Sickened 02

「触らないで――!」

 男の手から十字架を取り返したケイトは、それをぎゅうと握り締める。錆び、焦げたあとの残るその十字架はケイトにとって何よりも大切なものだった。

「あんた何言ってんの?気色悪い。私の死を看取りたい?冗談じゃない。あんたみたいな変態に私の死を玩具みたいに扱われるなんて、絶対いや!」

 ケイトの叫びを、男は当然だと言うように頷いた。

「そうですね――私的な死」
「は?」
「誰にでもそれを望む権利がある。でも、今の貴女にはそれはない」

 十字架に繋がるチェーンをなぞりながら、男は言う。そして言葉を告げるそのままに、それを力任せに引きちぎった。

「いっ……――!」

 ぶちぶちと裂けたチェーンと共に切れた皮膚に、血が滲む。

「信心深いお嬢さん。今、貴女の神は僕ですよ」

 その笑んだ瞳がおかしいほどに笑っていない。まったく話の通じる相手でない事は明白で、ケイトは戦慄する。

「さあ、選んで」

 此処で死ぬか。
 一年後に死ぬか。

 神をのたまう男は、そんなひどい選択肢を穏やかに強いた。


***



 両親が死んでから、伸ばされた手はすべて拒んできた。医師にもカウンセリングにも通ったが、話を聞けない医師に何が救えただろう。

 鬱とは、パニックとは、人生とは、死とは。
 それらはすべて患者が決める事で、医師が偉そうにご高説を垂れるものではない。患者が感じる苦痛を『理解』できない医師は、いない方がマシだろう。
 結局ケイトは言葉少なな医師を選んだ。
 ケイトにも病状にも関心のなさそうな医師は、処方薬だけは大量にくれた。

「で、それを乱用したあげくにドラッグにまで手を出して内臓をぼろぼろにしたと」
「……」
「馬鹿みたいですね。結局救いにならなくて」

 自宅の自室。ベッドの上。両親が遺してくれた一軒家と、両親を死なせたやつらがくれる賠償金でケイトは暮らしていた。
 しつこく経緯を問う男に嫌々と説明はしたが、必要以上の会話をしたいと思わなかった。
 それでも男は退屈を嫌うようで、何かを思いつけばケイトに質問をし、自分の考えを述べ、良く喋った。

「あ、そうそう。まだ名乗っていませんでしたね」

 ケイトはうんざりと男を睨む。
 短くこざっぱりとした栗色の髪に、シンプルなシャツとベスト。眼鏡の奥で微笑む瞳は深みのあるブルーだった。
 大人しくしていれば、読書などを好みそうな印象を受ける。
 ピアス痕もないし、見える範囲にタトゥーもない。
 ただ客観的に――あの殺人現場を目撃してないと仮定すれば――微笑むと華のある男だった。

「知りたくない」
「まあまあ、知らないと不便ですから」
「勝手にして」
「ユージーン・ラム」
「それ、本名?」
「いいえ」

 当たり前のように否定して、男は続ける。

「でも、気に入っているんです。この名前」

 ふっと男は微笑んだ。あの夜とは違う、心からの笑み。ケイトは初めて男が見せた人間らしい表情に、少しだけほっとした。
 底知れず、相容れないものと一緒に居るのは恐怖でしかない。ならば、嫌でも知って対策を練らねばならない。

「……」

 これほどこの男に似合わない名もあるだろうか。
 羊は――神に好ましいとされる動物である。善良な羊。世話をされ、良き未来に導かれるべき神のいとし子。

「この名前をくれた人は、きっと皮肉でつけたんですよ」
「わかっているじゃない、あんた」
「『ジーン』と。親しい人はみなそう呼びます」
「親しくならないから大丈夫」
「それは残念です」

 肩をすくめて男は――ラムは言う。

「では、ケイト。貴女から訊きたいことは?」
「ある」
「なんでしょうか」
「何であの男を殺したの?」
「……」

 あの後、ラムは死体の始末をつけると家を教えろとケイトを脅し、そして帰宅すると疲れたと告げて、あっさりとソファで眠りについた。
 通報しようか迷い……それとも――と迷い、結局ケイトは何もできなかった。
 身体が重い。息が苦しい。眠りたいのに眠れるはずもなく、処方薬を水なしで飲み込む。
 なんとか壁を伝い、自室に戻った。しかし男もあっさりと目を覚ましたらしくその後はケイトの傍から離れる事もない。

 大嫌いな朝日がありがたいと思ったのは初めてだった。
 明るさは人ではないようなこの男が、確かに人間だと教えてくれた。一番恐ろしいのは知らないままでいる事だ。
 ケイトはこの男を知り――支配されないようにしなければならない。

 質問の意図を図りかねたラムは少し悩んで、しかしあっさりと答えた。

「趣味です」
「……敵とかじゃなくて?」
「仇討ちなんて、法がある今意味がありませんよ」
「そう?私は殺してやりたい奴いっぱいいるけど」
「それは興味があります」
「あんた悪趣味ね」
「自分が理解されるとは思っていませんから」

 ラムはベッドの端に腰掛ける。ぎしりと音を立てて、そこが沈む。

「僕みたいな異常者はたくさんいます。それでも、異常者は異常者なりに世間に馴染もうと思ったりもするんですよ。でも、どうしてこう生まれてしまったんでしょうね」

 少し考えるように口元に手をやって、彼はあっけらかんとした口調で続ける。

「気が付けば、生き物の命を掌握した瞬間が好きでした。首を絞めて気絶させて、蘇生措置をして、息を吹き返したところをまた殺す。その瞬間がどうしようもなく好きなんです」

 吐き気を催す内容に、ケイトは質問を悔いた。わかりきっていたが、この男はあれが初めての殺人ではないのだ。

「それなのに昨晩は貴女のせいであっさりとやらざるを得なくて、物足りなかったんです」

 ああ、そうだ。
 思い出したように呟いて、ラムが身体をこちらに向けた。そのままベッドに乗り上げて、ケイトに向かって手を伸ばす。
 
「な、なに」

 びくりと身体が跳ね、次には恐怖で竦む。
 しかしラムは意に介さず、彼女の首の後ろに両手を伸ばした。

「簡単ですが、紐を通しておきました」

 胸元に冷たい金属の感触。
 馴染んだその感覚にはっとして手をやると、それは形見の十字架だった。
 酷くたよりのないよれた革紐に繋がる、ケイトの――

「――これに執着があるようでしたから」

 ラムはそっとそれに口づける。

「この汚い十字架に何があるのか――またゆっくりと聞かせてください」

 耳元で囁く悪魔は、ケイトの『私的』をすべて奪う気なのだと今ようやく理解した。
 紐の修復は善意ではない。ケイトを蹂躙する要素をひとつでも増やすためだ。
 拒否権はない。
 でも支配はされたくない。

 約束も。
 慈悲も。
 愛も。
 優しさも。

 この男にはなにも期待していない。
 くれるとしても、受け取ったりはしない。

 しかし――

 あと一年生きるために、ケイト・ジョーンズはある決意を固めた。


20220124
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