utopiosphere


cyberia


 「やさしさって言うもんは、相手の地獄を想像することやないんかなって、ボクは思うんよ」

 全ての幸せな記憶、全ての大切な言葉、全ての大切なひとの面影は波に攫われるでもなく、隕石に穿たれるでもなく、平坦に、なんでもないような顔をして薄れていく。こんなお別れは全部あたりまえのことで、呪いに満ちた毎日がそれでもわたしにとってどうしようもなく大切だと気付くにはほんの少し遅過ぎたらしい。
 ふんわりと笑った彼の栗色の髪が揺れた。その笑顔がとんだ嘘っぱちなのか本心からの笑みなのか判断することもできないほど、この人とわたしの関係性なんてこの程度のものなんだ、と今更思ってしまう自分の頭が憎らしかった。もう少し距離が縮まっていたら彼の笑顔の裏側を悟ることもできたのだろうか。

「せやけど、名前ちゃんの地獄はやっぱりわからへんままやったし、半分を背負うこともできひんかった」

 彼の日焼けしていない腕は透き通るように頼りなかった。暴力的な青い空。鮮明に降り注ぐ光に照らされた彼は真っ白なシャツの袖を徐に捲って、取り繕うようにそう言った。

「わたしを責めないの?」
「なんで? 責められるようなことしたん?」
「だって、こんなの、土屋くんばっかりが損してるでしょ」
「ボクは最初から、ボクを利用して言うてたやん。こうなるつもりやったよ」

 あの春にわたしを抱きしめたいあなたの面影は、夏を迎えて融け始めてきている わたしの世界のあちこちに散りばめられたあなたの残骸がぜんぶ夏に攫われてしまったら、わたしはきっと穴ぼこだらけの軽薄な人間になるだろう。
 至近距離まで近づいた彼は、眩しい日差しを避けるようにわたしを日陰の中に隠した。広い肩幅と長身から作られる影は大きくて、目尻を下げて笑う顔を見たらなんだか無性に泣きたくなってしまう。逆光で瞳の色までは見ることができないけれど、その瞳にやわらかい温度を宿していることなんて声色だけで予想できる。

「ひとりでも大丈夫だって、言った、当てつけみたい」
「そんなことせえへんよ、名前ちゃんがひとりでも大丈夫なったんは事実やしええことやろ、な? わろてよ、そんな悲しい顔せんといて」

 心底困ったように眉を下げた彼は、わたしの頬を両手で包み込むように触れるとゆるゆると目尻を親指で撫で付けた。
 このままいっそ、夢を見るのをやめてしまいたい。本当は、わたしの町から星空なんて見えないし、桜も真夏の海もわたしを攫ってなんかくれないし、春は拒んでも拒んでも訪れる。永遠は夢の中にだけ存在していて、永遠の香りを纏う夢は都合がいいだけのその場所で、わたしの心の愚かな部分はいつもどうしようもなくそれを求めていた。

「どうしたら笑ってくれるん? なあ、名前ちゃんの笑顔がないと苦しいんよ」

 行かないで、と。たったその一言を言えば全部が終わるはずなのに、その言葉だけがどうしても言えなかった。ついには喉元まで出掛かっている音がとうとう声にはならず、薄く開いていた口を閉ざしてしまった。
 彼の腕を掴んで、距離を取る。どこか諦めたような彼の表情が見えた途端、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
 ああ、言えなかった。この先絶対に言えば良かったと後悔するだろう言葉を、言えなかった。
 思いとは裏腹に逃げ出すように彼に背中を向けてしまう。堪らず走り出すと、すぐに息が切れて涙が滲んだ。本当に泣きたいのはわたしと彼とどちらなのだろう。
 青天に顔を歪めてまた走り出すと、どこへともなく街を駆ける。彼のそばではないどこかへ行ってしまいたかった。彼がいなければ、どこだって良かった。
 ああ、君がちゃんと死んでくれるひとでよかった。永遠なんていらないんだって、教えてくれるひとでよかった。

 それは、紛れもなくまたひとつ恋が死んだ瞬間だった。





 わたしと土屋淳の出会いは、およそ4年前のことだった。
 同じクラスに次期バスケ部主将候補で成績優秀な子がいると聞き、その名前を嫌でも覚えたのを今でも覚えている。わたしは高校2年の後半からようやく彼とまともに話すようになったけれど、それまではお互い認識はしているものの、特別深く関わることもなければ自分のことを話す機会もなかった。
 最初の印象は、やわらかく笑う人だなと思った。笑顔がかわいい人と言うのは一定数いると思っていて、笑顔が武器になる人はそれだけで素敵だと思うし、チャームポイントだとも思う。彼もそんなうちのひとりで、頭ひとつ高い長身や聞き取りやすい低い声に見合わず、案外幼い笑顔をしていたのだ。
 だから、やわらかい雰囲気で人を包み込むことができる人なんだろうなあという印象を勝手に抱き、それほど多く会話をしたわけでもないのに話しやすい男子という括りに彼を入れていた。

 そんな彼と仲良くなったキッカケは秋に行われた体育祭だった。わたしは元から部活には所属していなかったし、体力や運動神経にそこまでの自信もなかったので極力簡単な競技に参加したかったのだけれど、結局なぜか騎馬戦の上になってしまった。絶対に人選を間違えてるだろうと思ったものの、身長などを考慮した上でわたしが騎手役になったらしかった。
 女の子の騎馬戦は男子より熾烈そうだなあと考えていた通り、もみくちゃにされるのが関の山だと悟ったわたしたちのチームは、早々に帽子をひったくって後は逃げて逃げて逃げまくった。結果的に僅差でわたしたちのチームが勝利したわけだけれど、正直なところもう二度と参加したくないと思ったのが本音だ。せめてやるなら騎手役ではなく騎馬役が良い。
 それからわたしは自分の出る競技を終えて暇を持て余していたところ、全学年クラス対抗の借り物競争が始まったようだった。
 合図を告げるピストルの音を遠くに聞きながらぼんやりと日陰でうちわ片手に様子を見ていると、どうやらうちのクラスの代表で出たのは土屋くんらしかった。
 みんなより頭ひとつ高い長身が遠くからでも良く見える。やがてクラスの座席場所までお題を目当てに探しにやってきたらしい彼はきょろきょろと忙しなく辺りを見回していた。何やらざわざわと騒がしいのが見てとれる。そんなに難しいお題なのかな、とぼうっとしながらペットボトルのキャップを弄んでいたときだった。

「名前ー!!」
「こっち来て名前! 仕事だよ!」

 座席の方からわたしを大声で呼ぶ友人たちの声を聞きつけ何事かと小走りで向かうと、すぐさま「確かAB型だったよね!?」と勢い良く肩を掴まれた。そうだよ、と頷きつつ、なるほどお題はAB型かと納得する。たまには少数派の血液型も役に立つものだ。
 わたしの名前を聞きつけた土屋くんは助かったと言わんばかりに安心した表情を見せた。

「10%!?」
「うん?」
「名字さん、走れる!?」
「うん」

 少女漫画で良くあるベタな展開だと思いながらも焦った様子の土屋くんを見兼ねてわたしも走り出す。歩幅広、足はや、そういえばバスケ部だった。周りより頭ひとつ高い長身は太陽の光に当たって栗色の髪の毛が淡く透けて見えた。前を走る後頭部を眺めながらふたりでなんとかゴールすると、その後すぐに別のチームが続々とゴールした。結果は2位だったけれど、全クラス含めて考えると良い出来だと思う。
 上がった息を整えていた横で、ぽん、と背中にやわらかい衝撃。

「お疲れさん、ありがとうなあ、ウチのクラスにおって助かったわ」
「役に立てて良かった。ほら、AB型って何かと変人扱いされやすいから」
「ええ、そおなん? でも名字さん、騎馬戦かっこよかったで。ひったくり犯みたいやったわ」
「それ褒めてる? 確かに泥棒したけどね」
「褒めとるよ。ちゃんとかっこええ姿見とったから」

 にっこり笑った彼の笑顔を見て、なんだか毒気を抜かれるなあと内心ぼやいたのを覚えている。天然タラシなんだろうかと思ったものの、たぶん純粋にいい人なんだろうと納得し、その出来事があってからはそれまでよりも良く話すようになった気がする。
 席が近くなれば自然と言葉を交わしたし、全く知らないバスケのルールを教えてもらったりもした。土屋くんは話しやすかったし、方言はあるけれどそこまでキツいわけでもないし、強い口調で何かを言うわけでもなかったからわたしとしてはとても話しやすく、有難い存在だった。

 そうこうしているうちにあっという間に学年が上がり、3年になっても土屋くんとは偶然にも同じクラスになり、わたしには恋人ができた。
 同じ中学出身で、高校は違うけれどバイト先が同じ同い年の男の子で、喜怒哀楽の激しい表情豊かな子だった。バイト先で数年ぶりに再会したのがキッカケとなり距離が一気に縮まったのだけれど、その子と付き合い始めてからわたしも笑顔になることが増えたし、それまではあまり表情を崩して笑うことも少なかったのが周りにも言われるほど増えていた。

 高校卒業まではあっという間で、やれ進路だ内申点、試験だと日々奮闘している間にいつの間にか大学生になっていた。大学も恋人とは別のところだったけれど、偶然にも土屋くんとは同じだった。なんでもバスケの強い大学らしく、推薦で入学したのだと彼は言っていた。特別理由はないけれど、彼がいるなら心強いなあと思いつつ、高校の頃からバスケで注目されていた彼が更に雲の上の人のように感じたことはわたしだけの秘密だ。
 大学での生活は特に大きな問題も起こらず、人間関係も勉強もバイトも、それに恋人とも上手くやっていたつもりだったけれど、どうやらそう思っていたのはわたしだけだったと思い知らされたのは大学1年の冬のことだ。

 喧嘩をしたりだとか、価値観が合わないだとか、時間を作れないとか、特別そういった大きなすれ違いがなかったにも関わらず、ほんの少し恋人との距離が開いたように感じたのはほぼお互いが同じ時期だったと思う。
 所謂これが停滞期というやつなのかもしれないとそのときは確信したものの、どうやってそれを乗り越えれば良いのか、どうすれば上手くいくのかわたしにはわからなかった。どうして楽しかった時間をあまり思い出せなくなってしまうのだろうと苦しかったし、足掻けば足掻くほど上手く行かない気がして惨めな思いだった。
 結局、お互いバイトだ何だと忙しいこともあり、付かず離れずのままでそれからあっという間に1年が過ぎた。今年は元に戻れるんじゃないかと淡い期待を抱いていた矢先、少し距離を開けよう、ととうとう彼が言い出した。
 今より更に距離が開くなんて、これ以上はもう他人じゃないか、と。そのときのわたしはそう思った。だからそんなことをするくらいならもう付き合っている意味なんてないでしょう、と切り出したのはわたしの方からだった。距離を置けば元通りになるわけでもないだろうし、少し前までの距離感に簡単になれるわけでもない。元々恋人同士だってただの他人から近しい存在になっただけなのだから、結局のところあの人はこの1年間赤の他人に日々近づいていたという事実が上書きされるわけでもなかった。
 だから潔くわたしの方から別れを告げた。別れを告げる役目を買って出たと言ってもいい。彼がいつまでもぐずぐずして言わないから、わたしの方から呆気なく終止符を打った。切り出さないのは優しさでもなんでもなかったし、これ以上無意味に傷つくのもごめんだった。

「ただ名前のこと笑わせたかってんけど、上手くいかへんもんやなあ」

 最後の最後にそう言って悲しそうに笑っていた恋人の姿を今でもはっきりと覚えている。食い潰された夢のように覚えていて、その日からわたしには笑顔が少なくなったと思う。別れたことを友人たちに告げると、周りは否定も肯定もなく、何も言わなかった。ただ、気落ちするわたしを気分転換だと言い遊びに連れ出してくれたり、身体を動かしに行ったり、楽しい時間を与えてくれたおかげで悲しみはそこまで深くならなかったように思う。
 だけれど、思うより上手くいかなかったのは事実だし、何が悪かったのかすらはっきりとわからない分虚しくなる時が度々あるのも事実で、そんなときわたしの前に現れたのが、土屋くんだった。

「なあ、ボクのこと利用して。寂しさを埋めるだけの道具でええし、ほんまの愛なんていらへんから」

 目線を合わせるように屈んだ彼の瞳は随分とやさしい色をしていて、本当に寂しいのはわたしの方なのに、彼の瞳の中の寂しさの方が深度が低いような気がした。どうしてそんなことを言うの、どうしてそんな寂しそうな目をするの。言いたいことはたくさんあった。だけれど。

「ボクが勝手に名字ちゃんに付け入るだけやから、何も言わんといてよ」
「土屋くん、寂しさは、人で埋めるからこうやって簡単にこわれるんだよ」
「せやったら埋めようとせんでええ。ボクからのお願いや。一緒にいさせて」

 彼がどんな気持ちでその言葉を言ったのか、わたしは未だにわからない。彼とは大学が同じと言っても学部が異なるため、顔を合わせるのが多いとは言えなかったし、高校の時ほど会話をする機会が減っていたにも関わらず、土屋くんはわたしの目の前に突然現れたのだった。
 利用してほしいと彼は言い、狡賢いわたしは甘んじてその言葉を受け入れた。だって、わたしから言い出したことではないから気持ちは楽だった。受け入れた時点で共犯なのかもしれないけれど、そんなこと気にしている余裕はなかったように思う。だってあなたがそう言ったんでしょう。そう思えば気持ちは楽だった。
 わたしをそっと抱きしめた彼の腕の中で誰にも言わなかった本音を口にしたことを昨日のことのように覚えている。なぜ彼なら聞かれても良いと思ったのか、なぜ彼になら寂しさを誤魔化さなくてもいいのだと思えたのか、その答えはようやく恋人と別れてたから1年が過ぎた頃にようやく理解したのだった。


「もう、ひとりでも大丈夫だよ」

 季節が巡ることに終止符を打つために、わたしは鋭く光る太陽を撃ち落とした。まばゆい日差しに目を細めたわたしは泣きそうな顔をしていただろうか。きっとわたしもさよならに辿り着く運命なのだと悟ったとき、居ても立っても居られず思いとは裏腹の感情を口にした。わたしはもうひとりだって大丈夫だから、あなたがわたしに優しくする必要はないのだと。
 彼のおかげで笑顔がたくさん増えた。寂しいなんて感じないくらい楽しい毎日だった。1年なんて瞬きの間に感じるほど、あまりにも早い時の流れだった。それだけわたしは彼に生かされていたし、優しさを甘んじて享受していた。

「うそついちゃった、」

 彼の腕を突き放してしまった。わたしの何がそうさせたのかはわからない。だけれど怖いと思ったし、どうしようもなく苦しくなった。上がった息を整えながらこめかみを伝った汗を拭うと、同時にはらりと音もなく涙がこぼれた。
 ぽたぽたと瞼から無抵抗に落ちてはアスファルトを濡らしていく。日陰に身を潜めるように膝を抱えると、喉の奥が焼けるように痛いことに気がつく。どうしてわたしが悲しいのだろう、どうしてこんなに苦しくなるのだろう。何度も何度も、嗚咽が引っ掛かりながら呼吸をした。
 さえぎった瞼で見えた夢ぜんぶが嘘になるならそれでいい。わたしは、こんなにも彼のことを好きになっていた。行かないでと言いたい言葉もまともに言えないくらい、彼のことが好きだった。
 気付きたくなかった思いに気付いたとき、ひとはこんなにも苦しくなるものなのか。知らなかったし、そんなこと知りたくなかった。

 とうとう息を吸うのも苦しくなって自分の身体を掻き抱いたときだった。

「名前ちゃん」

 ふと上から降ってきた声と、背中に触れた大きなてのひら。反射的にぱっと顔を上げると、わたしと同じ目線までしゃがみ込んだ彼と目が合った。

「名前ちゃんが笑ってるとボク、苦しくなるんよ。せやけど、泣いてるともっと苦しくなんねんで」

 どうして、と思う前に、彼の額に汗が浮かんでいるのが見える。ここまで探しに走ってきたのかと気づいた瞬間、先ほどのように涙で濡れた頬を両手で包み込まれる。言い聞かせるような声色は、彼が彼自身へ言いたい言葉なのか、それともわたしに伝えたい言葉なのか分からなかった。

「ボクを手放したのは名前ちゃんなのに、何でそないな悲しい顔するん? なあ、」

 期待してもええ?
 至近距離で告げられた言葉に指の震えが止まらなかった。痺れるように胸が痛くて、焼けるようにあつい。
 わたしと彼は、手を繋ぐこともキスをすることも一度もなかった。彼はいつもわたしを抱きしめて、安心させるようにずっと背を撫でるだけだった。そんな彼の瞳に今まで見たことのないような温度が宿っているのを感じ取り、思わず息を呑んだ。

「女の子には言わせるのは男が廃るからボクから言うで」

 もうずっと前から囚われ続けている。それに気づくにはほんの少し遅かった。いつまでものろのろと夢を見ているわたしに終止符を打ってくれたのは、やっぱり彼だった。

「ボクの恋人になってや」

 わたしの頬を包み込む大きな手に自分のそれを重ねると、今までだって止まらなかった涙がぽろぽろと引っ切りなしに頬を濡らした。返事の代わりに小さく笑って見せると、彼はやんわりと目尻を下げてゆるく笑った。
 額がぶつかり合うと、至近距離で色を変えた彼の瞳が見える。涙で歪んだ視界の中でも、彼の幸せそうな表情だけははっきりとわかった。自分に対してこんなにも優しい感情を向けてくれるひとがいるなんて、それだけで胸がいっぱいで、わたしの知らない一面をもっと知りたいと、そう思った。

「ほんまにええの? ボク、もう離さへんし、離せへんよ」
「うん」
「ボク、重いと思われるかもしれへんし、名前ちゃんのこと、本気で好きになってまうよ」
「うん」
「後悔しても知らへんからね」
「うん」

 親指でわたしの涙を拭った彼は、何度か「ほんまに?」と同じやりとりを繰り返して、ようやく観念したとでも言うようにわたしの唇の端にキスをした。

「ほんまはな、もうとっくに本気で好きやったよ」

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