utopiosphere


a while


 夜の下に抱かれて、夜のうつくしさを知って、汚さを纏って、大人しくしていることがどうして出来よう。ネオン街の明かりに掻き消された星がおいでと手招き、銀河系へ真っ逆さまに飛び込んで遊泳。罪深いものたちも、今だけは自由になって、全てを忘れて、不格好に踊る。やさしすぎるものたち。いっそこのまま狂ってしまえたなら良いのに。

 飲んでからしばらくすると、アルコールの塊が胃の底に蓄積していることに気付くみたいな、そんな感覚。くだらない背徳感と絶対不可侵の罪。
 抱えている秘密、誰にも言えない過去、現実。わたしは、わたしが見たことのあるものしか信じられない。だから、真実の愛だとか運命だとか、そんな曖昧で目に見えないものは、何ひとつ知らない。
 だって、それが恋でなかったと、真実でも運命でもなかったといつかは必ず気がつくのに、のぼせた頭で愛の言葉を囁く人の気持ちなんてわからない。始まりがあるなら終わりがあるのだから、そんな気持ちに自分を委ねるのはあまりにも軽薄な気がした。

「あんたみたいな最ッッ低な女なんか!!」

 いや、軽薄なのは一体どちらだろう。
 思ったより強い力で突き飛ばされて、なす術もなくよろめいて背後に尻餅をつく。激しく肩で息をする彼女を無感動に見上げると、その目には、悲しみ、軽蔑、怒り。さまざまな感情が複雑に渦巻いているように見えた。
 それから行きがけの駄賃とばかりに残っていたグラスの水を頭上からかけられて、おろおろと立ち尽くしていた男の手を取り、彼女は逃げるようにわたしに背を向けた。
 うるさいネオンに彩られた街では、わたしへ向けられた怒号なんてこれっぽちも意に会することなく、人々はちらりと盗み見るだけで通り過ぎてゆく。好奇、混乱、同情、軽蔑。色々な視線が集まっていたけれど、どんな風に見られようと今更どうということもなかった。

 卸したてのベージュのブラウスが水を含んで肌に張り付く。せっかくの可愛い服が一瞬で台無しだ。髪の毛も上手くセットできて、朝から良い天気だったのに。やれやれと溜め息を吐きながらもスカートの埃を払って立ち上がろうとした瞬間、ようやくそこで膝の痛みに気がついた。
 突き飛ばされたとき、どうやら膝を擦りむいたらしい。破けた皮膚に血が滲み、見るも無惨な光景になってしまっている。うんざりして高さのあるサンダルを脱ぐと、もう何もかも嫌になって力一杯投げ出したい気持ちに駆られた。

「大丈夫?」

 血の滲んだ膝に触れたと同時に、ふと背後から声をかけられる。
 また彼か、とその声の主を思い出し虚しくなりながらも苦笑を浮かべて振り返ると、やはりそこには思い浮かべた通りの黒髪が立っていた。

「見てた?」
「…まぁね」

 水戸洋平。どうやら彼に一部始終を見られていたらしい。そっか、と淡白に返しながらも手を借りて立ち上がると、じくじくと熱を持った膝が痛む。思わぬところでいらぬ怪我をしてしまったけれど、あの剣幕でがなり立てていたあの人相手でこれくらいで済んだのは良い方なのかもしれないと思うことにした。

「傷、はやく手当てしないと。痛いでしょ」
「いいよ、大丈夫。こんなのいつものことだから」

 こちらを覗き込んだ彼から、あまり不自然にならないように視線を逸らす。転がっていた鞄を拾って水気を含んで邪魔になった前髪を無造作に掻き上げると、放り投げていたサンダルも指に引っ掛けて裸足のまま帰ろうかとぼんやり考える。
 歩きだと正直そこそこの距離があるけれど、これじゃあ電車は使えないしタクシーも乗れない。
 憂鬱な気持ちを抱えながらもさっさと帰ってしまおうと歩き出そうとしたところで、肩が僅かに後ろに引かれる。

「名前ちゃん」

 わざわざ突き放そうとしているのに、どうやら放っておいてはくれないらしい。彼は世話焼きが過ぎる。

「洋平くん。お願い、大丈夫だから」

 思いの外冷たい声が飛び出した。いっそ懇願だった。惨めな気持ちになっていいはずはないけれど、それでも、惨めな気持ちにならずにはいられなかった。
 わたしだって、最初からこんな風に歪だった訳ではない。わたしにも汚れを知らない少女のような頃があって、だけれどどこかで何かを間違えてしまった。真っ白なままの大人になれないなんて、そんなこと夢にも思わなかった頃は確かにあったのだ。
 侮蔑、軽蔑、あらゆる蔑みの言葉を以てしても足りないような、そんな人間だ。

 感覚が狂うのなんて容易く、そしてあっという間で、今日の出来事だって慣れたものだった。
 既婚者の男と遊んでいた際に男の妻と遭遇。修羅場になってわたしが蚊帳の外にされたものの、男がわたしを庇う発言をしたのが彼女の導火線に火をつけ、更なる修羅場へと発展した。
 それでもあのとき、焦る気持ちも罪悪感も、なにひとつ感じなかった。男が大慌てで捲し立てても、言い訳を述べても、彼女が激怒しても、無感情を束ねて瞬きを繰り返すわたしに、きっと彼女は酷く苛立ったことだろう。彼女の気持ちを思えばこそ、そういった人を傷つける行為に加担しているということに改めて実感が湧くものの、何度こういった場面を経験してもやめられないのだからどうしようもない。
 やめなければいけないこと、やってはいけないこと。そんな判別もわからなくなるほど、不誠実な人間に成り下がってしまっている。
 求めたから応えただけだ。価値を示したかったから示しただけだ。そのやり方の、何が悪くて何が間違っているのか、考えてもわからない。教えてくれる人なんて誰もいない。
 
 ふと徐に手が伸びてきて、両頬が手のひらに包まれる。突然の出来事に目を白黒させていると、わたしの顔をぐいと覗き込んだ洋平くんは、静かに告げた。

「俺がこわい?」

 質問の意味がわからず肩を強張らせると、まるで安心させるかのように指の腹で目尻を撫でられる。行動の意味も何もかもが動機のわからないもので、それを怖いかと問われれば確かに怖いけれど、彼の問いはそういった趣旨のことではないのだろう。

「どういうこと?」

 口を閉ざすと、やんわりと笑った彼は、その答えを口にすることなくわたしの頬からあっさり手を離した。それから学ランの上着をわたしに羽織らせると、彼は背中を見せる形で目の前に膝をつく。

「家、どこらへん?」
「待って、洋平くん」
「どこ?」
「…けっこう、遠いよ」

 乗りなよ、と肩越しにわたしを振り返った洋平くんはとても冗談で言っている様子ではない。
 きっとこれからわたしが必要ないと言ったところで同じ押し問答が繰り返されるだけだろう。半分諦めた面持ちで差し出された背中に体重をかけると、彼は慣れた様子で腰を上げた。
 洋平くんはそこまで身長が高くなかったはずだけれど、案外広い背中に少しだけ驚いた。整髪料のかおりが鼻をくすぐる。

「俺んちで手当てしてからバイクで送ってくね」
「……」
「名前ちゃん?」
「…意外と意地がわるいんだね、洋平くん。放っておいてくれた方が惨めじゃないってわかっててそうしないんでしょ」
「…そうかもね」

 放っておいてほしいと直接言わずとも、賢い彼なら全てを察してわかってくれるはずなのに、それでも背中を貸してくれたことはお節介以外の何物でもなかった。だけれど洋平くんはあんまりにも優しく笑うから、強く断れなくなる。どう逃げて良いのかわからなくなる。
 心の隙間をすり抜けていくような、そんな渇いた笑い声に、やっぱり彼とは、似ているようで何もかもが違うと思った。ただのクラスメイトにここまでされる筋合いなんてなかったし、本当は頼りたくもなかった。

「笑ってくれたら良かったのに。ばかだなあって、そしたら悲しくない」
「じゃあ名前ちゃんは、オレが喧嘩して傷作ってたら馬鹿だなあって笑う?」
「笑うよ」
「あちゃ、即答か」

 洋平くんは、不思議な人だと思う。ただのクラスメイトで、丁度良い距離の友達だ。その距離を保つくせに、わたしの中に踏み入ってきて、好きなだけ乱すくせに自分のことは何も教えてくれない。
 恨みがましい気持ちになって唇を噛み締めると、洋平くんは黙りこくって、しばらくの間わたしをおぶさりながら歩き続けた。





 真っ暗な一室の玄関に降ろされると、洋平くんは電気をつけて薬箱を取りに行った。

「洋平くん、一人暮らしだっけ?」
「ウチ、ほとんど親帰ってこないから」

 奥の方から聞こえた返答にそっか、と短く返して膝を抱えると、血が固まった膝は鉄臭くて思わず顔を歪める。
 洋平くんのお家はそこそこ湘北に近いところにあって、部屋の作りまではわからないけれど、確かに家族で暮らしているような雰囲気ではなかったし、単身者向けのアパートのような印象を受けた。
 洋平くんがぽいぽいと雑に脱いだローファーを揃え、その隣に自分の指に引っ掛けていたサンダルを並べる。

 程なくして薬箱を持った洋平くんが戻ってくると、わたしの前に胡座をかいて座った。

「そんな顔しないでよ」
「絶対痛いもん」
「痛いだろうなあ」

 徐に箱の中から消毒液が取り出されたので、しみるだろうなあと思えば自然と顔が歪むのもしょうがなかった。くつくつと可笑しそうに笑う彼をじろりと睨む。
 半ば無理やり手当てされているとは言え、ジタバタ暴れるのも申し訳ないかと思いじっとしていると、消毒液を染み込ませたコットンが傷口を何度か往復した。思っていた通りの痛みを感じて唇を尖らせると、見兼ねた洋平くんはわたしの頭を軽く撫でる。撫でられたって痛いものは痛いし、喧嘩ばかりしている洋平くんならわかるでしょうと反抗心が湧いてくる。
 それから大きめの絆創膏を貼ってもらい、ようやく傷の手当てが終わった。

「…ありがと、いろいろ」
「俺がしたかっただけだから。お節介だったろ?」
「……まぁ、それは…」
「ははは、素直だよなあほんと」

 濡れていたブラウスはすっかり乾いており、髪はまだしっとりしているけれど大方水分は飛んだような気がする。
 膝を抱え直して薄いアパートの壁に背をつけると、コーヒーを淹れてくれた洋平くんからマグカップを受け取る。

「そういえば洋平くん、なんであそこにいたの?」
「麻雀してた帰り」
「麻雀か」

 鞄に入っていたので水の被害に遭わなかった煙草を取り出すと、コーヒーに口をつける洋平くんの方に1本放った。
 この部屋には、煙草の匂いと洋平くん独特の整髪料の香りが充満していて、意味もなく寂しい気持ちになる。
 洋平くんは、きっと誰にも興味がないのだと思う。興味がないから誰にでも優しくできて、相手からも優しいと思われる。だけれどその実誰にも心を開いていないから、洋平くんの本当の笑顔を引き出せるのは、きっと彼と仲良しのあの子たちだけだ。

「ああいうの、良くあるの?」
「…たまにね。しょっちゅうあったら堪ったものじゃないけど、それなりにあるよ」

 わたしはどうしようもない人間だ。体に悪いとわかっていてもやめられないものがあるように、わかっていてもやめられないことがある。それが今のわたしの生き方だった。

「別に誰でもいいの。わたしのこと認めてくれて、愛してくれて、価値を示してくれるなら、それでいい」

 だからあなたとは違うのだと、言いたかった。あなたがわたしを気にかける理由はひとつもないのだと、そう言いたかった。
 不思議そうに、だけれど愉快そうにわたしを眺めていた彼は徐に煙を吐き出すと、わたしの咥えていた煙草をすっと抜き取った。

「誰でもいいなら俺と付き合ってよ」

 なんとなく、意味も感情もなく誰かと身体を重ねて、なんとなく肯定されたみたいな、なんとなく汚されたみたいな、クラスの中で自分だけがひとり特別になったような、そんな気になって、愛されないって嘆いてばかりいた頃の幼い自分が、きっと何よりも無知で浅はかで、だけれど一番かわいかったのかもしれない。
 だからわたしは、今の自分に固執するしかなかった。一番正しいのは今の自分だと、肯定するしかなかった。

「俺でもいいでしょ、駄目?」

 まるで流れ星みたいに真っ逆さまに落ちていく。ひどい、こんなのって、あまりにもひどい。

「飽きたら捨てていいし、面倒くさかったらいつでも突き放していいから」

 ほんの少し寂しそうに笑う彼に、返す言葉はなかった。
 どうせ、わたしが断れないとわかっているのだろう。愛に依存するわたしがまともに息なんてできないこと、知っているくせに。
 乾ききった涙を流すと、洋平くんは下手くそに息をするわたしの息を繋ぐようにキスをした。それはまるでお手本のようなキスだった。

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