ」
シュナイゼルの言葉は当たり障りのない言葉だったが、アスナはくすりと笑った。
「なにか、面白いものでもあったんだ」
「……どうして、君はわかるのかな」
シュナイゼルは少しだけ困ったように笑い、両手を組んだ。
「ロイド・アスプルンドは知っているかな」
「確か、伯爵家の? ――噂だと相当変わり者だと聞いたけれど」
「うん、変わり者だね」
シュナイゼルは笑ってそういい切った。
そんなシュナイゼルを見て、アスナは目を見開いて駒を動かす手を止めてしまった。
比較的忌憚なく物事を言うタイプではないというか、シュナイゼルは「求められている自分」をしっかりと理解していてそれを実行するタイプだ。
確かにアスナの前では十五歳の少年らしい姿も比較的よく見られているが、それでも学校の学友、もしくは先輩であろうその生徒を直接的に変わり者だと口にしたのは意外だった。
「アスナもきっと好みだと思うよ」
シュナイゼルがそういって柔らかく笑うので、アスナは駒を少しだけ弄んで会ってみたいな、とおもった。
「こう、少し頭の使い方が、集中しているときの君に似ている気がする」
「え、それってどういう……」
「――チェックメイト」
え、とアスナは動きを止めて、盤を見下ろす。
アスナが操っていた黒のキングは完全に追い詰められてしまっているではないか。
大した長時間話しをしていたわけではないというのに、あっという間のことで、アスナは目をパチクリとさせながらしばらく盤上を眺めて沈黙し、漸く動いたかと思えば、目を見開いた顔をシュナイゼルに向けて――向けたあと、頬を緩めて、破顔した。
「負けちゃった」
アスナはそう言っているものの、些かも悔しさのにじむことのない笑顔で、むしろシュナイゼルが勝っていることを喜んでいるようにすらシュナイゼルには見えた。
「すごいなぁ、シュナは」
「私は君のほうがすごいと思うよ。――いつもヒヤヒヤさせられるからね」
シュナイゼルは苦笑しながら、自分の、白のキングを弾いた。
もしかしたら、自分が負けていてもおかしくない勝負だったと純粋に思うのは相手がアスナだからだろうか、と思いながら青と緑色の瞳で盤上を眺めて、頭を捻っているアスナへ視線を送る。
赤い髪は幼い頃に比べ伸びて、今では背中ほどの長さとなっているのが見えた。
顔にかかる長い髪をアスナはそっと指ですくい上げると耳へかけた。
――たったそれだけのことだというのに、シュナイゼルはそこから視線が逸らせなくなった。
赤い髪から覗く、白い肌。
緩やかに優しい光を灯す青と緑の瞳が彩る顔はコーカソイド特有の顔立ちをしていながら、涼やかであり、着ている服装も相まって凛々しさを持った少女騎士の容貌を持っていた。
アスナと同じボワルセル士官学校に通うシュナイゼルの異母妹コーネリアも似たようなという雰囲気を持っていると人はいうが、シュナイゼルにはまったくの別物だと断言できた。
コーネリアも妹ながら確かに美しく凛々しい雰囲気を持っているが、アスナは凛々しさもありながら、シュナイゼルの前で見せるその年頃特有の未完成な少女の柔らかな笑顔はコーネリアのそれとは全く異なった。
元来の優しく鷹揚な性格がにじみ出ているかのようなアスナの行動の一つ一つはシュナイゼルの視線を捕らえて、離さなかった。
アスナ自身はシュナイゼルが美しい、と日々称賛したが、シュナイゼルからすればアスナのほうが美しいと思う。
この陰謀が渦巻いているブリタニア皇宮の中で――アスナが一番きれいだと、シュナイゼルは思う。
「シュナ?」
顔を上げたアスナが少し首を傾げてシュナイゼルを呼んだ。
「どうかした?」
「いいや。次はもしかしたら、私が負けるかもしれないと思っただけだよ」
シュナイゼルはそう言うと、紅茶のカップに手を伸ばした。
いつの間にか、四阿の中にはティーポッドのセットと、ハイティースタンドが置かれていた。
誰が持ってきたか、など二人の間では暗黙の了解でここに立ち入れるのは警備上の問題で、シュヘンベルグ家に関係する人間だけであるから、アスナ付きの執事であるガリオン・フォーレストが持ってきたことにほぼ間違いはなかった。
アスナも騎士となる以上、皇族に仕える身であるが実家に戻れば大公爵家のお嬢様であり、仕えられる側の人間であることには間違いない。
アスナが重用するガリオンという執事は非常に優秀であり、淹れる紅茶が一級品であるのはもちろんだが、彼が手作りするケーキなどの菓子類も非常に美味しい。
今日、ハイティースタンドに置かれているサーモンのマリネとサラダのサンドウィッチは食べやすいよう一口大に切られ、それぞれ紙ナプキンがつけられている。
そのまま食べられるようにと言う配慮だろう。
その次には定番のスコーンが置かれており、ハイティースタンドの付近にはクロテッドクリームといちごのジャム、マーマレードがそれぞれ置かれている。
さらにその上には、マカロンやケーキが繊細な芸術品のように並べられている。
シュナイゼルは相変わらず丁寧な仕事を好むものだ、と思いながら十五歳の食べ盛りであるという年齢も助けたことがあってか、下段のサンドウィッチに手を伸ばした。
チェスのあとはこうして、アスナとアフタヌーンティーを楽しむのも、こうして会ったときの楽しみなのだ。
決して二人の時間を邪魔しない姿勢を取るシュヘンベルグ家の使用人たちをシュナイゼルは気に入っていた。
エル家由来の――すなわち、シュナイゼルの母の息がかかった者たちがくればこうは行かないのだ。
彼らは皆一様に、シュヘンベルグ家を毛嫌いしており、シュナイゼルの母であるエレオノール・エル・ブリタニアのアスナへの冷遇具合と言ったら――息子であるシュナイゼルがアスナとこうして逢瀬することが徹底して気に入らないらしい、今日も出かけようとしたところで母に呼び止められ、どうやって引き留めようかと思案する母の思考が手に取るようにわかって、嫌気が差した。
アスナは皇帝も認めているれっきとしたシュナイゼルの婚約者であるのにもかかわらず、シュナイゼルの母やその周りの貴族たちはアスナを排斥しようと必死だ。
エレオノールはアスナに対して露骨な態度しか取らないからアスナも十分に嫌われていることがわかっているのだろう、エレオノールとの接触はできるだけ控えているアスナだが、先日どうしてもシュナイゼルとエレオノールが住まう離宮へ足を運んでシュナイゼルと今後の軍略について話し合いをしていたときの冷たい目を見れば、どれだけ鈍くても否応無しに嫌われているのがわかってしまう。
アスナがなにかしただろうか、とシュナイゼルは考えてしまうほどだ。
だが、シュヘンベルグ家の使用人たちはそういうこともなく、しかし、皇族であるシュナイゼルに配慮しているというわけではなく、主人が慕う婚約者と会うことを邪魔しない姿勢でいてくれるから気も楽なのだ。
アスナも――アスナの声がかかっている使用人たちも、ここに現れてアスナとお茶をしているただの友人のシュナイゼルとして大事にしてくれている。
「ん、今日のケーキも美味しい」
フォークでケーキを刺したアスナが嬉しそうに笑っている。
本来なら、アスナとはこうやって人目をはばかるような相方をしなくても良いはずなのに。
婚約者だと皆が知っていることなのだから、もっと公に合わせてもらいたいものだ、とシュナイゼルは少しだけ苦笑する。
もしかしたら、学生が終わったら――アスナは今季に士官学校を卒業してブリタニア軍の所属となり、来年の暮れ頃には初陣へと駆り出されるはずだ。
そうなれば、アスナとはこんな風にお茶などできないかもしれない――とシュナイゼルは考えた。
意外と真面目なところのあるアスナだ、正式にブリタニア軍の地位が与えられれば当然のようにその立場を優先して、これまで以上にアスナに対して礼節を払うだろう。
そう考えると少しだけ寂しくて――シュナイゼルはそれを振り払うように、ケーキを食べているアスナの頬に手を伸ばした。
「……シュナ?」
突然、手を伸ばされたことにアスナは驚いたのか、目を見開いた。
コロコロ表情が変わっていく彼女は見ていて飽きない。
シュナイゼルの指が口の端についていたクリームを拭い取って、それを口元に運ぶまでを眺めて、漸く気づいたのか、アスナは真っ白な頬を耳まで赤くした。
「あ、え、つ、ついてた{emj_ip_0793}」
「慌てて食べなくても、私は取らないよ」
「そ、そんなんじゃなくてっ。言ってくれれば、自分で取るよ!」
アスナは他についていないか確認するように自分の指で口の周りをなぞって確認している。
とりあえずはシュナイゼルが拭い取ったのでもうそこには何も残っていないのだが、念のために確認しておきたかったのだろう。
シュナイゼルはくすくすと笑ってその様子を眺めている。
「もうないよ、大丈夫」
シュナイゼルがそう言うと、アスナは赤い顔のまま、シュナイゼルをにらみつけるようにしてしばらく押し黙っていたが、徐々に頬を膨らませてシュナイゼルに不満を訴えた。
「いいじゃないか、そういう君も可愛らしいよ」
「で、でも。私はこれから騎士になるのだから、それ相応に凛々しくしろって……」
「ヴァルトシュタイン卿がそういったのかい?」
アスナは弱々しく頷いた。
アスナにとって、ナイトオブワン――ビスマルクは剣の師匠であり、騎士として最も尊敬している男だ。
ちなみに、アスナに対して父親であるクロスは尊敬していないのかという問答はしてはいけないことをシュナイゼルはよく知っている。
伯父である現シュヘンベルグ大公爵は人間としては最も尊敬してはならない男だと言うのが内外からの評価であり、娘のアスナもそれと変わらない評価を父に抱いていた。
傍若無人が服を着て歩いているようなエゴと自己中心的思考で出来上がっている男に比べれば、ビスマルクなど天上のような騎士であることに違いない。
そんなビスマルクの言葉を実行しようと心がけているのだろうが――シュナイゼルは無理だろうな、と表情を緩めた。
こういう迂闊なところがあるのが、アスナの可愛らしいところなのだから、ぜひそのままでいてほしいとすら願うのだが。
「気にしなくてもいいじゃないか。私の前での君は騎士ではなく、愛らしい私の婚約者だよ」
世の女性ならば一発で落ちたのだろう、とろけるような笑みを浮かべられてさすがのアスナも照れたのか、更に顔を赤くして、恥じらうようにして顔を背けてしまった。
(ああ……少しだけからかいが過ぎたかな)
騎士服のように動きやすい服装を好んできているアスナは恥じらって膝の上で手を組んでいる。
シュナイゼルはゆっくりと立ち上がってアスナの隣に腰掛けると、そっとその手に自分の手を重ねた。
びくりと、アスナの肩が震えた。
十五歳にもなれば、互いへの抱く感情がどういったものなのか、互いに老獪しているところがあるのでわかっているつもりだった。
心臓が高鳴るのも、相手と一緒にいて幸福になれるのもすべて――そういうことなのだ。
互いに明確に思いを口にしたことはなかったが、どことなく察していた。
明言することを避けているようなところもあったが、それは今のままではお互いが一緒にいられないことを十分理解していたからだが――シュナイゼルはそっとアスナの指を握り込むように力を入れる。
「……しゅ、シュナ」
「顔を上げて?」
シュナイゼルはそっとアスナを促した。
緊張しているのか、握っているアスナの手は少しだけ震えていて、その緊張がシュナイゼルにも伝わってきたのか、いつもよりもずっと心拍数が上がっているような気がした。
アスナは今にも心臓が破裂してしまうのではないかと思うほどだ。
あと数分でも、このままでいたらきっと心臓が爆発してしまうのだ――と思った。
緊張で指先どころか、唇まで震えるような気分で、アスナはそっと顔を上げた。
美しいブロンドが造形の整った顔を彩っており、それが眼前にあると思ったら――更に心臓がうるさく跳ね上がった。
(静まれ、静まれ)
何度も繰り返すがそんなことに効果などなく、ただただうるさい心臓の音が続いているだけ。
口の中が乾くほど緊張している気がして、アスナは呼吸すら一瞬忘れそうになってしまう。
「アスナ」
柔らかく、とても愛おしく名前を呼んでしまわれると、錯覚してしまいそうになる。
――シュナイゼルも、同じ気持ちを抱いてくれている、と。
親が決めた婚約者だから、一緒にいるのではなくて――自分の意志で自分を選んでくれたのだと。
ゆっくりと、顔が近づいてきてアスナはとっさに目を瞑ってしまった。
固く、結ばれてしまったまぶたの奥に引っ込む青と緑が見られなくなって残念だと思うのと同時に、シュナイゼルはこのままキスができそうな状態に、自分自身で待ったをかけた。
このまま、彼女にキスをしてしまうことは簡単なことだったがそれはどうしても憚られてしまう。
思いを伝えてもいないことを思い出す。
おそらくは、互いが互いを深く思い合っていることは事実であったが、そのベクトルが一緒だとはどうしてもシュナイゼルには思えなかったのだ。
アスナから向けられるシュナイゼルへの思いはどうしても「親愛」を強く含んでいて、純粋で、汚れのない、触れがたい尊い思い。
それを、今、自分の手で、汚して構わないのだろうか、シュナイゼルも少しだけ悩んで、キスはした。
――唇ではなく、額に。
「え……?」
少しだけ落胆したような、安堵したような声がアスナからこぼれ落ちてきて、シュナイゼルは少しだけ照れを滲ませたような笑みでアスナを見ていた。
「紅茶が冷めてしまうね」
シュナイゼルはそう言ってアスナから離れてしまう。
優しくアスナの手を握っていたシュナイゼルの手が離れてしまうと、アスナはたまらなく寂しく感じてしまい、握ってくれていた手を包むようにもう片方の手を重ね直した。
少しだけ顔を上げてシュナイゼルの背中を追ってみれば、少しだけ彼の耳元が紅いような気がして――多分、自分が抱いた幻想が見せた錯覚だろうが、少しだけ嬉しくなって微笑んだ。
「そういえば」
その後、しばらく二人の間にできた、心地よくも、いたたまれない沈黙の後に、シュナイゼルは漸く口を開いて続けた。
「もうすぐで、君の誕生日だね、アスナ」
シュナイゼルの言葉に黙々とケーキを食べていたアスナは顔を上げた。
六月も中旬、アスナの誕生日まで残り二週間ほどとなっていたのは互いに承知していたし、アスナの誕生日を祝う誕生日パーティーは毎年ブリタニア宮で盛大に皇帝も臨席して盛大に行われるためサプライズパーティーもないので、シュナイゼルは口にすることを憚らなかった。
むしろ、シュナイゼルの誕生日のときにはアスナは毎年、数週間前からわかりやすいほどそわそわとしていて、近づく都度、「今年はすごいプレゼントよ」と教えてくれるくらいだ。
「……パーティーいやだななぁ」
おや、とシュナイゼルは目を見開いた。
「去年はケーキが楽しみだ、と言っていたじゃないか」
今年もケーキが大好きな可愛らしいシュヘンベルグ大公爵家のお姫様に、ブリタニア宮のシェフたちは色とりどりなケーキを作ってくれるというのに、彼女が少しばかり落胆したように肩を落としたのはシュナイゼルにとっては意外だった。
「だって、パーティーにはお客様がたくさん来るもん」
なるほど、とシュナイゼルはついつぶやいてしまった。
貴族であれ、皇族であれ、十五歳ほどとなれば当然結婚適齢期となるし、いずれ、皇族に嫁ぐことが決まっているアスナとある程度交流をもっておきたいと思う人間が多いのは仕方がないことだった。
「ラーズが変わってくれればいいのに」
アスナは少しばかり陰鬱そうに、双子の弟の名前を口にした。
ブリタニアの貴族の間では双子は忌み嫌われる傾向にあるのだが、元々不吉の象徴と言われる十三番目の騎士の座につくだけはあって、シュヘンベルグ家は代々双子を容認してきた。
ラーズというのはアスナと双子の、よく似た赤い髪を持ち、同じ瞳を持つよく似た弟だった。
シュナイゼルはアスナとばかり関わりを持つことが多く、アスナとは接点を持っていたが、シュナイゼルはあまり深くラーズと関わったことはなかった。
しかし、姉に明確な恋心を持っているだろう自分を彼が毛嫌いしていることは嫌でも気づけることだった。
まあ、所謂シスコン――シスターコンプレックスというやつであったのだ、ラーズは。
アスナもブラコン傾向にあるが、それでもラーズほどということでもなく、一定程度弟たちに愛情を注いでいるし、姉弟の間の関係性は決して悪くない。
「私とラーズ、あまり変わらないと思うんだけどなぁ」
アスナはそうつぶやきながら、紅茶を口に運ぶ。
たしかに彼女の言うとおりだろう、とシュナイゼルも思うのだが、同じ双子でもアスナとラーズの間には埋めがたい何かが存在しているような気がしてならなかった。
それは性別の差などというチープなものなどではなく、もっと深いなにか。
――言うなれば、カリスマ性の問題だ。
大公爵ともなれば、その傘下は多岐にわたり、同時に与えられるナイトオブサーティーンの称号に伴う軍としての大将レベルの扱い……そのときにどれだけ人心を掌握できるかという面で、ラーズも決して劣っているわけではないが。
シュナイゼルは目の前で少しだけむくれているこの少女が騎士として優れていることを知っている。
アスナとラーズの通うポワルセル士官学校は帝国の中でも随分な名門校であるが、そこで主席であり続けるということがどれほど難しいことか。
そういえば、先日久しぶりに顔を見たコーネリアが悔しがっていたことを思い出して、シュナイゼルは笑った。
「む……何がおかしいの」
「ああ、すまない。そういう、愛らしい君だからこそ、多くの男性が惹かれるのだろうね?」
シュナイゼルに手放しに褒められて、アスナは肩を跳ね上げて再び顔を赤くした。
「も、もうっ、シュナはそうやってすぐ私をからかうんだから!」
「からかいではないよ? 心からそう思っているんだよ」
クスクスと笑いながらシュナイゼルはアスナを見る。
(……本当だよ、アスナ)
薄く開かれたすみれ色の瞳には、男が宿す熱を込めている。
だが、それは一瞬のことで再びいつもどおりのシュナイゼルの、柔らかな笑みに戻ったので、恐らくアスナは気づかなかったはずだ。
そして、自分の心に現れるそれにシュナイゼルは少しだけ驚き、少しだけ首を振った。
(……私にも、こんな感情があったのだな)
同級生――忌憚なく物事を言ってくれる間柄となった一人の友人がシュナイゼルに向けて「貴方には人の心がない」と言われたことがある。
それは同時に感情がないと言われたも同然であったが、シュナイゼルはそれでいいと思っていた。
シュナイゼルの周りの大人達は、シュナイゼルのその才能に高い期待を寄せていた。
すでに政治面で言うならば、学業を終えている第一皇子オデュッセウスよりも遥かに上回っており、十五歳ながら宰相府に出入りしている。
軍略面でもずば抜けた才覚を発揮して、その頭脳はすでにブリタニアの至宝だと称するものが多い。
それは失うことに頓着しないフレキシブルな思考によって齎されるものであるし、現実シュナイゼルはこれまで一度も負けることなく、あらゆる情報線を制して、このブリタニア皇宮の中で確固たる地位を築き上げてきた。
これらのことを成すのに、自分自身が必要だと、シュナイゼルは全く思わなかったのだ。
シュナイゼルにとって世界とは求めるものではなく、徹底して求められるものだった。
第二皇子として完璧であれ、と言い続ける大人たちに求められるがままに、答え続けてきた。
――だが、アスナだけは。
目の前で笑ってくれるアスナだけは、第二皇子としての自分を何も求めなかった。
ただ一人のシュナイゼルとしての自分を大事にしてくれた。
そんな人をどうして大切にしないだろうか。
「大丈夫だよ、アスナ。――きっと」
私が、君を守ってあげるよ。
シュナイゼルはニコリと笑ってそういった。
そして手を伸ばして、アスナの頬をそっとなでた。
ゆっくりと伝うようにそっと黒いグローブに包まれている手に指を這わせて、そっと指を絡めるようにして握り込んだ。
アスナは顔を赤くしながらも、シュナイゼルの優しい言葉に安心したのかむくれた顔から柔らかく笑ってみせた。