驟雨に沈むは白、ひとつ
――もういいかい。
誰かが、問う。
目前の滝がざあざあと音を囃す。水気を含んだ風が蝶子の髪に飾られた白い鈴を揺らして、りぃんと響いた。
風鳴りにすら沈まぬこの音を、彼女は愛していた。
――もう、いいかい。
問われた言葉は波紋を描きながら彼女の耳に滑り落ちる。
雨に言葉があるとするのならば『彼』はあるいは『彼女』はいつもそう蝶子に問うているのだと思う。
それは濫觴。それは宥恕。それは海容。
もういいかい、と。問い続ける彼等は蝶子に答えを求め続けている。
目前で轟々と厳かに滝が流れている。勢いのある水流が巻き起こすわずかな風が、蝶子の纏う艶やかな着物の袖を、花のように揺らしていた。滝の下流は下ってきた水で湖ができあがる程に広い。この国――瀬那の人々はこの滝を憐花の滝と呼んでいた。
水が清く豊かな瀬那の国はまさにそれによって栄え、国交にすら影響を与える。
「祈雨師様……。蝶子様……どちらにおいでですか。若君が探しておられます。すぐお戻りくださいませ」
蝶子を呼ぶ家人の声がする。
「今、戻ります」
そして赤橋蝶子は――彼女はこの国で雨を降らせる事ができる唯一の祈雨師(きうし)だった。
「またお前は無理をしていたんだろう」
開口一番に幼馴染はそう言った。
深い鳶色の瞳。秋を思わせる枯葉色をした髪。どこか色素の薄い青年は瀬那の王家――天都の一族の嫡子。名を天都秋夜という。
「雨の子を探すのには時間がかかりますから。私は……母のように優秀な祈雨師ではありませんから」
瞳を伏せる。赤橋家の長子は必ず女子であり、子を産むと祈雨師の力を失っていく。そして祈雨の能力は代々受け継がれていくのだ。
蝶子の母は非常に優秀な祈雨師だった。
「佐斐(さい)国との雨の受け渡しにはまだ時間がある。焦らずにいけ」
隣国との貿易に『雨』が含まれる。それがこの瀬那の国だ。
「ありがとうございます」
朴訥とした物言いの割に、彼は優しい事を蝶子はよく知っている。頭を垂れると鈴の髪飾りがまた揺れた。そっと秋夜がその鈴に触れる。指先で鈴を転がして彼は言う。
「猫に、鈴」
小さく。ほんとうに小さく。表情すら崩さずに彼は言う。
「猫に鈴みたいだ。お前がどこにいるかすぐわかる」
雨の子が迷子だとして。それを探すのが蝶子の役目だとして。そして雨の子を見つけた代償として彼女の心がその身に還る事が叶わなくなることがあったとしても、彼がこの鈴の音を追っていつか見つけてくれる。
そんな甘い夢を彼女は望みながらも信じてはいなかった。
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