茜は帳に沈む
「また明日!」
茜色の髪を冷たい風に揺らし、白い息を吐きながらハキハキと彼女はいつも通りにそう言った。
だけど、アリョーシャと彼女の間に、また明日はこなかった。
彼女の家族たちも村から居なくなったからだ。まるで、夜逃げのように。
村は沈みゆく泥舟のような状態だった。だから、逃げるのは仕方ない。夜逃げのように村を出たのは、村特有の同調圧力からか。アリョーシャに真実は分からないが、そういった推察はできた。
彼女のようにいなくなった人間は他にもいたのに、アリョーシャは未だに訪れなかった彼女との「また明日」を引きずっていた。
ふとしたとき、水底からわいてくる泡のように思い出す。
最後に見たあの寒空にたなびく茜色の髪と、明日もきっと変わらないだろうと信じていた彼女の笑顔を。
――スネージナヤ・グラード。
アリョーシャは、獲物を売りに訪れていた。狩人である彼がスネージナヤ・グラードに訪れるのは獲物を売りに来たり、何かしらの買い物だったり……まぁ、いくつか理由がある。
今日は狩猟の成果の毛皮を売りに来た。
腕のいい狩人であるアリョーシャの毛皮は、いい値段で買い取ってもらえる。極寒の地だから毛皮はいつでも需要があるというのもあるが、アリョーシャの毛皮は頭ひとつ抜けて評判がいいのも事実だ。
来た時よりも潤った懐。
愛銃のメンテナンス用品を買い足しておくかとアリョーシャは考え、取引先から専門店へと向かう。
行き交う人をなんとはなしに見つていたとき、アリョーシャは思わず足を止め、目を見開いた。
「――」
はく、とアリョーシャの口が動いた。
声に出して、名前を呼んだつもりだった。しかし、何年も呼ぶことのなかった名前は声という形にならなかった。
アリョーシャの視線の先には、あの日と同じ茜色の髪を束ねた……彼女が、いた。
彼女はクラシカルなお仕着せを着ていた。
昔、風の噂で耳にした話をアリョーシャは思い出した。
夜逃げ同然に村を出た彼女たちの一家は生活が立ち行かず、彼女が売られるように奉公に出された、と。
噂は事実だったようだ。
お仕着せは少し離れたところから見ても生地が上等なものだった。それなりの貴族に雇われたメイドとして、彼女は生きているようだった。
彼女はアリョーシャに気づいていないようで、買い物の品を抱えて歩いている。
「っ……なまえ」
ようやく、アリョーシャの喉は彼女の名を正しく紡いだ。同時に、アリョーシャは人を避けながら彼女のもとへと駆け寄る。
名前を呼ばれた彼女は少し肩を揺らしたあと立ち止まり、ゆっくりとアリョーシャの方に顔を向けた。
その顔は記憶の中の彼女より大人になっていて、記憶の中の彼女よりも生気がなかった。
成長による変化より、その生気のなさにアリョーシャは驚いて思わず息を飲んだ。
アリョーシャの記憶の中の彼女はいつもハツラツとしていて、暖かな日差しのような明るさがあった。しかし、今目の前にいる彼女はそれと真逆で、まるで今にも折れてしまいそうな雰囲気だった。
「アリョーシャ……?」
か細い声で、彼女はアリョーシャの名前を呼んだ。覚えていたのかという安堵や嬉しさより、アリョーシャは彼女の変わりようが心配になった。
肌ツヤとか格好とか、そういったものはむらで暮らしていたときよりも状態がいいのに、見るからに彼女の状態がよくないのだ。
貴族家で働くメイドならば―借金とかで給金がほとんど持っていかれても―暖かな寝床があり、食いっぱぐれることもない。村にいた頃より生活水準は高いはずだ。となると、身体的ではなく、精神的な理由だろう。
久しぶりだなと、再会を喜べるようなものではない。
「なまえ、今、貴族の家で働いてるのか」
「……そう、だよ」
「……どこの家だ?」
少し、彼女は口を閉ざした。そして俯き、さきほどよりも更に細い声で紡がれた家名を聞き、アリョーシャは唇をかみしめてぎゅっと己の手を強く握った。
アリョーシャも知っている貴族だ。悪い意味で。
彼女の状態とその貴族の素行から考えるに、彼女が最悪の状況に置かれていることがわかった。
「……もう、行かないと。メイド長に怒られるから」
すっと、逃げるように彼女はアリョーシャから離れる。
アリョーシャは、手を伸ばしかけた。
しかし、彼女の腕を掴みそうになったところで止めた。
(今のオレに、何ができるんだ)
彼女を買い取るような金もない。
そして、変に目立つ訳にもいかない。
音が鳴るほど奥歯を噛み締め、人波に紛れて消えていく茜色をアリョーシャはただ見つめるしかできなかった。
――会いたかった、会いたくなかった。
ぐちゃぐちゃになった頭の中を誰にも悟られないよう細心の注意を払いながら、お使いで頼まれていたものを渡し、なまえは足早に宛てがわれた部屋に戻る。
やや乱暴に部屋の戸を閉めたあと、ベッドに飛び込む。
一介のメイドが使うにしては質のいいベッドは、なまえの重み程度易々と受け止める。そのまま、なまえは深く顔を埋めた。
「うっ、ふ、うぅ」
泣き声と涙を殺さんとばかりに羽毛たっぷりの布団に顔を埋め、しがみつくように握りしめた。
久しぶりに会った幼なじみは昔の面影を残したまま、青少年になっていた。成長していること以外、記憶の中の彼と何一つ変わっていない。
それが、なまえには辛かった。
(アリョーシャ、アリョーシャ)
会いたかった。
本心だ。
会いたくなかった。
それも本心だ。
会ったら、連れて行ってと泣き縋りたくなると分かっていたからだ。
でも、そうはならなかった。
アリョーシャは聡い。なまえの様子を見て、なまえがどんな状況に置かれているのかを理解してしまったのだろう。
それになまえは、耐えられなかった。
だから泣き縋ることもせず、逃げた。
なまえは己の現状を、アリョーシャにだけは知られたくなかった。実ることも腐り落ちることもなかった恋心が、まだあるから。
しかし、今日おそらく知られた。
足元から絶望と嘆きと、恐れが湧き上がる。それと怒りにも似た衝動が胸をつき、嗚咽とむかつきが同時に襲ってくる。
しかし、そんななまえのことなどお構い無しに、ノック音が響く。びくりと、なまえは肩を揺らし、嗚咽を飲み込む。
「――なまえ。本日、旦那様がお戻りです。なので、準備をしておくように」
メイド長から淡々と告げられたそれに、なまえの顔の色はさらに悪くなる。こぼれた涙が頬を伝うのを拭うことなく、なまえは唇を震わせながらもなんとか動かした。
「わかり、ました」
あの、また明日を無邪気に言えていた日々が、恋しい。
彼が狩ってきた獲物で毛皮を舐めしてなにか贈ると言ってくれていた。楽しみにしていた。
(だけど、)
もうどちらもなまえの元に訪れないのだ。
変わりに訪れるのは、尊厳も自由も何もない、夜だけだ。