ナターシャは此処にいた
愚かなヘンゼルとグレーテル。お前たちが小石を辿って家に帰ろうと、何の意味もない。
愚かなヘンゼルとグレーテル。一度はお前たちの帰宅を喜んだ父親も結局はお前たちの味方ではない。
愚かなヘンゼルとグレーテル。継母に悪役を押し付けて、微笑む父親は悪魔の顔。
ああ、愚かなヘンゼルとグレーテル。それでも君たちは幸せだった。
鉄くずと、油と、生ごみの臭い。それが僕たちの生活だった。誰もこない森の奥、そこにあるボロ屋が僕たちの家。
当然住所なんてない。ファミリーネームは殺人鬼の父親のおかげて捨てる羽目になった。母親の顔は知らない。
僕たちは放逐された、忘れられた生き物。
生きていたいわけではなかった。でも死ぬ勇気もなかった。適当にあがけばあがくほど、死という救済は遠のいて、僕たちを無駄に生かし続けた。
一週間に数回、食事が摂れればよかった。
風呂もなくても構わない。
服はとりあえず着れればいい。
兄弟揃って顔だけはまあまあよかったから、髭をそってたまに水浴びをして街にいけば『そういう趣味の人たち』が優しくしてくれた。
ゴミ捨て場から拾ってきた汚いソファに寝そべって、兄は器用に煙草を吸っていた。くすんだブロンドが何日も風呂に入ってないせいでべとついている。
野菜くずを適当に炒めた昼食を終えて、僕は兄に声を掛ける。
「ユーリ兄さん、僕は今日出稼ぎの日だからね。火の始末には気を付けてよ」
「ん」
「ああ、ほら、灰が落ちるよ。火傷する」
灰皿を差し出すと、兄は無言で煙草を押し付けた。僕は久しぶりに川で身体を洗った。ドライヤーなんていう高価なものはないから、髪は濡れたままだ。
この国は寒い。冬は雪に覆われ、夏はただ名ばかりの、雪が降らない程度の暖かさ。
それでも今は夏だから、濡れたままで構わない。
「ラヴィ、俺は今日は街の方に仕事に行く」
「兄さん、そんな」
父が『趣味』で大勢の人を殺めてから――そして父がその報復に街の人に殺されてから――僕たちは街へ近づかなかった。この国の人たちは皆パーソナルスペースが極端に狭い。そのせいか、街から街へ移動しても、すぐに噂が広まって住めなくなった。
僕は一度も触ったことがないけど、スマホやパソコンといったものが普及しているせいもあるだろう。
とにかく、街は僕たちにとって安全な場所ではなかった。彼等にとって僕たちは忌まわしい怪物の子であり、僕たちにとって彼等は狩人だった。
「無理に街に行かなくてもいいんじゃない?」
「……俺は死んでもいいが、お前が飢え死ぬのは困る」
「なんだそれ。わけわかんない」
僕は笑ったものの、兄さんの言う事の意味が良く分かっていた。
本当は、死にたくないのは僕で、死んでしまいたいのは兄さんだった。
死にたくて、死ぬ勇気もある兄を二十歳になるまで此処に引き留めていたのは僕にほかならない。
痛かろうが、おぞましかろうが、どんな死に方でもいい。
死ねるなら死んでしまえ。こんな無意味な生。
兄はいつもそう思っているに違いなく、それでいて今もなお生きているのは僕が死ねないからだ。
「じゃあ、僕も仕事行ってくるね。夕方には帰るから」
街の外れはホームレスなどの社会負適合者ばかりが集まる。そこに、僕みたいなクズでもせいぜい夕食代くらいの稼ぎになる程度の仕事がある。
それができないときは、川で身体を洗う。
家を出ながら、僕は振り返らずにちいさく囁く。
「ごめん――兄さん」
僕に死ぬ勇気があれば、兄さんはこんな卑しい生にしがみつく必要はなかった。
*
「やめて、やめて――!」
「おねがいだ、妻だけは」
その先に続く言葉ごと、なんの感慨もなく消して見せた。
もともと汚いんだ、服が汚れるのは構わない。靴も、履いてないから問題ない。
びしゃりびしゃりと素足が赤く染まろうと、関係ない。
俺にとって弟がすべてだった。
あの最低クズ野郎の父親が殺された時はせいせいした。街から放逐された時は、安堵した。
金さえたくさんあったのなら、それを弟に託してさっさと死ねたのに。
ラヴィ。ふたつ下の可愛い弟。
生れた時から何一つ、幸福なんて知らないであろう弟。
家と呼ぶのもおこがましい、ハリボテの我が家には風呂がない。でも近くに川がある。
金が足りなくなると、弟はその川で身体を洗う。
そんな事をさせたくはなかった。でも止める事もできなかった。
俺は死んでもいいと思って生きているが、あいつは生きたいと望んで生きているからだ。
「……しょせんは俺も親父と同じ生き物か」
最近『街』で貰えるようになった仕事は、父親が趣味でしていたのと同じ内容だった。おぞましいことに、俺は恐怖も嫌悪も憶えなかった。
しょせん、蛙の子は蛙で、何にも成れはしないということだ。俺は父親と同じ間違いを犯し、そしてそれを後悔する能もない外道。
そんな俺が弟を幸せにしようとすればするほど、きっと弟は不幸になるんだろう。
雇い主から金を受け取って、帰路につく。できるだけ人が通らない道を選んだ。
俺の顔を知る人がいたら、たちまち騒ぎになるに違いない。
この国は、この町は、情に厚く排他的だ。
素足で森への道を行くのは少しだけしんどい。砂利や木の枝が足裏に刺さる。
「はーっ……たりぃ」
流石にだるくなって、草むらに腰掛ける。
「このままなー死ねたらなー楽なのに」
そんな言葉を吐いた直後だった。背後の雑木林から何かが動く気配がした。この辺は野生動物が多いからたいして驚きもせずに振り返る。
しかし予想に反して、そこにいたのは七歳ほどであろう少女だった。
「……迷子?」
思わずそう口を突いて出て、すぐに違うとわかった。
袖のない、真っ白なワンピース。素足。本来美しいであろうブロンドは泥だらけ。
青い瞳は凍ったように感情が見えない。
少女の左手にはやけに大きな袋が握られていた。
「……どうしたの、君」
取りあえずそう話しかけてみても、少女は喋ろうとしない。怯えているのかとも思ったが、そうではないらしい。色のない瞳は、人馴れしていて、また値踏みする事になれている特権階級のそれに似ていた。
「……これ、あげる」
少女は持っていた袋を差し出す。受け取って開いてみると、硬貨と札束が大量に詰まっていた。しばらくは遊んで暮らせそうな額である。
「あげるって、明らかに怪しいだろ、これ」
「あげるから、一緒に連れて行って」
「は?」
「お母さんが『このお金をもらってくれる人と暮らせ』って言ってた。たぶん私――捨てられたの」
「お前、名前は?」
少女は少しだけ哀しそうに微笑んで、言った。
「――ナターシャ」
*
兄さんが女の子を拾ってきた。
「あのねえ!僕たちにそんな余裕ないでしょうが!金銭的にも精神的にも。見て!今日僕が稼いできたお金!これだけなんだよ。パンが一個買えるか買えないかなの!」
「……たぶん当分金は問題ない」
そう言って兄さんが放りだした袋には、沢山の金が詰まっていた。
「なにこれ?」
「このガキが持ってた」
「は……?」
「『街』で生きていけない訳アリの子どもだろう」
「この子……も」
女の子を見る。ほっそりとした手足には痣がある。しかし顔はとても綺麗だった。それはおそらくこの子の親が虐待していることを周囲に知られないようにしていたからだろう。
なんらかの理由でとうとうこの子は捨てられた。これだけの金を捨てる子に持たせるのだ。さぞ、金持ちな家なんだろう。
「名前は、ナターシャだそうだ」
ナターシャ。その名は顔もしらない僕たちの母親と一緒だった。
*前 しおり 次#
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