レディ・ステップ

 ドレスローザはドフラミンゴが討たれ、前王リク王が即位することで話がまとまったらしい、ということを聞いたのはバルカが海軍のテントへ戻ってきてからのことだった。そう、と部下たちに返事を返して、中将にもばればこのくらいは用意してくれるんだなぁなどと考えながら自分専用にと用意されていたテントへ潜ろうとして、煙草の匂いを感じた。
 本来バルカが座るべき場所だった椅子にしっかりと腰掛けて煙草を吹かしていたのはアスナだ。
「おかえり、随分と遅かったじゃないか」
「……部下たちは?」
「さぁ、どうだったかな」
 からから、とガラス玉の入っている香水瓶を見せびらかすようにしてアスナは楽しそうに笑った。
「中将殿ともなれば大変だろう。その気苦労、察してあまりある」
「……アスナも当時はこうだったんだろうなぁと思うたびにおれは懐かしくなるよ」
 ――といっても、君は人を振り回してばかりだったけどね、とバルカは付け足して、椅子を引っ張り出してくるとアスナの目の前に座った。アスナがどうしてここにやってきた、とか、どうやってここにきた、とかはこの際問わないことにしている。竜である彼女に人間の常識がそもそも通用しないことなど、長い間付き合ってきているバルカが一番良く知っていたからだ。
 煙草頂戴?とバルカが言えばアスナは箱から一本取れるように差し出した。
「いいのかい?」
「ん? ああ、蒼の瞳はおもったより被害は少なかったからなぁ……まあ、レビアとか主要メンバーに何人かけが人が居たが――まあ、大したことはないさ」
 アスナはそう言いながらバルカが咥えた煙草へ火を差し出した。火がつき、わずかに煙が上がってくるとバルカはそこから顔を離し、息を吐いて煙を舞わせた。同じ煙草の、同じ香り。この海軍のテントの中では顔を合わせていることがおおよそおかしいことは二人共わかっている。だが、恐らく、これを逃せばもう二度と会えないかもしれないのはお互いがよく分かっていた。
「七年、か」
 アスナが煙草を指で挟んで、流れるように灰皿へ灰を落とす。とんとん、と僅かに音を立てたそれには視線を向けずバルカはアスナを見た。決して、短くはない。恐らく、バルカとアスナが出会ってからその三分の一の時間にも値するだろう。

 あの日、アスナは海軍への裏切りを果たし、バルカは銃口をアスナへ向けた。

「……お前の心労察して余りあると、言ったな」

 アスナの金と赤の瞳がゆったりと細められた。
「――迷惑をかけた自覚くらいは俺にもあるんだよ」
 バルカが目を見開いて、そして笑うと仮面を外した。――別にアスナの前でつけている理由はなかった。
「……コーヒー、飲む?」
「うん」



 * * *



 たっぷりと入ったコーヒーに砂糖は一個、ミルクもあれば嬉しい。
 アスナの大好きなコーヒーを淹れてバルカは差し出した。
「ありがとう」
「好みは変わってない?」
「もちろん」
 簡単に変わるものか、とアスナは言いながら少し甘みのあるコーヒーをそっと口元へ運んだ。決してブラックで飲めないわけではないらしいが、胃を痛めるからとさも医者らしい理由をつける。確かに、コーヒーよりも苦いアルコールも飲めることを考えればきっと平気なのだろう。外側は真っ赤で、内側は白いそのカップにミルクの入ったコーヒーは僅かに波をうって、静寂を確かに作り出していた。
「よくいうじゃない」
「ん?」
「昔付き合ってた二人が再会してコーヒーを淹れたら、砂糖の数とか、好みとかが変わってた、ってさ」
 バルカがそんなことを言うものだから、アスナはつい笑ってしまった。
「ああ、ああ、たしかに言うな」
 愉快だ。
「だけど、俺がそう簡単に好みを変えると思うのか?」
 ――男の影響でも受けると?
 挑発的にバルカを見つめてアスナは言った。男との付き合いなど、両手でもついにあまるというか、年間でそれくらいは相手にしてきただろうとアスナは思う。昔は誰でも良かった。後腐れなく、ただ、自分の眠れない夜を埋めてくれるなら誰でも良かった。
「アスナらしいね」
「だろ?」
 他愛のない話に花が咲く。
 おそらくは無意識のうちにお互いの現在の環境についての話を避けていた気がするが、バルカはアスナに当たり障りなくリーヴの近況を教えてくれたし、アスナはバルカにエルのことを教えた。それはお互いが気になってならなかったことだろう。
 アスナにとっては文字通り血を分け与えた親愛なる眷属。
 バルカからしてアスナが海軍を抜けてしまうきっかけを作った男によく似ているエル。
 気にかかっていても聞けないままここまで来てしまったが――いい機会だ、とアスナがエルのことを話しだしたのをきっかけにバルカもリーヴのことを教えてくれた。等価交換であるかのように。
「そうか、まだ、ガープじいさんは元気なのかー」
「今は相談役に近い感じだけどね。でも、お元気そうだった」
「まあ、センゴクじいちゃんも元気だろうなぁ」
「大目付になってから、随分と穏やかになられたと思うよ」
「元々優しい人だったからなぁ。海軍の立場につくっていうのはあの人にとっては重大だったんだろう」
 その話から発展したようにお互いの知る人物に話が及んだのは必然だっただろう。
「――父さんは?」
 アスナは少し控えめにそれを聞いたのは、きっと自分にそれを知る権利は無いと思っているからなのかもしれない。自分で冷静に自己分析して、両手が手持ち無沙汰だと訴えて、もうぬるくなりつつあったコーヒーのカップを包み込んで、少しだけ力を入れて握った。
「元帥になったのは?」
「さすがにそれくらいは、な。まぁた一人で張り詰めてるんだろう?」
「……うん」
 あの人らしいな―、とアスナは笑いながらも、その原因の一端である自分がそれを言う権利はない、と目を閉じた。バルカに引き金を引かせたことももちろん責任はあるが、それ以上にあの人にはもっと重たいものを背負わせてしまったという自覚がある。――恨んで、憎んで、いっそ全てを考えなければ楽なくらいには、アスナが赤犬へ抱く感情が単純ではないことをバルカは表情で悟った。



「もう、おれの知らないアスナをいっぱい知ってる人たちがいるんだね」
 思い出話もそろそろ尽きてくるだろうか、という頃でバルカがそう言って笑った。その頃にはすでに日はとっぷりと落ちていて、飲み物がコーヒーからお酒へと変わり、コーヒーのときにつまんでいたクッキーは酒のツマミたちへと変わっていた。アスナはふと酒の入っていたグラスから顔を上げてバルカを見る。相変わらず酒の強い男だ。酔いの一つも感じさせない男の飄々とした顔にふっとわらった。
「それは、おまえも同じだよ、バルカ」
 グラスをテーブルへ置いて、アスナはそっと指の先でバルカの頬へ触れた。
「おれは何も変わってないよ」
「そうか?――隠し事、ばっかりだろう?」
 アスナはふっと笑ってバルカから手を離そうとして、そして、その手をバルカが掴んだ。
 その瞳がじっとアスナを見つめて、アスナは柔らかく微笑んだ。まるで、親を見失った子供のような瞳にアスナはふと呆れと、しかしながら親愛の瞳でバルカを見下ろしてその頭をそっと抱いた。結んでいた髪の毛を解いて、そっと撫でた。
「……同情?」
「さぁ。お前がそう思うのならそうかもしれんぞ?」
 どうせ、人のやったことをどう見るかなど、受け手の問題だ。

 アスナは軽く突き放すようにそう言いながら、バルカをベッドへ押し込んだ。
「ちょ、アスナ」
「……疲れてんだよ、お前」
 頭を抱いて足でバルカの身体を抑えるとアスナは規則正しくその身体を手でたたきながら、頭をなで、小さく歌った。
「おれ……子供じゃないよ?」
「ふふ、子供じゃなくてもこれは有効だぞ、バルカ」
 アスナは悪戯げに笑いながらそれを続ける。ああ、なんて気恥ずかしい、と思いながらもバルカはそっと目を閉じた。――願わくば、彼女が起きた時に居なくなってないように。



 * * *



 朝、バルカの部下であるインカがバルカの様子を見に来るのは当然のことで。
 テントの中からは返事がなく、昨日はテントに戻ってからは一度も外に出てないと他の人たちから聞いたばかりでもしかしてまだ寝ているのかもしれない。と、今日中には中将つるや、大目付センゴクがやってきているというのだから準備させなくては、と部下としての規範のようなことを考えながら、さも当然であるかのようにテントをくぐって、そして、大声を上げそうになった。
「なっ、なっなっ――っ!!」
 大声をあげようとして声が出なくなったのは自分の前に揺らめいた白い竜の尾。口をふさがれてインカはバタバタと暴れるが目の前で妖艶に微笑んだ赤い髪の裸の女は黄金と真紅の瞳でインカを捉えた。そして、その白く細い指を一本だけ、ぷっくりとした唇に当ててしー、と言う。まだ寝かせてやれ、そう言いたげな顔で、しかし、インカには見るに堪えない服装で。顔を赤くして、慌ててテントから飛び出した。
 ――まさか、まさか。
「……アスナ、インカに意地悪したね」
 テントから慌てて飛び出していった可愛らしい青年――といっても年齢はリーヴとさして変わらないだろう――にくすくすと笑っているとベッドの中で眠っていたはずのバルカが困ったように眉を下げながら言った。おはよう、とアスナはバルカの額にキスをして――それは彼女の毎度の挨拶だ――散らばっていた服を手にとってベッドから起き上がった。
「あの手の子は可愛らしいだろ?」
「――最近は年下好みなの?」
 その言葉にアスナが軽く顔をしかめたのを見て、ごめんね、とバルカは笑った。そろそろ起きないと、インカが起こしに来た意味はバルカもわかっている。
「……アスナも、そろそろ戻ったほうがいいのかもね」
「ああ、おつるさんと、センゴクさんがくるのなら動くだろうしなぁ」
 これ以上ここにいることができないのはアスナもバルカもわかっている。だからこそ、名残惜しいように感じてならなかった。
「バルカ中将、言っていることとやってることが釣り合ってないなぁ」
 アスナがくすくすと笑いながらヒールの靴を履く。その腰に巻き付くバルカの腕をそっと撫でてアスナはすくと立ち上がった。あっさりと振り払われた腕にバルカは少しむくれたように顔を上げた。アスナから正義のコートを投げられて、やれやれ、といった様子でシャツへ袖を通した。
「早く準備しないと、あのインカとかいう部下、胃を痛めるぞ?」
「そうなったら、リーヴに薬を処方してもらわなくちゃね」
 冗談めいて笑って、しかし、これが最後だとわかっている。
 アスナは何も言わず、煙管に火をつけた。

「……見送りくらい、させてくれる?」

 バルカのその申し出を断らなかったのはきっと、最愛の友人との最後の時間だと知っていたからかもしれない。


 アスナは気配を消してバルカの隣を歩く。
 バルカは中将として海軍たちの間を歩く。
 もしかしたら、これは、あの日が訪れなかった先の未来で何度も見れた光景かもしれない。
 お互いに中将として歩いて、同僚として、良き友人として――そして、もしかしたら。
 たらればを語ったところで何も戻らないことなど、二人が一番良くわかっていたし、そのたらればに縋るほど二人はもう子供でもなかった。

「……レビアたちの声だ」

 アスナがそっと呟いたときには海兵たちの姿は見えなかった。そう、とバルカが表情もなく呟いたのは、その下面が彼の表情を隠していたからだろう。横一文字に結ばれた唇だけではバルカの表情を探り当てるには厳しいがその環状の動きだけならアスナには聞こえていた。
「ありがとう、バルカ」
「……どうして?」
「俺はお前に生かされたよ。――お前が捕まえてくれたから、俺はこうして海にいる」
 なんだ、それ、とバルカが悲しそうに笑った。
「……ごめんね、余計なもの、背負わせて」
 それに釣られるように悲しそうにアスナが笑った。友人を捕らえて昇格するなんて、海軍は本当に酷いことをする。それが上層のたった一部のことであったとしても、それに逆らえば海軍をやめなければならない状況になって、バルカが流れるようにG-5へ向かったのがわかる。あそこは無法地帯だが、そういう柵からは逃げられただろう。
「いいよ、君だからね」
 バルカは笑ってくれた。
 アスナにはそれだけで充分だった。

 そして、聞こえてきた無数の足音。声。
 アスナは視線をそちらに向けて、彼らがアスナに気付いた。口々にアスナの名前を呼び、最愛の弟子が何処行ってたんですかーーと叫ぶ声が聞こえて、アスナはふぅと息をついた。煙管の煙が棚引いて、これが本当に最後だ。
 じゃあ、な、と言おうとして振り返って、
 腕を惹かれてあっという間に唇が重なった。
 バルカの仮面の狐が近くに見えてぼやけるではないか。思考が追いついて行かずされるがままになっていると、ゆっくりと離されて、そしてバルカがしてやったり、と言わんばかりの少年の顔でアスナを見下ろしていた。
「じゃあねアスナ。次こそ捕まえさせないでよ」
 憎たらしいほどいい笑顔じゃないか、お前。

「なっ――」

 後ろから刀を引く音とゾロの怒気の孕んだ声音にアスナはやれやれと肩をすくめた。
「あいつをいじめるの程々にしてやってくれ」
「インカをいじめたお返し」
 意地悪く笑うバルカにアスナは苦笑して、ほら行くぞ、とゾロの手を引いた。
「おい!」
「いいから、バルカはここまで俺を逃してくれたんだよ」
 怒りが収まらないのか、虫の居所が悪いのか――それとも単に妬いただけなのか、それは敢えて考えないことにしてアスナは走り出した。振り返らない、と決めたものの、少しばかり名残惜しい。思い出を語れる相手がもう数人しか居ないのだ。ちらり、と視線だけ振り替えてみればバルカがひらひらと手を降っているのが見えた。いつの間にか頭の上に乗っていたライヤがバルカに向かって手を降っているではないか。
「……アステール」
「しゅとらーりゅのかわり!」
「……ありがとう」
 やれやれ、とアスナは呟きながらゾロの手を離す。少し納得がいかなさそうだが今は逃げるべきだと判断した様子だった。

 アスナは走りながら煙を吐き出した。


(さよなら、大好きだった人)
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