某日2

某日、学校の廊下を歩いていた。
演劇部の活動が珍しく中止になり、彼を待つついでに教室で宿題をやってしまおうと思った。
外からは、サッカー部が活動に勤しむ声が聞こえてくる。階段の近くでは、音楽室から漏れ出た吹奏楽部の演奏が、学校中に染み渡るように鳴り響いていた。夕方になりきれていない時刻の、春の空気は溶けるほど暖かく、窓の外で揺れる桜の木々がまるで私に手招きをしているようだった。
ほとんどの生徒が、部活動やら委員会やらに参加しているからか、廊下には誰一人として見当たらない。渋谷の交差点ではないのだから、こう言うこともたまにはあるだろうと思い真っ直ぐに歩き続けた。

生徒の数が多いこの学校では、廊下も長い。

長い。
……長い。
…………長い。

いくらなんでも長すぎやしないか?
それに気がついた時には、自分のクラスがどこかわからなくなってしまっていた。いや、自分のクラスがどこかなど、当然わかっている。しかし、今歩いている廊下はまるで別の場所のようで、私の所属する「二年七組」が見当たらないのだ。
棟を間違えてしまったのだろうか。
引き返そうとして、ふと進行方向に人影を見つけた。
「舟橋」
「……海堂?」
鋭い目つきにキリっと吊り上がった眉、私から見れば、世界で一番蠱惑的な上唇を持つ黒髪の男子生徒。
私の恋人の海堂薫だ。
「何をやっているんだ、こんな所で」
「何、って、海堂こそ。部活は?いつものジャージは?」
目の前の彼は学ランを着ていた。テニス部のレギュラーである彼は、他の部員と違うジャージを着用している。ジャージは遠目で見てもすぐに分かるため、今の彼が彼だと分かるのに数秒かかった。
「俺は……まあ。そんなことよりお前だよ。演劇部はどうした」
「なんか、台本に不備があったとかで中止になったよ。だから教室に帰って、宿題やろうと思ったんだけど……」
海堂は私の返事を聞くと、わかったような、わからなかったような、微妙な顔をして「そうか」と言った。
「それよりさ、教室ってどこだっけ?ボケちゃったみたいで、わからなくて」
「そんなことか。それならこっちだ」
彼は私に向かって手を差し出した。普段の彼なら、自分からはしないのに。
と、そういえば廊下に誰もいないことを思い出した。人が見ていないのなら、まぁ。
私はおずおずと彼の手に自分の手を重ねた。
「絶対離すなよ。じゃあ行くぞ」
彼は、長い長い廊下を迷いなく歩いて行く。

歩く。
……歩く。
………………。

彼に引かれるまま、ぼんやりと廊下を歩いていたが、何かがおかしいと思った。
そういえば先ほどから、サッカー部の声が聞こえない。
吹奏楽部の演奏もピタリと止んだままだ。
風の音だけがやけに近い。轟々と唸るような、重い音。
「海堂、ちょっと待って」
「何だよ」
「ここ、中等部の棟じゃなさそうだよ?クラスの数も違うし……。帰るなら、あっちの階段を降りて外に出た方がいいんじゃない?」
今度は私が彼の手を引っ張った。
引っ張って、戻ろうとした。
「おい」
「え?」
急に凄みのある声で呼び止められ、思わず振り返る。
「そっちには行くな」
「どうして?」
「そっちには、行くな」
有無を言わせぬ声色に、黙って頷くしか無かった。
無言のまま、再び彼に手を引かれる。
しかし、彼はこんなに強引な人だっただろうか。
自分で言うのもどうかと思うが、彼は比較的わがままを聞いてくれる人だ。私が右と言えば、呆れながらついてきてくれる。それに、恥ずかしがり屋でもあるから、人と出会いそうなところでは滅多に手を繋がない。
痛いほど強く握られた手に、私は嬉しさより不信感を覚えていた。
「ねぇ、海堂……。手、痛いんだけど……」
小さな声で訴えるも、「ああ」という返事が返ってくるだけで、手が緩められることはなかった。
私の不信感はますます募っていく。

今、目の前にいる彼は、本当に彼なのだろうか?

そう思った瞬間、どこからか私を呼ぶ声が聞こえた。
低くて、優しくて、よく通る、大好きな声だ。
「……」
私は掴まれていた手を思い切り振り払うと、反対方向へ駆け出した。
「おい!舟橋!そっちには行くな!」
後ろから私を呼ぶ海堂の声がする。その声で確信した。

彼は、今まで私の手を掴んでいた彼は、海堂薫ではない。

私は決して振り返らなかった。今振り返ってしまったら、おそらく「戻れない」。さっき聞こえた声を頼りに、長い長い長い廊下を全力疾走した。
やがて廊下の途中に不自然な光が見え、直感的に助かったと思った。

「……あと少しだったのに」

最後に、彼の声ではない、何者かの声が背後から聞こえた。


「舟橋!おい!」
「!」
ハッ、と意識が浮上した。体を起こしてあたりを見回すと、そこは屋上へ続く階段の最上段であった。
「大丈夫か?何があった?」
私の傍には、ひどく心配そうな顔をした彼。
「海堂、本物?」
「何わけわかんねぇこと言ってんだよ、お前、夢でも見てたのか?」
夢。そう言われればそうかもしれない。
私は今までのことを彼に伝えようとして、やめた。何だか体がどっと疲れている。だから一言だけ、「保健室まで」と言って目を閉じてしまった。

「……ということがあったんだよね」
保健室のベッドの上、頭に氷のうを乗せながら、私は全てを話した。
海堂の顔は蒼白になり、隣の不二先輩は興味深そうな顔をした。
なんでも、私は中等部の廊下を、魂の抜けたような顔で歩いていたらしい。最初に海堂がテニスコートから校舎を見た時は、二年の廊下にいたのでさほど気にしていなかったが、次に目線を向けると何かに引っ張られるように屋上に向かっていたため、何か怪しいと思い急いで駆けつけたそうだ。
「舟橋さん、きっとこの学校に呼ばれたんだね」
高校のコートからも私が見えていたらしい。違和感を覚えた不二先輩は、わざわざ様子を見に部活を離脱してくれた。腕組みをしながら神妙な面持ちをする不二先輩の言葉が、私にはよくわからなかった。
「どういうことですか、不二先輩」
「君、二年生の時に変な体験しなかった?」
「変な体験……。しました!いるはずのないクラスメイトと話をしたんです。海堂も一緒でした。ね、海堂。覚えてる?」
「あ、ああ」
彼は逃げ出したそうな顔をしていた。あの体験はなかなか怖かったから、怖いものが苦手な彼にとっては拷問に近いのだろう。
「多分、そのことで君は少しだけ『あっちの世界』に踏み込んでしまったみたいだ。そんなに深刻なことではないから大丈夫だけど、一応お祓いに行った方がいいかもね。『二年七組』を探していたのも、そのせいだと思うよ」
「なるほど。そういうことだったんですね」
非科学的だが、そうとしか言えない。私は今中学三年生で、戻るべき教室は『二年七組』ではないからだ。
「海堂、助けてくれてありがとう。今度お祓いデートしようね」
私の勇敢な王子様は、今にも倒れそうな顔でゆっくり頷いた。
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