夜半の月

冬の夜は綺麗だ。
「夜空といえば?」というと、夏か冬かで悩ましいことではあるが、私はあえて冬だと言いたい。
冬の夜は綺麗だ。
月が透き通って見える。青混じりの黒い空に、星がくっきりと見える。
私は特別星に詳しいというわけではない。むしろ辛うじて夏の大三角がわかる程度の素人だ。
それでも私は冬の夜空が一等綺麗だと思う。
白く病的な月を恍惚とした気持ちで眺めると、つい足元が疎かになりつまずいてしまった。
「ちゃんと前見て歩けよ」
横を歩く彼の、マフラーでくぐもった声が聞こえる。
「いやー、今日も空が綺麗だなと思って」
「お前はそればっかりだな」
冬への完全な遷移を感じると、「月が綺麗だ」「星がよく見える」「寒い」しか言うことがなくなる。季節の変わり目は口数が減るものだ。
「じゃあさ、空も気にしなくなるくらい面白い話してよ」
「ハァ?」
彼の口から頓狂な声が出た。無茶を振った自覚はある。
「例えば海堂の話とか」
「俺の、話」
ううー、だのあー、だの言った末に彼はついに口を開いた。
「実は、ガキの頃スカート履かされてた」
数秒の沈黙。その間、私の目は出目金もかくやと言うほど見開かれていたに違いない。
「え、マジ?」
「ああ…」
「へぇ〜…」
まあ彼の母親は美人であるから、幼い頃の彼も女児と間違われるほどには可愛らしかったに違いない。
「相当可愛かったんだろうね、薫ちゃんは」
「馬鹿にしてるだろ」
「してない」
即答。そんなもの100%本心に決まっている。
「今度写真見せてよ。嫌だって言ってもお母さんに直談判するけど」
「畜生言うんじゃなかった」
上機嫌な私に、彼はムッとして言った。
「お前も何か話せよ」
「ええ〜」
「俺だけじゃ不公平だろうが」
「確かに…」
何か、彼のスカート姿と釣り合いが取れる話題はないだろうか。
「あ、そういえば」
「なんだ」
「実は乾先輩に嫉妬してる」
「…」
数秒の沈黙。その間彼の表情は凍りついたように動かなかった。
「何か言えよ」
「いや、え?乾先輩に?」
普段よりワントーンほど高い音から始まった彼の声に、頭の中の天秤が等しい高さになったのを感じる。
「うん。乾先輩に」
「え…と、どうしてですか?」
これは珍しい。私に対して敬語を使ってくるだなんて、相当驚いたのだろう。
天秤が私の方に傾きつつある。 
「だって乾先輩といる時の海堂、めちゃくちゃ可愛い子ぶってるじゃん」
「俺が?!」
「そうだよー、借りてきた猫みたいに大人しくなっちゃってさー。乾先輩、乾先輩って…くそ〜悔しい」
出来るだけ忠実に声真似をしてみたが、本人に自覚はないようだ。
「そんなつもりは…」
「乾先輩と待ち合わせして帰ったこともあっただろ畜生」
なんとも安い嫉妬心。ジェラシーのバーゲンセールだ。
「いやいや、俺は別に乾先輩とどうこうなろうとか思ってないからな、思ってないぞ?!」
「わかってるよこのぶりっ子!!!!!!!」
「あっお前この野郎!」
捨て台詞を吐いて走り出す私に秒で追いついた彼は、「俺より足遅いのわかってんだろ」と純粋な嫌味を投げつけた。
「笑いたいなら笑いなさいよ。逃げも隠れもしないから」
「今逃げたじゃねえか…」
彼の前に大の字で立ち塞がると、慣れた手つきで優しくラリアットをされる。そのままくるりと方向転換させられ、彼に抱き寄せられる形になった。
「海堂のばかやろー、こうすれば喜ぶとでも思ったのかよ」
「なんだ、喜ばねえのか」
「喜ぶに決まってんじゃん」
もう「月が綺麗だ」も「星がよく見える」も「寒い」も口から出て来なくなった。それに気がつきはっと顔を上げると、もう家がすぐそこに迫っていた。
「ほら、着いたぞ」
「海堂って結構策士だね」
「乾先輩の癖が移ったのかもな」
「お前―」
心底恨めしい目つきをする私に構いもせず、彼は肩をポンと叩く。お別れの合図だ。
「じゃあな。今日は早く寝ろよ」
律儀にも昨日夜なべしたことを覚えていやがる、手に負えないほど良い男を見つめる。月など目にも入らない勢いで。
「善処するよ」
そう答えると、彼は苦笑いをして背を向け反対方向へ走って行く。
「今日は月が綺麗だなぁ」
青味がかった黒い空に一際輝きを放ちながら浮かぶ、病的で頼りない月をチラリと横目で見ると、玄関の扉に手をかけた。