金糸雀の囀りが聞こえる鳥籠
明確に不気味な場所だな、とエルは空を見上げて霧ばかりの視界に目を細めた。これじゃあ、風すら感じられないじゃないかと思ったところで鼻を突いた異臭に思い切り顔をしかめた。何の臭いなのか、エルには判別がつかずつい顔を師父と呼び慕う――アスナへと向けて彼女の顔色が思い切り悪いことに気付いた。「大丈夫ですか? 師父――顔色、悪いですよ」
お気に入りのビーチチェアにすでにぐったりと寄りかかるようにして座っているアスナの顔色は恐らくエルがこれまでに見てきた中で一番悪い。船酔いをすることもなければ、体調不良もこれまで見たことはない。それにお酒を常に飲んでいても酔った姿、ましてや二日酔いなど見たことなどなかった。その顔色の悪さは何なのか、とエルがアスナに駆け寄って背中を撫でると、アスナは少しばかり力なく笑ってエルを見上げた。
「……大丈夫だ」
声に力がない。
「……俺は、ついていかないことにする」
「え?」
「……エル、いいことを教えておいてやる」
「……?」
「この島に生きている人間は五人しかいない」
(なぁんて言ってたけど、多分、怖いだけなんだよな)
エルは探検組――レビア・ラミー・リッタ・ジニアの組に加わりながら、その大地を踏みしめた。気配をいくら探ってもなんだか奇妙な気配に邪魔をされてうまくいかない。とりあえずは先に進んでみるしか無いのだろう、悠々と今にも歌いだしそうなレビアの背中が少し遠くに進んでいくのを見ながら、エルは走り出した。
* * *
「♪ Twinkle,twinkle,little star ♪
♪ How I wonder what you are! ♪」
まるで陽気なそんな歌声が聞こえてきて少女は思い切り顔をしかめた。その端正な顔立ちには似合わないその顔立ちに歌っていた男はやれやれと肩をすくめて歌を一度止めて、少女へ視線を送った。――鳥籠に入れられた彼女へ同情も憐れみもないような表情を浮かべた彼はまるで壊れたピエロのようだった。身にまとっているその黒い服はカソックであるにもかかわらず彼から醸し出されるその空気は神を信じるような信心深さなど感じない。むしろ、それを嘲笑っているような、意にも介していないような――
「嫌いだった? この歌」
窓の奥の僅かな霧が晴れて、僅かな月明かりが部屋に差し込んだところで真っ暗な世界が僅かに変わる。光に照らされた男の髪は赤く、金色の両目が鋭い瞳孔をしている。――まるで人間ではないみたい。と少女が思ったところで男はケタケタと笑った。
「まあ、人間ではないよなぁ」
そう笑った男は手を眺める。
「ああ、そういえばね」
「この曲はおれの大切な人が好きだった歌なんだ」
「素敵でしょ」
「きっと、君も好きだ」
男は少女のことなど視界に入っていないように笑った。口が避けたように、その白を通り越して蒼いような肌でにたり、と楽しげに。不気味な彼に少女は鳥籠の奥へ避難するように後ずさりした。
「ねぇ――フェリシア」
* * *
気付いたら、エルは一人だった。赤い髪、金の両目を瞬かせながらあれ、と後ろを振り返ってみるが、誰もいない。前を歩いていたはずのレビアもいつの間にか見えなくなっている。
「……レビアさーん!」
声を張り上げても、ただ虚空に響くだけ。
「リッタさん!!ラミー!? ジニアさん!! どこですかー!?」
誰もいない。ただ、屋敷の中、虚空に響いて反響し、エルの元へ帰ってくるだけの音達。まずい、と気づいたがもうどうしようもない。彼女たちの気配を完全に見失ってしまった。ごくり、とエルは息を呑んで、護身用にとアスナから常に持たされている節棍へ手を伸ばす。ふぅ、とゆっくり息を吐いて落ち着かせると、前へ視線を向けた。とりあえず、進む以外には道はなさそうだ。
「……もしかして、おれが迷子になったのかなぁ」
シャレにならないけど、と言いながらこつこつ、と重たいブーツが音を立てていく廊下を歩く。
誰も居ないはずの廊下。
だけど、エルは確かに視線を感じて立ち止まった。
ねっとりと、じっとりと自分へ突き刺さる無数の視線。――"生きている者"の気配ならば竜であるエルが捉えられないはずがなかった。でも、自分へ刺さる視線は本物だ。肌を伝う汗、心臓が早く脈を打つ。気配なきものから確かに視線を向けられていて平常心でいられるほうがおかしいだろう、というよりも、もしかしたら、あの船長ならば楽しんでいるのかもしれないが、あいにくとエルにはそういった享楽趣味な精神は持ち合わせておらず、ただどこにでもいるような青少年なのだ。
はぁ、と息を吐いて、そして意を決して振り返ってみる。――何もない。
「……だよなぁ」
あったら困る。
誰か居たら困る。――生きている者の気配を感じていないエルの後ろに誰かいるとしたらそれは――考えたくもない思考を精一杯振り切って、笑顔で振り返るとそこには――いた。
真っ青な顔。あちことツギハギだらけの身体。
服はボロボロ、左の眼球は飛び出て、包帯があちらあちらにつけられ、身体の所々が腐り落ちて異臭を放つ。エルはそれを認識する途端に異臭を肺いっぱいに吸い込んでしまい、人間の感覚気管の数十倍は鋭い感覚器官が悲鳴を上げて、これまで感じていた異臭が何者だったのか察すると共に吐き気、めまい、頭痛を一気に催して口元、鼻まで覆うように手を当てて、そしてーー
「ぞ、ゾンビーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
慌てて引き抜いた節棍を一気に組み立ててゾンビの頭部を思いっきり殴った。ごきん、とさながら生きている人間から聞こえたら即死だろうという音と共に、ゾンビの頭部が首からぶちり、と肉が嫌な音を立ててちぎれ落ち、ごん、ごん、と数度音を鳴らして廊下へと転がっていく。
エルはそれをしばし眺めた。医者の端くれだ、本当に生きている人間にこんなことをやったら医者としてどうなのだろう、と自責の念に駆られるところだが、とりあえず、相手から心音は最初から感じなかったし、身体からは腐っている臭いを感じてやまないからおそらくはセーフだ、セーフであって欲しい。じゃなかったら、困る、とどっどっどっ、と早鐘ばかり鳴らす心臓と釣り合うように肩で呼吸をしながらしばらく動けなくなっているそれを眺めていると、ゾンビの頭部が「あ」と言った。
「ったくよーーーなんてことすんだよーーー」
「……あ、あ、わぁあああああああ!!!!!!」
とりあえず、叫んでおいた。その後、ゾンビの頭部を節棍で何度も殴打しつつ、「いた」とか「おい」とか「やめ」とかそういう言葉はすべて無視して、後ろから迫ってきた頭のない胴体についても思いっきり蹴り飛ばして――エルは人間と竜のハーフではあるが、自分の身の危険性を感じると勝手に身体が竜化し、足の形が思いっきり変わっていたのが彼自身が気付いておらず――ゾンビの身体は屋敷の壁をぶち破り、しばし飛ばされていき、エルがその存在が確認できなくなると叫んだまま走り出した。
(ぞ、ぞぞぞぞぞ、ゾンビだっ!!!ゾンビだった!!!)
ここで漸く。
自分の師父がどうしてあれほど気持ち悪そうな顔をしていたのかわかった。自分よりもずっと感受性の鋭いあの人はゾンビたちの死臭も、生きていないものが動いているという矛盾そのものすら感じ取っていたのかもしれない。あの気持ち悪そうな顔は生きていないのに動いている――精神活動すらしているように思われるゾンビたちの意思なき思考を感じ取って居たのだ。世界の対する矛盾を感じて、自然の代弁者たる竜の中でも血統の高いあの人は気持ち悪くてしかたなかったのだ。
しばらく走って――漸くエルは落ち着いたのは、歌声が僅かに聞こえてきたからだった。
「……きらきら星?」
聞こえてきた歌は夜、眠れない時に師父――アスナの部屋を訪れてそのベッドを借りる時によく聞く歌だった。子守唄ではないのだけれど、子守唄のようにアスナはそれを歌ってエルの頭をなで、髪をなで、布団の上から規則正しくエルの身体を叩く。美しい歌声にエルは釣られるように、何かに誘われるように廊下を曲がろうとして、そしてーードン、と何かにぶつかった。
美しい、アカシアを散らせたような金の髪にエルは目を見開いた。
(――母さん……?)
* * *
目の前にいた赤い髪の青年にフェリシアは目を見開いて、そしてしまった――と思った。
まさか、先程出ていったばかりの男が戻ってきているなんて誰が思うだろうか、と思うくらい目の前の男にそっくりだったエルにフェリシアはとっさに手に持ってきたほうきで殴りかかろうとして、え、と驚いた顔のその人に向かって振りかぶった。
「ま、待って!!待って!」
――声が違った。
確かに似たような声をしているけれど、なんだか違う。――少しばかり若く聞こえる声。
「き、君は……?」
両目とも金で、赤い髪をしているけれど、服装が違う。背丈も少し違うし、何より、このヒトからは生きている気配がして、フェリシアは振りかぶったほうきを止めきれず、エルへ向かってまっすぐ下ろそうとして、エルにあっさりと止められてしまった。
「……貴方、誰?」
「……あ、おれはここに迷い込んじゃって」
へたり、とフェリシアは息をついた。なんだ、あの人じゃなかった。
「君は? ここの人?」
青年――年は幾分も変わらないだろう――は優しくフェリシアに向かって手を差し出してきた。裸足で、鎖についている足を見て、彼の顔が思い切りしかめられたのがフェリシアの目でもわかった。
「……君、人間じゃない?」
首を傾げながら彼は聞いてきた。その瞬間フェリシアの肩が震えた。
「…………この気配、もしかして、エルフ?」
「……」
小さく頷いた。どうしてわかったんだろう。
「あ、おれ、竜なんだ」
「……竜?」
「まあ、厳密には竜と人間のハーフ。……あれ?普通エルフって羽があるって師父が――」
言ったところで、竜の青年は思い切り顔をしかめて、そして、フェリシアの頭をなでた。昔からここにいるフェリシアではあるが竜の伝説くらいは知っている。竜は人の心を、過去をみることができるものもいる、と。彼ももしかしたらそうなのかもしれない。今にも泣きそうな顔をして、苦しそうな顔をして、青年はフェリシアを見つめた。
「……大丈夫、なわけないよな」
もぎ取られた羽。
もう空をとぶことのできないフェリシア。
彼は憐れむでもなく、同情するでもなく、まるで自分のことであるかのような顔をして、そしてその大きな手でフェリシアの頬をなでた。
「どうして、君はここにいたんだ?」
「……ど、れいになって……売られて」
「……!」
彼はぐっ、と唇を噛み締めた。それは何か過去を思い出しているような、苦しそうな顔をしていた。
「……――おれは、エル」
「……エル、くん」
「うん。フェリシアは、ここから出たい?」
エルの金色の瞳がフェリシアをじっと見つめた。ゆっくりと立ち上がってエルはフェリシアに向かって手を差し伸べる。穏やかに微笑みを讃えて。
「――おれが連れて行くから、一緒に外に行こう」
目を見開いた。
ここに来た人間はいつも、自分のことで精一杯で、ゾンビから逃げ惑い、そしてどうしようもなくなって皆ゾンビになったり影を抜かれたり、日光にあたって死んでしまったりするのだ。だけど、彼はフェリシアに向かって手を差し伸べてきた。それが善意なのか、それとも、何かフェリシアを利用しようとしているのか、フェリシアにはわからない。――でも、彼の笑みはそういう笑みじゃないことくらいはわかった。
「――たい」
「外に、出たいっ! もう一度、――もう一度だけでいいの! あの、きれいな、真っ青な空を……!」
「一度でいいの?」
ここから出たら何度でも見れるよ。
エルはそう言ってフェリシアの手を掴んで立ち上がらせず、そのままフェリシアを抱き上げた。――彼女の素足は何度も何度も逃げようとしてボロボロで、何よりも鎖があまりにも痛々しくてエルには見るに耐えなかったのだ。
「おれの師匠は凄腕の医者だから」
こんな傷すぐになくしてくれるよ。
努めて安心できるように語りかけて、エルは笑った。さぁ、行こうか、とエルが踵を返してあるき出そうとして、そして、エルはとんでもない強大なものの気配を感じて立ち止まった。
「………エルくん?」
「……いや、なんでも、ない」
――気のせいだ。
きっと、気のせいだったんだ、とエルは走り出した。
* * *
お気に入りのビーチチェアからアスナは飛び上がるようにして起きた。近くに居たオペラが不安そうにこちらを覗き込んでいるのが見えたがそれに構っている余裕はなかった。
「……ラーズ…………?」
遠くから感じた強大な気配。
生きていないはずの気配。
愛していた気配。
守りたかった気配。
共に有りたかった気配。
嘘だ。
だって、彼は。
エルはとっさに回避して、フェリシアを守るように包み込んだつもりだったがその手からフェリシアがこぼれ落ちていくのが見えた。フェリシアをまるでもののように取り扱うカソックの男の顔がわずか、月明かりに照らされて見えた時、目を見開いて驚いたせいで受け身を取り損ねて無様にも背中から廊下へと堕ちた。
「フェリシアっ!!!」
「まったく、困るな、フェリシア。勝手に居なくなっちゃ困るよ」
エルにそっくりな。
赤い髪がなびき、金色の瞳が爛々と輝いている。だが、そこに生者の光は全くといっていいほど感じられず、ただおぞましいものがそこにいる。エルはごくり、と息を呑んだ。命の危機とはまさしくコレのこと、身体は意思よりも早くエルの身を守ろうと竜化を始めた。こめかみ部分から竜の角が出てきて、全身を守るように鱗が出る。その姿を見て、男は何か愉快そうに笑う。
「あれ、お前、おれにそっくりだナ?」
――壊れている。
明確にこの男は壊れている、とエルが認識するよりもずっと早く、男の手に持っていた紅い棒が思いっきり振り払われエルは脇腹に強い衝撃とともに吹き飛ばされ屋敷の外、森の中へと放り出されてしまった。いくつもの木を貫通してなおも無事であったのはひとえに竜の力を引き出し体を守ってくれたにほかならない。――今日、初めて、この体に産み落としてくれたことを母に感謝した。
「……はっ、かはっ……はぁ……はっ……」
あまりの痛みに呼吸もままならない。エルくん!と叫ぶフェリシアの声があまりにも遠く聞こえて、エルはうずくまり、痛みから逃げようとした。だが、それすらままならなくて、うまくいかない。助けて、と叫ぶことも、できないのはきっと、フェリシアの声があまりにも泣きそうだったからかもしれない。
「……はっ、はぁ……」
痛い。
痛い。
痛い。
はっ、と呼吸するのすらやっとで、ああ、ダメだ、二撃目はきっと躱せない。
と思ったところで、エルの感覚器官が捉えたのは紅い髪――。
「ラーズ……」
アスナの声だった。
知り合いなのか、とか、何でそんな顔をしてるのか、と聞く以前の問題だった。あのアスナの心が折れているのがエルにはすぐにわかった。
「――アスナ」
男が目を見開いた。
そして、しばらくして、男はあまりにも楽しそうに笑い出すと、フェシリアを抱えなおして、そして高く飛び退いた。
「今は引こうか。だって、今はマスターの命令を果たさなくては。――君は後で迎えに行くよ」
「まっ――」
アスナが手を伸ばそうとして、男は堪らなくアスナに向かって愛おしそうな顔をしたが、振り下ろしたその棒の先がエルであることをアスナは知ると慌てて男から手を引き、そして、エルを守ろうと飛び退いた。片手でエルを抱き、戦線から離れるようにして強く地面を蹴った。
「師父……ま、って……フェリシア、が」
「……今は、待て」
後で必ず――というアスナの声が震えて、その手は震え、顔はたまらず泣きそうな顔をしていた。視線を先へと向ければ同じように抱かれたフェリシアがこちらを見て必死に手を伸ばしているではないか。
――行かなくちゃ。
「連れていく、って――言ったのに」
それを果たす力すら、今のエルにはなかった。
(……くそっ)
おれは、あの日から、なにも変わってすらいないじゃないか。
BACK NEXT