呼び名




これは凪と深琴が月夜の再会を果たす前のお話。

深琴がいるだだっ広い部屋には、玉壺が置いて行った壺が一つ。壺に向き合う様に正座をした深琴の前には、童磨が持っているのと同じ扇子が一つ。

空気は張り詰めて、しんと静まり返っていた。

コポッっと小さな音がすると、殆ど間をおかず壺からは大小様々な魚が湧き上がる。
金魚は毒矢を吐き、小魚は大群になって向かってくる。

深琴は扇子を手に飛び上がると、すぐに応戦を始める。開いた扇子で毒矢を防ぎ、小魚は鋭利な先端で切り刻む。しかし、小魚を切れば切るほどその返り血は深琴の肌を焼いた。

治るとしても、まだ鬼として未熟な深琴には痛覚が残っており、痛みに歯を食いしばる。

そうそう目の前の小魚ばかりに気を取られている訳にもいかない。後方からは壺を頭部に乗せ手足の生えた鯉がぬらりと迫る。

『ーーヤバいッ』

気付いた時にはもう既に遅く、なんの配慮もなく体を鷲掴みにされると、身動きは取れずに小魚が深琴の体を覆った。
全身を痛みが駆け抜けて、悲鳴が部屋に響き渡ると、ボロ雑巾のようになった深琴が鯉の手からボト…と落下した。

動かなくなった塊に魚達は興味をなくして壺の中へと戻っていく。

再びの静寂。
そこにはなんの音もない。



『少しは応戦できる様になってきたかも知れないけど、
 まだまだ弱いねぇ』

部屋の中に転がる塊に童磨は近づくと、座り込んで回復を待つ。
小さな呼吸音が戻ってくると次第に塊は人の形をとり、爛れた肌は潤った肌へと戻っていく。
閉じていた目が開き、その瞳に童磨の姿を写した。

その姿は正に人形。

童磨はその人形の目に光が戻ってくる瞬間を気に入っていた。

光が戻って童磨の姿を認識すると、深琴は柔らかく微笑むのだ。
『…どま、、おはよ』
『おはよう。今日はどうだった?』
『見てたくせに、、どま、意地悪。』

ごめんごめんと頭を撫でるとむくれた顔が綻ぶ。でも反対に童磨の顔が少し不満気であった。
『どま?』
『深琴?俺は"どうま"』
『どま?』
『うーん。…"どま"はなんだか嫌かなぁ。』

顎に手を当てて考える童磨の頭の中では、深琴を拾った日のことが蘇る。涙をボロボロ流しながら、声を上げている。

   《お兄ちゃん》と呼びながら。

ニイッ。

『深琴。俺の事は"お兄ちゃん"って読んでもらおうか
 言い慣れてた呼び方なら、ちゃんと言えるだろう?』

目をまんまるに童磨の顔を見ていた深琴は、童磨から視線を外すと、小さく“お兄ちゃん“を繰り返す。難しそうな顔をしていたが、言葉を繰り返す度にその目元は柔らかく変化して、童磨の元に帰って来た。

『…お兄ちゃん』

少し恥ずかしそうに、嬉しそうに、頬を染めて。

伸びた童磨の腕は深琴を優しく抱きしめた。
まるで暗示でもかけられた様に、ら深琴に執着心が湧いていく。
これではどちらが囚われたものなのか分からなくなってくる。それでも頬が緩むのを自覚する。


ーーもう、俺のモノだ。

と。


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