夕暮れアポトーシス

 乾いた空気が周囲を埋め尽くしており、異様な緊張感の中タバティエールは銃を構え直す。指示があるまで、現状待機というマスターからの言葉あってからすでに三十分以上は経過しており、いつもの悠然としている表情は少し影を潜めており僅かな焦りからかグローブで覆われているはずの手の平から、じっとりと汗が流れているような気分になって眉をひそめた。木の陰、敵からは完全に死角であろう位置から、息を潜めて待機しているのはタバティエールのみではない。ドライゼ、シャスポー、ローレンツ――とタバティエールの四人が東側に。その反対側の西側、こちらよりも更に距離のある位置からブラウン・ベス、シャルルヴィル、スプリングフィールドが待機していた。更にそこから距離を開けて北側にはスナイパー銃であるケンタッキーがマスターとその護衛役であるナポレオン、ラップ、ニコラ・ノエルと共に待機している。
 この作戦は以前から緻密に立てて行われている補給襲撃作戦である。相手の補給路を絶ち、一時的にでも補給を止めることができれば相手にとっては損害となる。現代銃と世界帝軍を相手にしていく上で、少しでも相手に有利な状況を減らしていかなければならないというマスターの作戦方針には全員が賛同している。これだけ厳重に貴銃士が投入されている。だが、それでも相手の力は計り知れない。そういう緊張が出ているのだろうか、タバティエールの銃を握りしめる手にわずかに力が入りかけた時に――その声は聞こえた。

『ミッション――開始』

 男性とも女性とも取れない声。だが、緊張が走ったと同時に少しだけ安堵した気分になった。タバティエールたちのマスターの声である。銃声が一つ、遠くから雷鳴のように轟いてきたかと思えば、前方を走っていた補給用の運搬車のタイヤが見事に撃ち抜かれ、ドライゼとシャスポーが立ち上がって走り出すのが見えた。ローレンツとタバティエールはそれの援護がメインの仕事となる。
「よし、行くぞ」
「は、はい!」
 ローレンツとうまく茂みに隠れながら、前進していく二人の援護のために銃を構える。譲れない第二戦線での戦いというやつだが、今は他のメンバーが補給のための大橋を落とすための時間稼ぎがメイン。相手が増援を呼ばないようにするため、大橋側が増援を求めてもすぐに対応できないようにするための足止めだ。マスターからは無理はするな、と言われたと同時に容赦も必要ないと言われている。タバティエールのショットが相手の脳天を貫いたところで、その前で戦っていたシャスポーが恨めしげに睨みつけてきた。
(おいおい、そんな顔するなよ)
 流石に戦場で無駄口を叩く気分にはなれなかったタバティエールはわずかに肩をすくめて、苦笑するに留まった。決められそうだったところを奪ってしまったことも事実だったのでこちらが悪いのだろう、そういうことにしておこうと思い、銃を構え直す。

「Jr、ここは危険ですお下がりを」
 ラップが声をかけたのは、双眼鏡で全体の様子を見守っていた一人の少女だった。Jr、と呼ばれるには性別が僅かに気になるところであるが、くびれや胸を見る限りで紛れもなく女性だった。彼女の傍には付き添うようにという雰囲気でぴたりとくっついているニコラとノエルがいる。双眼鏡をおろして、マスターは笑ってみせた。サングラスで覆われていて瞳は判別しづらそうだが、決して状況を憂いてはいない。
「危険、俺に言ったのか?」
 少し不遜な言い回しにラップは顔をしかめた。
「ナポレオン閣下、大橋側が不利なようですね」
「ああ、向こうもあちらを落とされては困るからな。だが、こちらもあちらを落とさねば作戦は成功とは言えまい」
 ラップの手を引っ張り、ナポレオンの前に地図を広げたマスターが顎に手を当てる。作戦立案はもちろん、マスターが行うべきだがその手助けを彼らが行うことも少なくなかった。自分が未熟であることを十分に理解している、という点ではラップはこのマスターを評価していた。
「こちら側から奇襲をかけましょう。この状況ならナポレオン閣下たちが敵の側面を突くことができる」
 マスターが現在地から、大橋までを指でたどって、大橋周辺を指で叩いた。確かにこの状況ならば、その作戦が一番有効だろう。ナポレオンも頷いているし、ラップからも文句は出なかったが、ニコラがマスターの袖を引っ張って見上げていた。
「でも、Jrが一人になっちゃうよ」
 そう。ナポレオンたちが離れるということはここの護衛がいなくなるということであり、マスターがケンタッキーと共に二人きりになってしまうというわけだ。もしも、この位置がバレてしまった場合、マスターは遠距離戦メインのケンタッキーと共に逃亡戦または防衛戦をしなくてはならなくなるのだが――マスターは首を横に振った。
「ついていく。どのみち、ベスたちの治療をする人間が必要だからな」
 向こうも消耗戦をしているはず。ならば、そろそろ彼らの体力が心配になってくる。マスターがついてくるということは彼らの治療や補給を優先して行うことができるので、戦線への復帰も十分に見込めるだろう。だが、それは同時にマスターを戦場のど真ん中へと連れ出すことを意味しており、ラップは顔をしかめた。そんなもの、ただの自殺行為だ。マスターは貴銃士を召銃し、従え、それらを治療したり、力を与えたりすることはできるがそれ以外はただの普通の人間なのだ。銃弾が飛び交うような戦場で、一人、守る盾もなく――と反論を唱えようとしたところで、ナポレオンがにやりと笑った。
「Jrよ、良いだろう。このナポレオンの随伴を許す!」
「陛下……!」
 この御方は、何を考えているのか。頭痛を感じそうになるラップのことなど無視して話が進んでいく。ああ、もうこうなっては誰も止まらないのだろうと思うし、ヘタにマスターをこちら側にのこして、敵に捕まりでもしたら大変だ。ラップも諦めた。この手の話はすでに数十回と繰り返され、マスター――Jrが引いたことなど、一度もないのだ。いざとなれば、そのホルスターについている名もない水平二連式のショットガンがある。仕留めるには至らずとも、敵を威嚇することくらいなら可能だろう。
「ケンタッキーはもう少し大橋よりで待機。もちろん、向こう側の状況も見て、援護してやってくれ」
「了解っす、Jr!」
 ケンタッキーに指示を出すと、マスターはフード付きの外套を深くかぶった。そして、通信機に電源を入れる。

『というわけだ――そちら側は問題なさそうか』
 聞こえてきたマスターの声に、タバティエールはうまく茂みに滑り込んで頷いた。それが最もベストな手段だろう。タバティエールの前の戦況は決して旗色がいい、とは言えなかったがもうしばらくは持ちこたえられる。元の作戦通り、こちらが隠れるように撤退したところで彼らは大橋の状況を見るために自分たちの深追いはできない。大橋を目指して進んだところを、挟撃する。そのためには大橋を落とさなくてはならないのだ。
「任せておけよ、マスターちゃん。こっちはなんともう少しは持つ。シャスポーたちには?」
『いや、大筋の作戦は変わっていないからな。そのまま継続してくれ』
「了解。――マスターちゃん、俺がいないんだから無理だけはしないでくれよ?」
 そういって笑えば、少しだけ笑った声が返ってきた。――もちろんだとも、という少女ともつかぬその声があまりにも心地よく感じて、タバティエールは目を細めた。ああ、大丈夫だ。彼女はきっと問題なくやり遂げることだろう。静かにタバティエールは確信する。彼女の期待に自分がまずは応えなくては、と銃を構えて茂みから出る。一度、小康状態に陥っていた戦いは再び銃弾の雨を以て再開された。

 シャルルヴィルは突然側面から割って入ってきたナポレオンたちの姿を見て目を見開いた。彼らは北側の崖でマスターと共に待機しているはずだったのだ。大橋側が不利なのを見てこちらへとやってきたのだろう、ありがたいと思うのと同時に、マスター――Jrがどうなったのか、心配でつい周囲を見渡すと、ナポレオンが傷だらけになっているシャルルヴィルの肩をたたいた。
「お前たちは少し下がれ、Jrが待機している。治療を受けるのだ」
「Jrがここまで!?」
 なんてことだ。銃弾が飛び交い、流れ弾の危険だって十分にあるこんな最前線までマスターは出てきているなんて。自分たちがうまく戦況をもたせられなかったからだが、シャルルヴィルは不甲斐なさに唇を噛み締めそうになり、ナポレオンが指差した茂みから、わずかに黎明色の髪が覗いているのが見えた。ごめんね、Jr、と心の中で謝りながらも傷が最もひどいブラウン・ベスに肩を貸して、マスターの待機している場所まで下がる。護衛のナポレオンたちは一人残らず戦っているから、マスターは愛用の銃と一人きりだ。申し訳なさそうに眉をひそめているシャルルヴィルの頬にマスターの手が触れてわずかに光ると、彼の傷は瞬く間になくなっていった。
「気にするな。よくやってくれたよ――もう少しだけ、頑張ってくれ」
「……うん。ベスくんをよろしく」
 シャルルヴィルは次に治療されたスプリングフィールドを連れてナポレオンたちの元へ戻っていく。それを見送りながら、マスターは一つ息をつくと、ブラウン・ベスの心臓付近に左手を添える。ゆっくりと力が流れていくのをイメージしながら、彼の治療のために意識を集中させた。――自分はこのためにいるのだ。貴銃士たちの治療をするために、この薔薇の刻印は自分の左手には存在する。
「……うっ………Jr……?」
「まだ、無理はするなよ」
 治療は大幅に疲労する。一つの見解だが、おそらくこの薔薇の刻印を介して、自分の生命力を彼らに分け与えているのだろう。これだけ傷がひどくなれば、それは特に顕著で、マスターの額からは少しだけ汗が流れ出て、左手の薔薇の傷跡はより深く、醜いものへと変わっていった。ブラウン・ベスの服に、わずかにマスターの血が滲んでしまった。
「Jr、もう大丈夫だ……だから」
「駄目だ。お前の力はまだ必要だ、だから、黙って治療を受けて戦場へ戻れ」
 ひどく冷たい声が出て、マスターは自嘲した。なんてひどいマスターだろうかな、と困ったように笑いながらブラウン・ベスの治療を続ける。もう、二度とごめんだった。誰かが、いなくなってしまうなんて、二度と嫌だった。左手が強く押し当てられているが、かすかに震えていることを察したブラウン・ベスは何も言わずに治療を受けた。少なからずこの少女が何を恐れているか、ブラウン・ベスは知っている。だから、自分がより彼女を傷つけるようなことがあってはならないのだ。
 そうして、しばらく治療を受けているとブラウン・ベスのあれだけひどかった傷はなくなり、なんてことはないいつもの状態へと戻っていった。
「は……っ、はぁ……」
 マスターが肩で息をしているのが目に入った。この彼女を今、ここで一人にしておくわけには、と思ったところで背中を押される。不敵に笑うその笑顔で、大丈夫だと、唇が紡ぐ。ブラウン・ベスは覚悟を決めて立ち上がった。
「必ず、戻る!」
 だから、そこに隠れているんだと伝えて戦場へ戻っていくブラウン・ベスを見送ってマスターは笑った。これで戦況は変わるはずだ。木陰に入り込んで、木に背中を預けると呼吸を整えるために空を見上げるように顎を上げた。必死で空気を取り込もうとする肺を落ち着けるようにして、ゆっくりと呼吸してみるが、硝煙の焼けた匂いがどうにも不快でやっぱり呼吸はままならないままだった。いい加減なれたつもりだったのに、体はどこかこの匂いを拒否している。
「よし、突入するぞ!」
 少し遠くから、ドライゼの声が聞こえる。ああ――彼らも間に合ったらしい。これで、ほぼ作戦は終了だ。最後に残っていた敵たちを三部隊で殲滅し、大橋を落とす。マスターが思い描いたとおりに遂行されつつあるそれを見守ってあげなくてはマスターの役割が果たせない。体の虚脱感に負けないように足にぐっと力を入れて立ち上がると、マスターは貴銃士たちの戦いを最後まで見守ろうとして、自分の方に敵が流れ込んできてしまっていた事に今、気付いた。
 黒い服に身を包み、ガスマスクで顔を覆っている――世界帝軍の一般兵がマスターを見つけて銃を向ける。まずい、この位置、この状況では彼女が持っている水平二連式ショットガンをホルダーから引き抜く前に引き金を引かれてしまう。躱すには――体が疲労しすぎていた。ああ、終わったかもな、と絶望とも、落胆とも取れるような表情を浮かべた瞬間に銃声が二つ。一つの銃弾はマスターの肩をかすめて逸れていき、もう一つは――敵の心臓付近を的確に射抜き絶命させていた。おそらく、銃弾がそれたのは彼が先に絶命するような衝撃を受けて、銃口が僅かに上を向いたからだろう。
 マスターが肩の衝撃に地面へ転がり、それに駆け寄ってきたのはタバティエールだった。「マスターちゃん!」と彼にはらしくない大声が聞こえてきて、苦笑した。彼の銃の銃口からわずかに硝煙が出ているため、どうやら敵を射抜いたのは彼らしい。もしかしたら彼は戦線に加わるよりも先に自分を探していてくれたのかもしれない、とマスターは考えて、笑った。
「大丈夫か、肩が……!」
「出血は派手だが、かすっただけだ。――向こうも終わったらしいな」
 タバティエールの肩を借りながら、マスターは立ち上がった。最後の一人をケンタッキーが的確にスナイプしたようでブラウン・ベスが北側の崖を睨みつけていた。いいところをうまいことさらっていったものだ、とマスターは苦笑しながら、安堵したように息をつく。とりあえず、この区域での作戦は終了し、マスターと貴銃士たちは基地へ帰還しなくてはならないだろう。
「Jr!無事なの!?」
 シャスポーが少し顔色を変えて駆け寄ってくるのが見えて、なんともないという意味を込めて、手を挙げる。戦利品諸々は待機しているレジスタンスの兵士たちが集めて回収してくれるはずだ。その護衛をナポレオンたちに命じて、マスターは他の貴銃士たちに自身も含めて撤退をすることを伝えた。彼らからは異存の言葉は上がらず、基地を目指すために歩き出した。



* * *




「全く、君は無理ばかりだな」
 マスター――Jrこと紅離は療養のベッドの上で苦笑しながら、この特別支部のリーダーである恭遠の声に頷いてみせた。否定しようもない、無理をしたことは事実だ。
「そういうところばかり、お母君に似て……お父君が嘆かれるぞ?」
 レジスタンスのこの特別支部に属していたマスターと兵士が紅離の父と母である。母がマスターで貴銃士の大半、というよりも殆どが母の召銃した貴銃士たちである。紅離の両親はすでにどちらも世界帝軍との戦いで他界しており、紅離が二人の役割を引き継ぐようにして、このレジスタンスの特別支部に入った。皆からは心配され、気遣われもしたが紅離はここで戦うことを望んだ。二人の描いた理想に少しでも近づきたかった。
「無理をせず、とあれほどに厳命したはずだが。まあ、君はそういう人だからな……――とりあえず、今回の作戦は成功した。しばらくは休養したまえ」
 恭遠はそう言って救護室から出ていった。それを見送って、紅離は静かにベッドへ横たわり、息をついた。少し硬いこの救護室のベッドも慣れると意外と好きなのだ。ゆったりとした時間が流れていく、基地の空気に自分が作戦を成功させられた安堵が芽生えてくる。

「終わったぁ……」

 安堵からこぼれ落ちた言葉と共に、ノックが聞こえてきて、紅離は目を見開いた。ドアから入ってきたのはタバティエールであり、その手の上の皿には分厚いパンケーキが積み上げっており、バターとメイプルシロップのいい香りが救護室に感じられて紅離は目を輝かせた。
「パンケーキ!」
「頑張ったご褒美な。マスターちゃん」
「やったっ、食べる!」
 ベッドから飛び上がるようにして、紅離に苦笑しながらタバティエールは備え付けのテーブルにパンケーキの皿を置いて、ナイフとフォークを設置した。甘い香りに釣られるようにして、紅離は椅子に腰掛けて、分厚いパンケーキにナイフを入れた。
「ふかふか〜」
「そりゃ、よかった。レオポルトが紅茶も淹れてくれたからどうぞ」
 紅茶のポッドからカップへ紅茶を注ぎ、紅離の前に出して椅子に腰掛けた。良い香りが立ち込めて、自分の前にも置いた。甘いパンケーキを口に頬張って、ニコニコと笑ってるそれは戦場で見せる鋭い表情とはまるで異なる。その姿があまりにも少女らしくて、タバティエールは目を細めた。
 こういった平穏ばかりではないとは限らないが、少なからず今だけは彼女が笑っているので良しとしよう。タバティエールの脳裏に、あの瞬間が蘇ってきて顔をしかめた。あの瞬間、目の前にいたのは、狙われているマスターと銃口でマスターを捉えていた。――もしも、自分の引き金が遅かったらと思えば、ゾッとしない。戦場に出てくるなとは言わないがそれでも安全なところにいてほしいと願うのはおかしいことではないはずだ。
「マスターちゃん」
「うん?」
 食べていた手を止めて、紅離は顔を上げた。少し憂いたタバティエールの顔に何を言わんとしているか気付いて、困ったように笑った。
「ごめん」
「わかってくれたなら、いいけど」
 タバティエールが苦笑しながら、肩をすくめる。そういいながら、パンケーキの一部を切り取って紅離の口元まで運ぶ。紅離はそれに口を広げて、ぱくりと食べた。
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