Dear Mine Your Rain
私はあなたの声を聞いていました。
聞こえていました。
声にもならない叫びを聞いていました。
あなたは私の心を信じていました。
信じ続けていました。
言葉にすらしない想いを信じていました。
ひゅお、と勢いよく風が吹いた。彼女の長い髪は魚の尾鰭のように揺らめき、微笑んだ彼女をどこかへ連れ去ってしまう気がした。
「此処から落ちたら、確実に死ねるね」
映画館や雑貨屋たくさんのテナントが入っているデパートの屋上。平日なせいで人はまばら。屋上の駐車場を使うほど、混んでいないのだ。それが幸いなのか不幸なのかはわからないけれど。
「そうね、死ぬでしょうね」
フェンスの向こう側に立ち、二人で向かい合いながら明日の天気でも語るように私は答えた。それに対して、彼女はやっぱりかわいらしくにっこりと笑っただけだった。
「あんな場所に戻るよりは、きっと幸せになれるよね。あ、自殺は地獄行きかなあ…」
「さあね」
彼女が学校に来なくなって半年経った。いじめだの、教師と反りが合わないだの、よくあるはなしだ。優しい大人は言うだろう。『学校だけがすべてじゃないよ』『いろんな生き方があるんだ』『死んだらいけない』。
それでもその狭い囲いのなかに生きる私たちからすれば学校に通えないと言うのは「お前はもうお終いだよ」と告げられているに等しいのだ。先が見えない不安。大事なひとを苦しめる罪悪感。居場所を失う喪失感。
だから、
「ありがとう」
「なにが?」
「死んじゃダメだよって、言わないのちぃちゃんだけだったから」
「そうだね。でも死んで良いとも言ってないけどね」
「私の好きにしろってことでしょう?優しいね」
「あんたのプラス思考には感心するわ。でも私のそれは薄情って言うんだよ」
私も薄く笑った。
「でも、ありがとう」
彼女は言う。
ねえ、そうして笑えるなら、どうして、
出かかった言葉を、私は呑みこんだ。
――彼女が死にそうなまでに苦しんで生きなければならない理由は何?
私が両親に問うた返答はこうだった。
『生きたくても生きられない人がいる。だから生きられる人は精一杯生きるべきだ。』
正論だと思う。生きるべきだ。死んではいけない。死んだらなにも無い。
でも、苦しんでるひとにそれを言っていいのだろうか。私にはわからない。
病気で苦しんでいるひとがいる。病気は目に見えないから、他人に辛さを解ってもらうのは難しいだろう。ひっそりと躯を蝕まれ、戦わなければならない。それは苦しいだろう。
火傷で苦しんでいる人がいる。火傷は目に見えるから他人に心配してもらえるかもしれない。けれど、本人は醜く残った傷跡に苦しむのだろう。
同じ苦しみ。しかし種類の違う苦しみ。それを比べて、どちらがマシかなど言うことは私には出来ない。
生きたいのに生きれないのは苦しい。死にたくて死ねないのは苦しい。
どちらも、苦しい。
「じゃあ、そろそろ行くね」
また明日、と続きそうな声音で彼女は言う。
彼女が私の手を握った。細くて、でも温かい手。それを私は乾いた瞳で見つめた。
「一緒に、死んで欲しいんじゃないの?」
「ううん。だって、ちぃちゃんはこんな高い所から飛べないでしょう?怖がりだから」
「……そうだね」
「ちぃちゃん」
「何」
「ちぃちゃん」
「な、に……?」
「泣かないで、ちぃちゃん」
いつの間にか零れた涙。その通り道を、風が撫でてすぅすぅした。
――泣かないで、
ああ、彼女の口癖だ。
幼稚園、転んで怪我をしたとき。小学校、友だちと喧嘩したとき。中学、好きなひとにフラれてしまったとき。高校、わたしが彼女になにもしてあげられなかったとき。
泣かないで。ただ一言。この子が言うのはいつもそれだけだった。だから好きだった。陳腐な言葉よりずっとずっとやさしい。なのに、
「……やだ、よ」
喉に張り付いた制止の言葉は彼女には届かない。するり、と握った彼女の手が解けていく。
「ちぃちゃん、大好き」
ふわ、と彼女が微笑んでゆっくりと空を仰ぎ、背を虚空へと預ける。
「――!」
私は手を伸ばす。指先だけが僅かに触れて、届かず。そして――
私はあなたの声を聞いていました。
聞こえていました。
声にもならない叫びを聞いていました。
あなたは私の心を信じていました。
信じ続けていました。
言葉にすらしない想いを信じていました。
だからあなたは私に許可を求めました。私は許可を与えました。あなたは知っていたのでしょう?私があなたに許可を与えることを。
『あなたが決めればいい』
私のその言葉があなたを殺しました。
ありがとう、と言うくせに一言も謝罪しないあなたは、悔いていないのでしょう。
でも、
「――ごめんね」
生きて欲しいよ、って言ってあげられなくてごめん。
死んでいいよ、って言ってあげられなくてごめん。
最期まで孤独にしてごめんね。
――泣かないで
その声を、その言葉を一番望んでいたのはあなただった。
なかないで。
優しい言葉を思い出して、あふれるのは涙。
わたしはきみが、だいすきだった。
君の死を拒めないくらい、に。
090903
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