もう逃げちゃえないようにしようね

「お久しぶりです、時透様」

任務を終え、薬を貰うため蝶屋敷を訪れた時透は久しぶりに会った想い人に自然と自分の頬が緩むのが分かった。
瀕死の状態で生死の境をさ迷っていた自分の世話をしてくれたのが名前だった。正直その時のことはあまり覚えていないかったが、自分に触れる手が温かくて、とても心地よかった。
人当たりがよく、いつも笑顔で自分を迎える名前を見るとなぜか胸がむずむずして、心がほわほわと温かくなった。
今まで経験したことのないそれに戸惑い、自分は何か悪い病気なのではないかと胡蝶に相談すれば、それは恋の病というやつですよ、と胡蝶は愉しそうに笑った。
昔の記憶のない自分が恋なんてと思ったが、一度自覚してしまうと恋というやつはやっかいで、どうにも制御できなかった。そんな自分に戸惑い、ここ最近すっかり蝶屋敷から足が遠退いていた。

「いい加減、その時透様って止めない?」
「そうはいきません」

間髪入れず返ってきた言葉は相変わらず否定的なものだった。
時透が霞柱になった日を境に名前は時透を時透様と呼ぶようになった。
名前の方が年上なのだから昔のように呼んで欲しいと何度頼んでも、柱は尊敬され、優遇される存在だからと名前は首を縦に振らなかった。

「別に気にしなくていいのに」

炭治郎は自分を様付けで呼ばないし、敬語じゃないと訴えると、名前は困ったような表情を浮かべる。
どうも自分は名前に対してはわがままになってしまう。子供だと思われてしまっただろうか。しかし、今日は引くつもりはなかった。

「ねぇ、名前。お願い」
「ちょっ、時透様近いです…!」

慌てる名前を無視して、時透は更に距離を詰める。鼻と鼻がくっつく寸前の距離まで近づいたところで、その距離に耐えかねた名前が、分かりました…!と声を上げる。
真っ赤になって叫ぶ名前が可愛くて離れがたい気持ちになったが、名前を呼んでほしいという思いの方が強かったので、少しだけ顔を離した。

「…まだ近いです」

本人は自覚していないだろうが、名前は時透よりも少し身長が小さいため、自然と上目遣いになるわけで。想い人が真っ赤になって上目遣いで自分を見つめる姿は、年頃の男子にはものすごい破壊力があった。
それと同時に隙だらけのその姿に少し心配になった。
のんびりしてると誰かに取られてしまいますよ?
そう胡蝶に焚きつけられたときのことを思い出した。あのときはいまいちピンときていなかったが、名前の無防備さを目の当たりにし、焦りに駆られる。
時透はこのとき初めて誰かに取られるなんて嫌だと思った。

「名前がズルするかもしれないから」

呼んでくれるまで離れないよ、と時透が微笑むと、図星だったのか名前はううっと声を漏らし気まずそうに視線を反らす。

「…時、透くん」
「そうじゃないでしょ。呼んでくれないとずっとこのままだよ?」

僕はいいけど、と時透が目を細め首を傾げると、いよいよ逃げられないと悟った名前は意を決したような表情で時透に向き直る。

「む、無一郎くん…!!」

やけくそだというように自分を呼ぶ名前に胸がぎゅっとなる。反則だ。そんな姿を見て我慢できるはずがなかった。

「可愛すぎて無理」

言い訳をするように言葉を漏らし、名前が言葉を発するのを遮るように口を塞ぎ、ちゅっとわざとらしく音を立て、唇を離す。
突然のことに名前は目を見開いたまま、立ち尽くしている。
一秒、二秒、三秒…、いくら待っても反応がない名前の顔を時透が覗き込む。

「瞬き、した方がいいよ?」
「〜〜〜っ!」

我に返った名前は言葉にならない声を発しながら、ぽかぽかと時透を殴る。
本人は力一杯殴っているのかもしれないが、正直、力のない名前にいくら殴られても少しも痛みはなく、ただただ可愛いだけだった。

「もうお嫁に行けない…」

そう言ってしおしおと眉を落とす名前の頬にそっと触れる。

「そこは心配しなくていいよ。僕がもらってあげるから」

結婚しちゃえばもう関係ないでしょ?と時透はしたり顔で微笑む。
対する名前は思考が追いていなかった。
結婚?誰と誰が?そもそも彼は自分のことが好きなのか?いつから?私は?好き?嫌い?
次々と浮かぶ疑問を上手く言葉にすることができず、ただ口をぱくぱくさせることしかできなかった。
ちょっと強引過ぎたかなと反省しつつも、遅かれ早かれいずれこうなっただろうと自己完結させる。

「だから、もう一回」

その言葉と同時に再び名前の視界が支配された。
これ以上は心臓が持ちそうにない。



お題:未明