痛い痛いとあなたはわらう

「死ぬも勝手、死なぬも勝手――」

 吐き出した言葉が思いのほか震えていて、俺は笑う。
 好きな本の言葉だった。馬鹿のひとつ覚えみたいに、それだけ唱えて生きて来た。

 暁九ツの鐘が鳴る。捨て鐘が三回。そのあとに九回。鈍く響く音が、江戸の町の夜に降り注ぐ。
 吐く息は白く、なのに俺のさらしで覆われた腹は真っ赤で熱い。
 冬の夜空は墨を零したみたいな黒色だ。そこに金平糖をぶちまけたみたいな、綺麗な綺麗な空の下で、俺は今汚く穢れ、死のうとしている。

(あいつらは――どこにいきやがった)

 俺のどてっぱらに穴をあけてくれた奴に報復を誓いながら、傷口を抑える。めらめらと、むらむらと怒りが湧いてくる。

(俺の縄張りと子分に手ェだしやがって、殺す、殺す……あの野郎ども)

 背がうずく。此処で生きると決めて、そして今俺は今此処にいる。
 所詮くだらない、ならず者同士の縄張り争いではあったが俺なりに守るべきものがあったように思う。それがやくざ者の下らない矜持であったとしても。
 だからこそ、此処で生きて此処で死ぬ。
 そう決めた自分が悪いんだからと、俺はもう一度笑う。口の端から血が垂れて、でもそれは慣れ親しんだ味でもあった。先程まで俺の後ろで怯えていた可愛い弟分たちの顔、そいつを殴ったやつらの顔、におい、色、持っていた匕首。
 舐めるように、抉るように、何度も鮮明に思い出しては俺の心はどんどん尖っていく。

(殺す――ころす、ころ、す)

 どこまでも獰猛な、本性であり本能がとにかく俺をそう駆り立てる。

 だから嗚呼、先程口にした言葉の先を、俺は余計に思い出す。

『勝手を尽くして私は死のう。
 私の名前の一文字を、貴方が憶えていれば
 それで良い』

 あの言葉が俺の背を押した。後悔はしていない。今も、きっと――。

「……っ、ふ……」
 
 そうこうしているうちに、血の気はさらに失せ、目が霞んでくる。
 浅く睫毛を伏せて、自分の呼吸に集中していると、目の前がふと明るくなり鰯油の悪臭がふっと香った。

 提灯を突き付けられてる、とようやく理解した俺はのろのろと顔を上げる。
 背の高い、細面の女がこちらを面白そうに覗き込んでいた。

「あら、なかなかにいい男」

 女は何が可笑しいのか、けらけらと明るく笑う。その女の冷えた指先が、俺の顎を掬って目を合わせてくる。

「それに、きったない狗だけど、なんてまあ綺麗な黒曜石」
「……」

 血みどろの男を捕まえて、この女は何を言っているのだ。気でも触れているのか。そう思いながらも、もう抵抗する力が残っていない。

「良いね。あんたは好ましいよ。卑しくて穢くて、でも――それが最高に気持ちいい」

 どこか恍惚とした――欲情ともとれる聲が、ただ笑う。

「抵抗しない、返事もしない、と。じゃあ尚更、私の自由にしようかね」

 女の両手が俺の頬を包む。
 真正面から合わせた瞳は、色も無く、形も無く、ただ伽藍洞の闇を湛えていて――あの夜空のように美しかった。


***


 何が面白いのか、女は俺を拾って帰った。八畳ほどの畳の部屋には青臭い墨の匂いが漂っている。この女はひとり暮らしらしかった。
 ぼんやりとした灯篭の灯りで見えた女の顔は――まだ若い。そしてとても美しい事に気が付いた。結い上げた髪のおくれ毛がなんとも艶めかしい。しかも、どうやら銭湯帰りだったようで、髪はしとどに濡れていた。

「ほら、力抜かないと痛いのはあんただよ。傷が痛むだろう」

 ますます訳がわからない。風呂上りなのにわざわざ血に汚れてまで、こんな極道者を拾う意味などないだろうに。女は手際よく延べた床に俺を横たえて、沸かした湯で濡らした手ぬぐいで俺の血を拭う。

「ん……は、ぁ……」

 熱い湯が傷に沁みる。俺の反応を見て、女は笑う。

「痛そうだね。ふふ、そんなに痛いんじゃ、すぐ死んじゃうかもね?」

 だから何がそんなに楽しいんだ。なんで人が目の前で死にそうになってるのに、そんなに明るいんだ。この変態めが。

「……うる、せえ」
「ん?あら、刺青じゃないか。ほうほう、桜に鐘とはまあ、情緒があること。わかっちゃいたけど、あんたやっぱりやくざ者かい」
「……お前、俺を、かばって、も……なんの得もねえぞ……」
「得かどうかは私が決めることで、お前さんが決めることじゃないさ。それに、ね」

 女は整った顔をずいと俺に近づけて、猫のようにふっと瞳を細めた。

「此処であんたが死んだとしても、私のせいじゃないしね?此処で死んだとて、それはあんたのせいさ。私は他人の人生まで、責任持たないよ」

 この短い時間でわかった事が二つある。ひとつは、この女は死に対する価値観がたいそう軽い事。そしてもうひとつは――

「私は楽しければ、なんでも良いんだ。そこまであんたに興味ないよ」

 とても、優しく突き放してくれるということ。

「そ、うか――ありが、と……う」

 俺が礼を言うと、女はきょとんとした後、けらけらと声を出して笑い始めた。

「あーはは、やっぱり面白い。拾って良かった。ねえ、どうしてこの状況であんたはお礼を言うんだろうね?何があんたをそうさせるのかね。面白い狗だこと」
「『死ぬも勝手、死なぬも勝手』だろ?……だから、さ」
「……その言葉は?」

 女は驚いたように目を丸くする。

「すきな、ほん……」

『死ぬも勝手。死なぬも勝手。――勝手を尽くして私は死のう。
 私の名前の一文字を、貴方が憶えていればそれで良い』

 あの言葉に出会ってから、俺は自身を省みることも顧みることもやめた。任侠と言うのは広いようでいて、その実とても狭い世界であり、結束も強ければ当然そこに生じる情も深いもので――だからこそ、捨てられないものの重さに絶望すらした。

(ああ……そういえば、あいつらは大丈夫か)

 やっぱり思い返すのは弟分たちであり、親分であり、兄弟たちであった。死に近い此処で生きるのには重すぎるほどの、大切なひとたち。

(だから――)

 だから、どうか俺が死ぬときは同じ重さを伴わずに、捨てて欲しい。名前のすべてじゃなくていい。名前の一文字だけ、ほんのちょっと憶えてる程度の存在で良い。
 突き放して、放っておいてくれれば、いいんだ。

 図らずとも、この女は俺の意を汲んだ。とてもありがたい気分だった。たったそれだけの事なのに、単純な俺は深い恩義を感じた。
 だからこそ俺は口調を改めて、乾いた口で拙く問う。

「……貴女、の、なまえ、は?」
「名前、ね……」

 名を問われて女は少し考えるようなそぶりを見せる。

「うん、そうだね。――透。透と呼んでおくれ」
「――……と、おる」

 彼女の名乗った名は、なぜか男のものだった。その理由を問う間もなく、睡魔と痛みが同時に襲ってくる。

「そういえば、あんたの名は?」
「――なぎ。凪」
「凪。良い名だね」

 ふわりと。暗い灯りの中で女は微笑んだ。さっきまで浮かべていた、得体の知れない笑みじゃない。母親が幼子を見るような優しい微笑みだった。
 ああ、この人は似合わない名前だって笑わないのか。

 そんな思考を最後に、俺は眠りに落ちた。


20161207

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