反抗クライシス

 世界帝――帝都。
 暗い灰色がかった空に高くそびえるその王城と城下町。絶対的な世界平和を掲げ、現代銃たちを操り、世界中の人間を管理支配する絶対的な支柱。その王城内で、一人赤い髪を焔のようにたなびかせた女性がたっぷりとフリルの付いた服をひらめかせながら歩んでいた。その表情は顔全体が覆われてしまうガスマスクのせいで伺うこともできないが、彼女が醸し出す雰囲気は決していいものとは言えなかった。癇癪を起こすような女性ではないが、ひどく機嫌が悪そうで兵士たちが誰ひとり近づけずにいる。まるで、海を割ったと伝説されるモーゼのように彼女の行く手を遮るものはそそくさと廊下の端によって道を譲った。
 ――一人を除いては。
「どきなさい」
 凛として涼やかな声である。眼の前に立ったのは彼女よりも遥かに背が高く、体格もがっしりとした男だった。白いベストと赤いシャツ、黒いコートが妙に目につく男で、彼は凛としたその声の中に不機嫌さを発見して、わずかにため息をこぼした。彼はわずかにそれて道を譲ると、再び歩き出した彼女の後を付き従うように歩き出した。決してそれに彼女が文句を言わないことを見越してのことで、豪奢な扉を開け放ち、彼女の執務室に入ったところで彼女はガスマスクを乱雑に取り外して、それをソファの上に投げ棄てて、自分もソファに倒れ込む。
 青と緑の瞳が不満と不服をありありと訴え、赤い髪を振り乱して、ソファの上のクッションを何度もその拳で殴りつけていた。しばらくして、落ち着いたのか顔を上げた彼女が男――アインスを見上げていった。
「外しなさい」
 ――マスクをということだ。特別断る理由はなく、アインスはそれを外して、近くの棚の上に置いた。そして、彼女の元へ近づくとその赤い髪を撫でて、抱きしめられるままに放っておいた。
「作戦が失敗したと報告を受けた」
「ええ、ええ、みすみす橋まで明け渡して……っ」
 忌々しい。
 言葉の端々に恨みつらみが募っている声だ。アインスは嘆息し、できるだけ優しく、彼女の言いつけ通りに髪をなでてやった。彼女はこの年で、世界帝軍の軍の統率を任されている人間であり、現代銃たちのマスターだ。彼女のことを姫、プリンセスと呼び、皆がそれに傅き従っている。しかし、作戦の失敗は全て彼女の責任となる。その重圧は計り知れないものがあるが、残念ながらこの女はそれに押しつぶされてやるほどおしとやかな女性ではなく、使えない部下を自ら射殺する程度には冷酷で、容赦のない女だった。アインスは今、こうして嘆いているのはどうしようもない鬱憤を吐き出したいだけだと知っている。どこまでも、自分はプリンセス・アストリッドでなくてはならず、部下たちの前ではその高貴な声で作戦を指示し、従える存在で無くてはならない。冷静に冷徹に、ただ、世界帝の命令を粛々と伝える存在。
「どうするんだ?」
「あの橋なんてくれてやるわ。どうせ、レジスタンスに取られたところで、こちらの補給が一時的に止まるだけのこと」
 声が徐々に冷静さを取り戻していく。そうだ、この女にはこの強さがある。
「ベルガーを出すわ。――アレは試運転できるかしら」
 顔を上げ、そこには先程までの癇癪を起こしていた少女のような顔はなく、冷静で、冷徹で、凍えるような美しさをした作戦指揮官がいるだけだ。アインスはソファに腰掛けたままのアストリッドの前に膝をついて、その手の甲にキスを落として笑ってみせた。
「あれはすでに最終起動に入っている。お前の作戦一つで、どうとでもできるだろう」
 その答えに満足したらしい、その美しい顔に笑みを浮かべた。そして、優雅に立ち上がると部屋の扉を一つ開けて、そのつながりになっている暗く、冷たい部屋へと入っていく。数多の試験管のような巨大なガラスの筒が立ち並び、あらゆる機械が繋がれ、そのガラスの中には――人が入っている。薄緑色に発光する培養液の中で、おそらくは少女のような外見をした同じ顔がずらりと立ち並んでおり、アストリッドはその間をくぐり抜けていくようにして進んでゆく。そして、一つの前で、アインスと共に立ち止まり、見上げて微笑んだ。
 うっとりと、恍惚にも似たような顔をして、その試験管に手を伸ばして、まるで聖母のような慈愛の微笑みと、悪魔のような冷淡な微笑みを混ぜたような笑みを浮かべる。気泡が一つ、二つと、浮かんでは消え、ごぼと音をたてる。

「楽しみね、あの子、どんな顔してくれるのかしら」



* * *




 誰かに呼ばれたような気がして、紅離は顔を上げた。アジトの宿舎で紅離に割り振られた部屋はブラインドが下ろされており薄暗く、紅離の手元に置かれているランプのオレンジ色の灯りだけが周囲を照らし出していた。時刻がわからなくなりそうだが、古びたブラインドからわずかに漏れる白色の光に今はまだ昼間であることを紅離は自覚した。――集中が途切れると、周囲の音が一気に耳に入ってきた。
「Jr、いい加減にしなさい! もう昼も過ぎているというのに、食堂にも顔を出さず!!」
 ――ああ、聞き覚えのある小姑の声だ、と紅離は眉をひそめる。しかし、それを口に出して言えば、部屋の外の小姑もといラップは皿に激昂して声を荒げることだろう。更に耳を澄ませてみればその近くから、もう一つ聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「まあ、落ち着けって。きっと集中して聞こえてないんだよ」
「タバティエール、貴方はJrを甘やかしすぎです。先日の作戦だって――」
 ああ、まずい、この分だと俺の代わりにタバティエールが怒られてしまいそうだ。紅離は苦笑しながら、漸く椅子から立ち上がり、テーブルに置き去りにされていたサングラスをかけて、ドアを開けるためにドアノブを掴んだ。ドアを開ければ案の定眉を吊り上げて、今にも説教を始めそうなラップと困った顔をしているタバティエールの二人の姿がサングラス越しに入ってきて、つい苦笑してしまう。ラップは紅離を見るなり――怒りの矛先を本来の居場所へと戻した。
「Jr、貴方はもう少しマスターとしての自覚を持って……!」
「わかった、わかったから、ラップ。ごめんって、ご飯はこれから食べに行くから」
 説教だけはゴメンだ。貴銃士たちの中ではラップの説教が一番長くて、座らされているのも段々苦痛になってくるからできるだけ逃げたい。ラップの主張は自分の体調管理を疎かにするな、ということだろうし、ここは怪我をしたばかりの自分の非を認めて、速やかにご飯を食べに行くほうが得策だ。
 そんな作戦意図が読まれてしまったのか、ラップの目が僅かに訝しげに紅離を見ていて、居心地が悪い。
「タバティ、今日はフレンチトースト、食べたいなぁ」
「……はいよ、マスターちゃん。作るから、食堂行こうぜ」
 この場合のフレンチトーストは甘いものではなく、ベーコンや野菜、チーズを乗せた食事用のものだ。タバティエールはマスターのその意向をしっかりと汲み取って、紅離の肩を叩く。そして、ラップへ視線を向けて。
「食べるって言ってるんだから、これでいいだろ?」
「……ええ。Jr、陛下とイエヤスたちが次の作戦について確認したいと言っておりましたから、後で作戦室まで起こしください」
 ラップは渋々引き下がっていった。心配してくれていることは事実なので、あまり強くは出れない。ここで、引き下がってくれたことに紅離は感謝して、タバティエールと共に素直に食堂へ赴くことにした。


 作戦が成功してからというはしばらく静かなものだ。補給路を断てたという安堵もあるのか、作戦の疲れもあるのか貴銃士たちも、レジスタンスの兵士たちも皆それぞれが休養や休息を楽しんでおり、ドライゼなんかは次の作戦について綿密にはなしているようであったし過ごし方はそれぞれだ。紅離もマスターとして、貴銃士たちを束縛するつもりはみじんもないので、彼らには好きなように休むように言いつけてあった。まあ、危険な行動さえしなければ何をしていても構わない、ということだ。
 食堂へ向かう道すがら、フルサトとキンベエに会い、二人からは肩の傷について大層心配された。だが、傷痕は残ってしまうかもしれないが、痛みはもう殆ど無く、肩を上げても動いても問題ことを伝えると、フルサトからは熱い抱擁を受け、キンベエからは優しく頭を撫でられた。二人からも、無理だけは駄目と言いつけられて、過保護すぎる貴銃士たちに紅離は苦笑した。
「アナタを失ったら、ワタシたちはとっても悲しいワ」
「……うん、わかってるよ」
 フルサトはとてもいい匂いがするし、優しい。本当のお母さんを思い出してしまうくらいには。紅離は柔らかく目を細めて、そろそろお腹が空いてきたからと伝えて二人と別れた。

 食堂はお昼時を過ぎているという事もあってか、人はまばらであった。タバティエールは、じゃあ、俺は作ってくるわ、と言って離れていくのを見送って、紅離は適当な椅子に腰掛けて待つことにした。
「マスターちゃん、なんか他に食べたいのあるか?」
「魚、食べたい」
「じゃあ、ソテーにでもしようかね。ちょっと待っててくれよ」
 再び厨房の中へ戻っていたタバティエールを笑顔で見送って、紅離はわずかに手持ち無沙汰になって本をめくろうとしてすぐに手を止めた。
 空は青く、雲ひとつ無い美しい景色が広がっている。昼食を食べたら、外にでて散歩でもいいのかもしれない。作戦立案の件も終わらせて、貴銃士たちの調子も見て、色々考えながら――ふっと笑みが浮かんだ。こうした平和を維持するためにも、戦わなくてはならない。貴銃士たちのためにも、レジスタンスの人たちのためにも。
 柔らかな、バターの香りを鼻に感じて、紅離は顔を上げた。
「お腹、すいたなぁ」
 そうやって、言えることも特別なことなのだと思えばたまらなく嬉しかった。
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