なくした21g
ぱきり、と口のなかで薄くなったキャンディーを砕いた。鼻孔を抜けるようなレモンの香り。ただ風が吹いてあやされた髪から零れたのは、甘く透き通ったシトラスだった。
街角の一角にあるステージ前に置かれた真っ白なピアノ。それは催し物があるときに使われるもので、ただこの街が廃れてしまった今ではほとんど弾かれることはない。
調律が甘いせいで半音下がったその鍵盤を、私は叩いた。
――ねえ、次はどの曲がいい?
そう言って笑った彼の人の音を、私は奏でることが出来ない。同じ香りを纏って、同じようにキーに触れたのに、私はもう失くしてしまっていた。あんなにも好いた音も、彼も。半音下がったピアノで彼が奏でるのは、彼が敬愛するピアニストの表題作。余りにも有名なナンバーに私は聞き飽きたとよく文句を言ったものだ。秋を想わせるようなほの哀しげな旋律が、私は少し苦手で。
哀しい曲は苦手だよって言うと彼は笑った。哀しい曲じゃないよって。これはあこがれと愛を謳う、静かなあたたかな曲なのだからと。
何度聴いても私には哀しげな曲にしか聞こえなかったけれど、それでもいいと思えた。彼が好きだと言うこの曲を好きになれずとも、その音、それを奏でる彼。
それだけが在れば、私は幸せだった。
ピアノの椅子に腰掛けて、バックからウォークマンとCDを取り出す。彼を失った隙間を埋めるように私は彼が好いていたピアニストのCDを買った。タイトルは、彼が弾いていたあの曲のもの。
それでも包装を解くことすら出来ないまま、三か月がたっていた。
「……」
ぴりぴりとビニールを剥いで、CDをセットする。
やがてヘッドホンから流れたのは甲高いピアノの音。水の流れを誘うかのような、八分音符の揺らぎを耳にして私は愕然とした。
違う、
同じだけど、違う
彼の愛したピアニストが奏でるピアノは美しくて優しくてあたたかかった。彼の言っていたように。
でも
「……っ」
そこで漸く理解する。
私が欲しかったのは、半音下がったこのピアノで奏でられる『彼』の音だった。
もう、いない。もう、聴けない。彼そのものだった。
「ねえ、やっぱり、哀しい曲にしか聞こえないよ……」
彼という隙間を埋めようとしたそのCDは、余計に私の涙を溢れさせただけだった。
君が弾けば哀しい曲も暖かかったのに。
失った半音。失った私の半分。
人は死んだときに、21gだけ軽くなるのだと言う。それは魂の重さなのだろうか。解明されていない。
――ねえ、私にその21gがあれば、君と同じ音を奏でることが出来た?
壊れ泣く私を、風が優しく抱き締めた。
やわらかなシトラスが香る。
白い白いピアノは、今日もまだあの日の旋律を覚えている。
失くした君の音を、忘れられずに。
090726
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