香り

昔々、ある女房が書いた美しい貴族の物語に二人の男がいた。
一人は薫の君。自然と良い匂いがすることからこんな名前がついた、という説もある。
もう一人は匂宮。薫君のライバルであり、常に香を焚き染めていたからこんな名前がついた、という説もある。
当然と言えば当然であるが、この場合常に優位に描かれるのは薫の君である。

中学に上がりたての頃であった。
大多数の生徒まだ小学生気分が抜けておらず、なんとなく子供じみた雰囲気がある時期だ。
廊下を歩いていると、すれ違いざまに瑞々しい香りが鼻腔をくすぐった。
可愛い女の子が纏わせるような匂いにドキっとして振り返ると、そこに見た後ろ姿はテニスラケットを背負った学ランだった。

「桃城ってテニス部だよね」
「おう」
「……」
そこまで言って思い出した。私は彼の顔を見たわけでは無い。
「誰か気になるやつでもいんの?もしかして俺?」
冗談めかして無邪気に笑う桃城に、違うと念を押す。
「えっと、良い匂いがする子、いない?」
「ハァ?良い匂いだァ?」
桃城はうーんと首を捻ったあと、オーバーアクション気味に肩を竦める。
「知らねえな。ていうか、俺が同じ部活の奴の匂い知ってたら変態臭くねぇ?」
それもそうだ。
「あーでも」
桃城は突然、嫌なものでも思い出すかのような顔をした。
「マムシなら良い柔軟剤使ってそうだわ」
「マムシ…?」
結局そこでチャイムが鳴り、桃城の言う「マムシ」が誰だか分からず仕舞いになってしまった。

次に会ったら絶対に顔を見てやろうと思った。
幸運にも私は嗅覚がいい。あの匂いははっきりと覚えている。
だから、また廊下で彼とすれ違える瞬間を今か今かと待ち構えていた。
自ら探し出してもいいのだが、こういう時はじっと待つ方が運命っぽくて良い。果報は寝て待てというやつだ。
しかし、いつまで経っても彼とすれ違うことはなかった。
私も次第に顔も知らない殿方に想いを馳せることに飽き、例の香りを記憶の片隅に追いやった。

中学二年生になった。
生徒の中には色気付くものがちらほら見えだす。
どれもが一様に「匂宮」で、あの「薫君」に及ぶ香りはどこにもなかった。
そういえば結局見つからなかったな。
柔軟剤を変えたから、すれ違ったことに気がつかなかったのだろうか。だとしたら詰まるところ、彼も匂宮だったわけだ。
新しいクラスの顔ぶれを見回して自分の青さに苦笑する。
と、見覚えのあるラケットカバーが目に留まった。
あれはもしかして、「彼」のものではないか。
心臓が跳ね上がる思いで持ち主を探す。これがもし「彼」のものだとしたら…
「おい」
不意にかけられた声で我に返る。
見ると、目つきの悪い男子生徒が私の眼前にプリントを差し出していた。
「演劇部の奴がお前にだと」
「あ、ありがとう…」
一瞬怒っているのかとも思ったが、すぐにあの顔がデフォルトなんだなと分かった。
プリントを渡した後の添えられた手が優しかったからだ。
「ごめん、名前なんだっけ?まだ全員覚えてなくて」
「…海堂」
「下の名前は?」
食い気味になって聞く。これを逃したら二度目は無いと言わんばかりに。
「………薫」
「かおる、」

私は、初めて恋に落ちる香りを知った。