春の陽気

例えば、恋愛ソングに歌われる駆け引きは、彼には通用しない。そもそも彼自身が、恋愛ソングの歌詞で形容できる男では無いからだ。
質実剛健なスポーツ男を歌にする歌手がどこにいるだろうか?
だがその実、私の質実剛健なスポーツ男は、無意識に恋愛上手だったりするのである。

夜、なんとなく眠れそうにない時。
彼のメッセージ欄に一報を投じると『温かい飲み物とストレッチ それで大分マシになる。明日遅刻するなよ』と返事が返ってくる。対処法だけでなく、明日の私の心配までしてくれるとは、なかなかのやり手である。そしていざ学校に来れば、「昨夜はよく眠れたか?」とさりげなく聞いてくれる。配慮の鬼だ。
口にするまでもなく、彼は最高の恋人である。

「でもねえ、それじゃあこっちの気が済まないんだよねぇ」
ため息混じりの文句を言えば、彼は心外だと言うように眉をひそめた
「別に、見返りが欲しいからやってるわけじゃねぇからな」
「そんなことわかってるよ。むしろ見返りが欲しくて優しくしてる海堂とか嫌だわ」
「俺も嫌だ」
机を挟んで向かい合うと、相手の顔がよく見える。窓から差す光が海堂の顔をオレンジ色に照らし、彼の清らかな目が透き通って、少し怯んでしまった。
換気のためにと数センチ開けた窓から、心地よい春の風が眠気を伴いながら舞い込む。私はあくびを一つすると、ズレかけた話と眼鏡を元に戻した。
「だからね、たまには私も海堂に尽くしたいんだって」
「いいって言ってるだろ。俺もお前に言われなかったら分からなかったくらいなんだぞ」
「でもやられっぱなしって性に合わないんだよね。海堂だって殴られたらやり返すでしょ?」
「どうして例えが暴力的なんだ。あとお前、殴られたら左の頬を差し出すタイプだったよな?」
「人間は三秒後に真逆のことを言えるようにできてるんだよ。逆にどうして遠慮するの?もしかして海堂って邪険にされたいタイプだった?」
「そんなことは、断じて、無い」
「冗談」と軽く鼻で笑えば、釣り上がった目でジトリと睨まれた。
意味のない押し問答に飽きたので、軽く伸びをして机に突っ伏す。先ほどからそよそよと吹く風に、徹夜の頭が霞み掛かったようにぼんやりし始めていた。
「……やっぱりよく眠れなかったのか」
「まあね……。ああ、心配しないで。海堂の処方箋が効かなかったわけじゃないから」
結局昨晩はメッセージが返ってきたことが嬉しくて、しばらく画面を見つめていたらアドバイスの実行を忘れていたのだ。そんなことは口が裂けても言わないが。
「っていうか、また海堂に気遣わせてるわ。言ったそばから……」
「気にすんなって言ってるだろ。第一、俺は気を遣ってるつもりなんて無ぇから」
ふわり、と一層強い風が舞い込む。
瞬間、教室の内側にカーテンがはためくと同時に、彼の黒くて綺麗な髪もさらりとなびいた。
やはり彼には敵わない。
彼は外も中身も美しい。メスを入れて解剖したのなら、きっと綺麗な色をしているに違いない。
「どうした、黙り込んで」
私が脳内で物騒な想像をしているとはいざ知らず、彼はきょとん、といった風の顔で小首を傾げた。
「いいや、海堂は綺麗だなあと思って」
私は限りなく純粋な彼を損なうまいと、薄暗い虚妄を後ろ手に隠すのだった。