Sickened 01

 何年も生きていて病まない人間なんかいない。
 薬も摂り過ぎれば毒となり、五分前の天国は容易く崩れ去る。
 なんの保証もない。なんの希望もない。だから、生きる事は壮絶で美しい。

「うげっ……げぇ、っ」

 それが落書きだらけの裏路地で嘔吐している、余命一年の女の生であっても。

 地面についた手が、ざらついたアスファルトを這う。身を起こそうと肘を付くが、力が抜けてすぐに吐瀉物まみれの地面に突っ伏した。

(耳が……良く聞こえない)

 激しく嘔吐したせいだろうか。血流の激しさだけを物語るようにばくばくと脈が打つ音だけが耳に響く。
 喘鳴を繰り返しながら、ケイトは首から下げた十字架を握りこむ。

(パパ……ママ……)

 父は敬虔な人だった。
 母は純真な人だった。
 どこにでもいる、善良な人間だった。

「――〜〜〜!!――!?」

 遠く、いや近くかもしれない。喧騒がわずかだが聞こえる。
 ブゥン――と重く野暮ったい街灯の音に混じって、それはだんだんとはっきりした声になる。
 そしてダン!と自分の目の前に倒れる男と、その男に馬乗りになりさらに首を絞める男。

「やめっ……!」

 馬乗りになった男は、片腕で男の首を押さえつけながらもう片方の手で何度もナイフを振り上げた。

「うげ、があ!」

 目の前で何が行われているのか、わからない。
 男がナイフを振り上げるたびに、その血液がケイトの顔にびしゃりびしゃりとかかり、ぬめるその体液の温かさを知る。命が凝縮されたその液体で、自分がまだ生きている事を。

(感覚が戻ってきた……)

 こんな時に。
 いつだって生きるという事は、タイミングを選んではくれない。
 次にはっきりしてきたのは嗅覚だった。自分も良く知る鉄錆のような匂い。
 自分の横に倒れた男は死に、その上に跨る男はその咽かえる臭気に酔うように、恍惚と目を見開いている。

 怖い。
 その目がこちらを向くのが。そのナイフを此方に向けられるのが。
 死ぬのが――怖い。

「……あ」

 掠れた声が出る。そこで声で初めてこちらの存在に気づいたように、男が自分に目を向けた。

「こんばんは。お取込み中みたいだったのに、突然失礼しました」

 意外にも穏やかな声音だった。そして男はケイトにのし掛かりながら言う。

「こんな所で人が寝ているとは思わなかったもので」
「い、や……離して!離してよ!」
「でも見られてしまったので。ああ、でも――貴女」

 見下ろす男の瞳が、つまらなさそうに細められる。

「――すぐに死にそうですけど」

 品定めをするように、男は上から下までねめるようにケイトを眺めた。
 艶の無い栗色の髪。かさついた肌。落ち窪んだ眼窩に、痩せて萎えた胸。

「ドラッグのやりすぎですか?つまらない生き方をしていますね」
「違う、これは」

 違わない。今日はこの路地裏で、ドラッグを買った。でも私が死ぬ原因はこれではない。
 しかしそれをどうでもいいというように、男が首を絞めてくる。
 
「がっ……ぐぅ、う」

 力の入らない手で、それでもケイトは男の手首を掴む。
 息ができない。食いしばった口元からは、涎が垂れてくる。苦しい。涙が零れた。
 男の皮膚を掻きむしる。爪にそれが詰まるのに、さらに吐き気を感じる。男の力が緩む一瞬に、大きく呼吸をして酸素を取り込む。
 男の手首に深く食い込む指に、どちらとも知れない血が滲む。

 ――ほう

 男が感嘆したような、あっけにとられたような吐息をもらす。

 やがて男の力が緩み、細められた蒼い瞳の色が潤んでは輝く。
 とろけた飴のように艶やかで、いとおしい何かを見つめるように甘やかなそれを、ケイトは憎悪した。

「さっきの男は、あっけなかった」

 喘ぐように、囁くように、意外にも優しい声が告げる。

「貴女は良い。死にかけなのに活きが良くて、ちぐはぐだ」
「離して――!」
「ねえ、死にかけのお嬢さん。貴女は今夜には死んでしまうんですか?」

 明日の予定を尋ねるように、男は微笑んで問う。
 見かけだけじゃない。内臓もぼろぼろのケイトにそう問う男は、見る目があったのだろう。
 ケイトは今日死んでもおかしくはなかった。でも、まだ――

「まだ、死なない。医者には余命は一年と言われたばかりだから」

 言いながら、さらに溢れる涙を拭う術もなく、ケイトは続ける。

「だから見逃して……。誰にも言わないから、静かに死にたいだけなの。親も兄弟も、友達だっていない。気になるなら確認してくれてもかまわない。医者にもかかっているから、言質を取ってもらっていい」

 そんな面倒な手順を、この男が許してくれるとは思えない。それでもケイトは乞うた。

「だから殺さないで……」

 男の血に濡れた手がするすると、彼女の首筋を撫でる。それはどうするか、考えあぐねいているような仕草だった。

「いいでしょう。でもひとつ、条件があります」

 この男は文字通り、悪魔のようだった。こんな状況下では、条件などと言った生易しいものではない。

「僕に、貴女の死を看取らせてください」

 それは強制で――支配だった。

「僕は見つめていたい」

 男はケイトの耳元で囁く。

「貴女ではなく、貴女の死を」

 ケイトの胸元の十字架を目の前に持ち上げ、男はうっとりとキスをした。


20220120
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