プロローグ 飛ばない竜
「アスナは空飛ばないよな」クザンはお茶をすすりながら、目の前で書類をさばく女の子へ視線を向けた。――子、と表現するには些か年が違うきもするが、クザンはそういったことに頓着はしない。幼い頃から面倒を見ている妹分のような彼女はとうにクザンと同じ階級まで上り詰めてきており、明け透けのない友人のような、兄妹のような存在だと勝手に思うことにしている。もちろん、仕事を明確にサボっているであろうクザンを穏やかに部屋に受け入れ、部下にお茶を淹れさせるくらいなのだから、少女――アスナの中でクザンが嫌いな人物ではないというのが軽く想像できる。
「別に飛べないわけじゃないわ」
書類へ一つサインをする。一人の部下がクザンが未だここにいることに困惑し、会議はいいのか、とアスナへ視線を送ってくるがいつものことだ、とその視線には取り合わず、ただひたすらに書類をめくっては目を通し、サインをするを繰り返した。
クザンは皿の上の大福へ手を伸ばす。この間はせんべいだったなぁ、と思いながらここのお菓子は戴き物が多いというアスナの発言と照らし合わせると、だいたい誰が差し入れたものなのかわかるくらいだ。アスナは時折、お茶を飲みながら、少し考えるような仕草をする。
「じゃあ、飛べるのか?」
「人間は飛ばないのでしょう? 月歩や剃は使ってるし」
そりゃ、違うでしょうよ、とクザンは大福を噛みちぎった。もぐもぐと口を動かしながら、たしかにアスナが月歩を使って空中を闊歩するのは見たことがある。しかし、それとは違う。静かにアスナは言った。人間は飛ばない。そのとおりだが、そのとおりとはいえない。
「お前は人間らしくするために飛ばないのか?」
クザンの言葉にアスナの手が止まった。しまった、とはクザンは思わない。この手の話が確かにタブーであるのはクザンも知っているし、知っている彼女よりも年上の部下達が困惑したようにクザンとアスナへ視線を行き来させ忙しない。中将、とではない、師父、とアスナを呼び、抑えるようにと訴えるがアスナの目はゆっくりと、這うようにクザンへと向けられた。ひやりと、"氷人間"であるはずのクザンですら寒気を一瞬感じたのは、その金色の瞳が人間のそれとは違うものだからか。
アスナは立ち上がった。師父、と大きな声を上げた部下を制して、退室するように静かに伝えると、部下たちは困惑し、どうしたものかと思ったが、自らにあの視線が向けられると思うと寒々としさっさと退室を決めたのだった。二人きりの部屋になり、アスナは部屋に取り付けられた窓から本部の外を見下ろしていた。
「別に俺は人間になりたいわけじゃない」
冷ややかな、しかしアスナの本心だった。
「第一、俺は人間になれないわ」
窓の向こう側には、小さな少女が居た。剣を振るい、黒髪の少年と技を磨き合う少女はアスナの眷属――大事な自らの半身とも言える子。彼女がアレ以上大きくなることはないのだろう。そして、また、自分も、これ以上の年齢的な成長はありえない。
「ただ、らしく振る舞ってあげるのも嫌ではないわ。――あなた達と生きているのだから」
そう言って顔だけ振り返らせながらアスナは呟いた。その口元には僅かな笑みを携えていて。
「怖いねェ」
「仕方ない、それは。俺は人間ではないし、人間にはなれない。――ただ、お前たち人間は竜にはなれない。それだけのことでしょう?」
その黄金の瞳の瞳孔が僅かに変化する。縦長に――竜のように。しかし、それも一瞬のことで、アスナが一度目を瞑って、開き直したところでいつもの目に戻っている。何事もなかったかのように寒気の走った部屋は陽光のさした暖かな部屋を取り戻して、クザンは内心安堵しながら溜息を付いた。
「でも」
アスナはそう言って煙草を一つ取り出した。口元に慣れたように咥え、火をつけると静かに煙を吸い込んだ。
「空は飛んでみたいわ」
青空へ焦がれるように、その瞳を空へ向ける。
「……? お前飛べるんだろう?」
「まあ、でも、それが本業じゃないから」
「?」
「竜にも色々あるのよ」
アスナはふ、と笑いながら、少しばかり泣きそうな顔をした。
「俺は飛ぶことはできても、空に受け入れられることはない」
ふぅ、と煙とともに吐き出された言葉。
「なんだか、難しい話ね」
クザンはアイパッチを下げる。どうやら、眠るつもりらしい。ソファでは彼の巨躯を収めることなどできないだろうに、とアスナは苦笑しながら眠るなら何か持ってきましょうか、と声をかけた。クザンは手を横に降っていらないことを示すと、完全に眠る姿勢に入ってしまった。
「もしも、俺の前に、翼を持った竜が現れたら」
――一瞬目を奪われた。
「俺も空に飛ぶことができるのでしょうね」
――紅蓮を模したような赤い髪、月を映した黄金の瞳。
「助けてやろうか」
――まるで、彼女は悪魔のように微笑み、聖女のように手を差し出してきた。
焼ける臭い、驚きの瞳を向ける少年は、黒い白衣を纏った女を見上げて、そして、時が止まった。
「俺達なら、お前を助けてやれるよ」
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