由無し心の行く末は
私はいつも思い出す――私が殺したあの人について。
「姐さん!居るか、姐さん!」
物思いに耽る暇もありゃしない。私が住む長屋の一番端――そこの扉を勢いよく引いて、今日もこの極道者は私に会いに来る。
私は執筆中の原稿から顔を上げる。版元への提出は明後日だ。今回も売れると良い。
「元気か?姐さん。相変わらず細いなあ。そんなんじゃ、すぐ倒れちまうぞ、姐さん」
姐さん。
本名でないとはいえ、一応名を教えたと言うのに男は何が楽しいのか、にこにこと私をそう呼ぶ。
本来は精悍な顔つきをしているはずだけど、この男はいつもしまりないふにゃふにゃとした顔をしている。仕方ない。今は冬でもこの男の頭のなかは多分に春のうららなのだ。
「五月蠅いよ……。扉は静かに開けて欲しいもんだね。あんたが来るようになってから、扉の傷みが激しいって大家さんに言われてるんだ」
あの夜、風呂に入って酒を飲んで、いたく機嫌の良かった私はこの目の前にいる極道者を拾って帰った。血みどろで穢かったけれど、薄く開いた瞳はとろりとした黒色の輝きを持っていていたく興味を惹かれた。
酷い怪我だったけれど、医者を呼んで、傷の手当てをし、食事を摂らせたら半月程度で快復した。なかなか人と言うのは頑丈にできているものである。それから――
「姐さん。今日は花林糖が手に入ったんだ。姐さんが好きだと思って沢山持ってきた。食べてくれ」
この狗は――なぜか私に懐いた。
「ん、ありがとう――」
甘いものが好きだと言ったら、こうして日に何度か菓子やら蜜団子やらを持ってくるようになった。この男――凪が包みを差し出す手をふと見遣ると、真新しい傷が幾つか見える。
「あんた、また喧嘩してきたのかい?死にかけたのはまだ半月前のくせして元気だねえ」
私がそう言うと、凪は気まずそうに目を伏せた。
「すまない」
「私に謝る必要はないさ。それがあんたの生き方なんだろう?」
花林糖をひとつ摘まむ。とても甘くて、執筆活動に疲れた頭にはありがたい。ざくざくと菓子を咀嚼しながら部屋を見回すと、今朝汲んだばかりの水がまだ桶にあったので、布で浸して凪の手の傷を拭ってやることにした。
「うっ……」
凪が小さく呻いた。
手の甲の傷は見るからに刃物でやられた『それ』であるし、爪の間には乾いた血が詰まってる。手のひらは硬く、豆ができている。この男は武器を持ち、人を傷つけ慣れた手をしていた。
だというのに、私がこうして傷を見てやるとそれはそれは痛そうな顔をするのだ。果たして、男と言うのは痛みに弱い生き物だと聞く。凪もそういう類なのだろう。
「姐さんは、俺の事を仕様も無い人間だと思うか」
「さあね?別にいいんじゃないかい。私はあんたの職業について詳しくはないけど、喧嘩するのがあんたの仕事の一部みたいなもんじゃないのかい」
「それはそうだが……人を傷つけているのには変わりない」
そう言っては叱られた犬みたいに項垂れているので、私はなんだか可笑しくなってしまって、つい声を出して笑ってしまった。
「あんた、他人を気にしすぎだよ。あんたが何人殺して、どれだけ人を傷つけて来たかは知らないけど、きっと私だって沢山人を殺してる」
「え」
「私の本、読んだことあるんだろう」
私の職業は、作家である。まあそこそこ有名なほうで、題名を言えば大抵の人が読んだことがあると答えるだろう。ただ、女だてらに作家だのと名乗ると馬鹿にする奴らも多いので、作家名は男の名を名乗っている。
「佐野透――心中物で死者多数、幕府は発禁処分を命じた、なんて瓦版に書かれたこともあったよ。まあ、事実だしね」
「でも、それは……姐さんが悪いわけじゃないだろう?」
「そうだね。私は悪くないよ。でもね、私は死人が出るだろうって事もわかってた」
凪の手の、ひときわ大きな傷を撫でる。まだ乾かぬ彼の血が、私の指先にすうと滲んだ。
「わかっていて、書いたんだよ」
数年前に書いた、心中物。それを書くように勧めた版元のご主人は『これは売れる』と嬉しそうにしていた。内容はありきたりな、大店の娘と手代の男の身分違いの恋愛物。引き裂かれ――絶望したふたりは海に身を投じるというものだ。
「名が売れているという事は、影響力もあるって事だ。そんな私が心中物なんて書けば真似する馬鹿は沢山いるだろうね」
私はただ、家で筆を動かしていただけ。それだけで、顔も知らない人がたくさん死んだ。
私もこの男と大差ない。人が死ぬと理解していても、己を抑える事も知らぬのだから。
「それでも私は『書きたくない』とも『売るな』とも言わなかった。だって売れるってわかっていたからね」
「姐さん……」
「お前の言葉を借りるならば『仕様も無い』だろう?でもね、あの本が発禁処分になったおかげで私の本の愛好家は逆に増えたんだ。財布も潤った。そしてそれを私は悔いた事はないよ」
言葉通り、私は傷つくことも自責の念に駆られることもなかった。少なくとも数十の死者を出したあの本は傑作だとすら思う。
そこまで言って凪の顔を見ると、まるで私の代わりに傷ついたような顔をしていた。
「凪や」
嗚呼、馬鹿な男。
お前がそんな顔をしたってなんの意味もないんだよ。
人を殴り、殺し慣れているくせに、あんたは人の死には慣れてはいないんだね。
「だから、そうやって負い目を感じてる分、あんたの方が『まとも』なんだろう」
まだ血の滲む手に、布を巻いてやろうと当て布を割く。こいつのおかげで、傷の手当ては随分慣れた。
ただ、慣れないのは――
「姐さんは――悪くない」
布を持つ私の手を、凪の大きな手が包む。祈るようにその手に額を預けて、彼は言葉を繰り返した。
「姐さんは、悪くないよ――」
凪の、水で湿らせた傷口から、とろりと新しい血が伝って私の手を穢す。ぼんやりとそれを眺めながら、人を殺して生きているのならば、それは殺した人に生かされている事と同義なのだと私は思う。
流した血の分だけ、こいつは永らえていくのだろう。
そしてそれはきっと、私も同じことだ。
「っと……ああ、穢してすまない」
今度は凪が、私の手を拭ってくれる。丁寧に、丁寧に、手の甲から指先まで宝物を磨くようにそっと。
私は笑う。
「馬鹿だね――私は赦しが欲しいんじゃないよ」
赦しなんて欲しくない。だって、罪悪感すら抱いていないから。赦される必要すらない。顔も知らない人間の事なんて、本当にどうでもいいと思っているのだから。
(ただ、――)
私はいつも思い出す――私が殺したあのひとについて。
(私がほんとうに殺したのは、あのひとだけ)
この手で、この筆で、何人死人がでようとも、思い出すのはたったひとり。
「わかっているさ。でも姐さんは――悪くなんてないんだ」
頭がからっぽなこの男は、何度もそう繰り返す。
雛の刷り込みのように、無垢に私を慕うこの男は――人を殺したその足で、私の家を訪ねてくる。
血の乾かぬその手で、菓子だなんだと差し出して、笑う。
「俺は姐さんが、好きだ」
この男が吐くそんな在り来たりな睦言には既に慣れている。ただ、
(ああ、今日も――)
時には硝子玉のように澄んで――時には矢じりのように鋭いこの目には、未だ慣れずにいる。
2016/12/19
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