海堂が舟橋を好きになるまで

舟橋と名乗った彼女は、突然目の前に現れて「好き」と告げた。俺は彼女のことを知ってはいたが、それはクラスメイトだからというだけで、彼女から好意を持たれるほど接点があったわけではない。昼休みの校舎裏、開いた窓から生徒の声が聞こえるその場所で、俺は彼女に初めて否定の意思を返した。
彼女に全面的な非があるわけでは無い。
俺の顔は怖いらしい。中学に入学したての時は、誰もが俺を怖がって話しかけようとしなかった。ただ桃城だけが、何の偏見もなく俺に声を掛けてきた。
そんなことがあって、まだ一年しか経っていない。いきなり告白なんぞされてもおいそれと受け入れるわけにはいかなかった。


朝のロードワークから帰り、シャワーで軽く汗を流す。リビングに向かえば、優しい微笑みを浮かべた母が大きな弁当を手渡してくれた。今日もいつもと変わらない時間、いつもと変わらないルーティーン。俺は自転車に跨ると、今日の一限が何だったか、などと考えながらペダルを漕いだ。
この時期は雨が多くて湿っぽい。今日の天気予報では曇りだと言っていたが、昨日の雨がまだアスファルトの上で匂っていた。途中で溜まった水溜りの上を通り過ぎ、ぬかるみを乗り越え学校の駐輪場に到着した俺は、見るに耐えない姿のあいつを見つける。
「何があったんだ」
「横を走っていった車がね、思いっきり水溜りを轢いたの」
それだけで何が起こったのかを察した。髪の先と眼鏡の縁から水滴を垂らす彼女は、身震いの後に大きくなしゃみを放った。
「うあ〜、寒い」
「これ使え」
余分に持ってきたタオルを差し出すと、彼女はしばらく受け取らずに目を丸くしていた。
「どうした、早く拭けよ」
「あ、うん。ありがとう」
彼女は大方、「顔に似合わず優しい」などと考えていたのだろう。こういうことには慣れていたが、やはりあの時彼女の申し出を断ってよかったと思った。お互いによく知らないまま付き合って、やっぱり合いませんでした、などということになったら、それほど寂しいことはないだろう。第一そうやってなし崩しに付き合った奴らは長続きしない。
「今日の一限って何だっけ」
「数学だな」
「うわ、テンション下がったわ。国語だと思ってた」
「国語が好きなのか」
「いや、数字が苦手なだけ」
「数学じゃなくて数字かよ」
「うん、見ると寝ちゃう」
くだらない会話をだらだらと続けていれば、あっという間に教室に着く。
「タオル、洗って返すよ」
「気にすんな。うちで洗濯するから」
「いや、でも一応体拭いたやつだし。それとも海堂はその方がいい?」
揶揄われた。
カッとして「テメー」と睨み付けると、彼女は何とも無い顔で「おお、怖い怖い」と入り口付近の席に着いた。
舟橋は耳が人より聞こえづらいという理由で、常に前の席に座っている。俺の席とは少し離れているため、そこで会話が途切れた。

いつも通りに授業が始まり、退屈に過ぎ、いつも通りに授業が終わる。
昼休みを告げるチャイムが鳴ると、前の席から舟橋が椅子と弁当を持ってやって来た。
「そんじゃ、今日からよろしく」
舟橋は俺の返事も待たずに俺の席で弁当を広げ始める。俺はその様子を見ながら、自分も弁当を取り出した。

彼女は、俺に振られた直後にこんなことを提案した。
「ねえ、友達として昼ごはんを一緒に食べるのって、有り?」
俺には断る理由も無かったので、好きにすればいいと言った。だがその時、本当に来るとは思っていなかった。

「うわ、海堂の弁当すご〜!手作り?」
「……そうだ」
彼女は俺の弁当を物珍しげに見つめた。黒塗りの重箱の中に美しく収まったおかずは、全て母の手作りだ。
「えっ、それ中身ざる蕎麦なの」
「ああ」
「お弁当に蕎麦入れてくる人初めて見た」
「あまり見るな。食い辛いだろ」
「ごめんごめん。珍しいからつい」
舟橋は自分の手元に目線を戻すと、弁当の包みを解き、綺麗な曲げわっぱの弁当箱を取り出した。
今度は俺が彼女の方を見てしまった。
彼女の弁当には一切肉が入っておらず、その代わりにお婆さんが食べそうなおかずが入れてあったからだ。
「お前、それ誰に作ってもらってるんだ?」
「お母さんだけど?」
「婆さんとかじゃなく?」
「え、ああ。私、よく味覚がお婆ちゃんって言われるんだ。煮豆とか高野豆腐とか、そういうのが好きでさ」
「和食が好きなのか?」
「そうだね。洋食も好きだけど、肉料理が多くて食べられるものが無くてさ」
「そういえば肉が無いな。そういう宗教か?」
「いやいや、ヒンドゥー教はその土地に生まれないと。途中入信できないんだよ」
「そ、そうなのか」
どうしてそんなことを知ってるんだ。
「それもよく言われるんだよ、宗教?って。自然と返しが板に付いて来ちゃって。そんなことはどうでもいいんだけど、私、肉を食べようとすると戻しちゃうんだ。食事前に言うのも申し訳ないんだけど」
「そうだったのか。いや、気にすんな。聞いたのは俺の方だ」
「そう?優しいね」
「今のどこが優しいんだよ」
「みんな大抵、『肉が食べられないなんて人生損してるよ』って言ってくるからさ。損なんてこれっぽっちもしてないのに、失礼だよね」
彼女はそう言いながら、綺麗な箸遣いで豆を摘む。そのまま口に運ぼうとして、俺と目が合った。
「ふふ」
「何だ」
「あんまり見られると、食べ辛い」
俺はバツが悪くなり、思わず頬を掻いた。


「海堂って和楽器弾けるの?すごいじゃん。私は琴なら弾けるよ。え?一緒には無理だよ。下手だもん」

「お前、まさかホラー映画が好きなのか?金払って、わざわざ怖い思いをするのか?正気か?いや、俺は別に……。何だよ。怖いなんて言ってねぇぞ。興味がないだけだからな」

「箸箱いつもと違うじゃん。弟の……って、弟いるんだ。何て言うの?葉末くん?いい名前だね。来年から?そうなんだ!会ってみたいなあ。似てるの?へえ〜。うち?ああ、いるよ。私に全く似てない可愛い弟が一人ね。え?……へへ、そう?ありがとう」

「お前英語できるよな。国語もできるんだろ?できないのは?数学と、理科。……俺と一緒じゃねえか。は?点数勝負?するわけねぇだろそんなこと。何だと?逃げっ……?上等だ、次のテストの結果絶対教えろよ」

しばらくこんな昼休みが続いた。お互いに探りながら話題を投げかけ、意外にも沈黙が続くことはなかった。そうしているうちに俺にも舟橋のことが分かってきたように思う。おそらく彼女も俺のことを理解した頃だろう。話していても「意外」とか、「案外」とかいう言葉を一切使わなくなったからだ。
彼女と俺は、きっと相性がいいのだと思う。
そう確信したからこそ、俺は舟橋との距離を少しだけ詰めることにした。
「なあ」
「ん、どうしたの?」
俺が何を言おうか決めあぐねていると、目の前の彼女は口に運んだ煮卵を心底幸せそうな顔で食べていた。
「お前は」
「うん」
「お前は、随分と美味そうに飯を食うよな」