授業でわからないところがあるから教えてほしいと頼めば、大抵の教師はにっこりと微笑みながら生徒の誠意に応えてくれる。そして教師は誠意を持って生徒に接し、生徒の理解が深まる度に互いの話をする様になり、信頼関係を深め合う。
教師とはそういうもので、自分を慕う立場の弱い者に対しての警戒心など皆無に等しく、言い換えるならば手玉にも取りやすい。と、思っていたのに。
「……あら、あなたどっから入ってきたの?」
秘密の部屋と呼ばれるこの場所で、彼女は優雅に紅茶を嗜んでいた。薄暗く湿ったこの部屋の石柱前の広いスペースに、ローズウッド材のバルーンバッグチェアと猫脚の丸テーブルを置き、脚を組んで読書をするこの女。
ネル教授は古代ルーン文字学の第一人者であり引き籠りの変わり者。そして確か、半人魚だ。
「……何故あなたがここに居るんですか、ネル先生」
あれだけ苦労して探し当てた秘密の部屋で、優雅に紅茶を啜る半人魚の教授。今回の騒動によって犠牲者が出たにも関わらず、哀れな少女の不運を嘆くことすらしないのだ。
異様な光景を前に、俺は持っていた杖を後ろ手に構えた。そして俺はアイツを見た。目を細め、いつでも狙えるようにと。不都合があれば忘却呪文を掛けてしまえばいい。秘密の部屋の怪物に襲われたと言えば、誰もが彼女の不運を嘆くだろう。
「さぁ、なんでだと思う?」
目の前の女は読んでた本を静かに閉じると、丸テーブル上に優しく置いた。そして脚を組みかえ、小さく指揮をする様に指を振る。無言呪文に耐えるために心を閉ざせば、凛とした声がこの地下空間に響き渡った。
「ダージリンはお好き?」
「……何を言っているんだ?」
思わず、声に出してしまった。
ふよふよとどこからか飛んできたアンティーク調のティーポットと、この女の物とセットであろうティーカップ。ティーカップは真っ直ぐと俺のところへ来たかと思うと、正面でぺこりとお辞儀をして、杖を持ったままの掌に納まった。流石と言うべきか、カップは温められている。
「ほら、カップ出してあげないと蒸らしすぎちゃうわよ?」
半人魚がニヤリと笑いながら再度指を振った。すると、俺の周りに浮かんでいたティーポットが蓋を取り挨拶をした。このティーポットは馬鹿なのだろうか。そんなことをしたらせっかく蒸らした内部に冷気が入るだろう。
俺が再び目を細めると、椅子が一脚現れた。丸テーブルを挟むようにして、正面にふんわりと着地する。どうやら座れと云うことらしい。
「……先生」
「お砂糖欲しかったら浮いてる子に言ってね。面食いだから何もしなくても寄ってくると思うけど」
「ネル先生、僕をからかっているんですか?」
「ミルクはあっちの……あぁ、あの子恥ずかしがり屋だから根気よく、優しく話しかけてあげて。意地悪するとすぐ隠れちゃうから」
自分の仕掛けた悪戯に引っ掛かる人間を楽しんで眺めているかのような、そんな表情だった。鬱陶しいくらいふよふよと飛び回る小瓶は、俺の視線に気付くとすぐさま飛びついてきた。蓋を開け、歯車の装飾が施されたトングと共にお辞儀をする。ミルクが入っているであろう陶器のピッチャーは女の後ろで遠慮がちにこちらの様子を窺っていた。
「リドルって甘いの好き?」
「嫌いではないですけど……」
「ストップって言わないとその子入れ続けるよ。面食いだから」
ニヒルな表情で嗤う女は、教師というよりも魔物といった印象を受けた。人魚のくせに人間の脚を持ち、純血の魔法使いの前で教鞭を振るい、それでいて優雅に水中を泳ぐ。スリザリン寮の地下牢から何度も見た、水中を我が城のように自由自在に泳ぎ回る姿は不覚にも美しかった。
「……何故ここにいるのですか」
「ここ、湖の真下でしょう? 貴方スリザリン生のくせに湖に私がいるところ見たことないの?」
生徒からの問い掛けならば教師としての責任を持つべきだ。曖昧な返答に嫌気が差し、テーブルに隠れた腕を強く握った。言葉を濁したところで、この部屋に住まうバジリスクからは逃げられるはずもないのに。それでも目の前の半人魚は言葉を続けた。
「サラザールが残した秘密の部屋でお茶会なんて、すごくロマンチックだと思わない?」
人魚はすべてを手に入れたかのように微笑んだ。地上を歩き回るための脚も、水中を自由に泳ぐための鰭も、誰しもを平伏せさせる強大な魔力も、船乗りたちを惑わせる美しい歌声も。
彼女が望むのならばこの世界はすべて彼女のモノになるだろう。秘密の部屋に響き渡る鼻歌交じりの言葉は、俺の溜め息を誘い出す。この場所の秘密を知っているのならすぐにでも消してしまわなければならないのに。半端者の、半人魚の分際で。
「早くしないと冷めるわよ。大丈夫、その子毒なんて入れるよりも美味しい紅茶を振る舞う方が好きだから」
「……これから僕を、校長の前に突き付けるおつもりですか?」
「そんなことするわけないじゃない。お茶会仲間が減るのは人類の発展を妨げるわ」
勿体ない、と嬉しそうに呟く半人魚が指を振ると、俯きがちだったミルクの入ったピッチャーがお辞儀をした。俺の手中に収められたカップに遠慮がちにミルクを注ぐピッチャーを、化け物は無邪気な表情で見つめ、そしてにやりと笑う。
「私、退屈が嫌いなの。あなたは面白そうだから、少しだけ退屈凌ぎでもいかがかしら?」
彼女の周りを漂うランタンや蝋燭が警戒の色を示す中、半人魚はカップに口付けた。
この部屋の秘密を知っていても尚、優雅に紅茶を飲む姿は到底真っ当な神経の持ち主ではない。狂っているのだ。薄暗い水中世界で、人を惑わすために生まれてきた人魚は今何を思うのか。
飲んだ紅茶は甘かった。退屈凌ぎなら、俺もそうだ。